2-14 世界の支配者
「な、何か……凄い魔力衝撃だったが……。先程の魔法は何だったのだ?」
アンジェリクを内心で恐れながらも、リオネルは平静を装って質問した。
「闇っぽい呪文が聞こえたような気がしたが……?」
「私たちが幸せになるための魔法の呪文よ」
アンジェリクは悪戯っぽく微笑んだ。
「さあ、もう此処に用はないわ。リオネル、戻りましょう」
アンジェリクはそう言い、部屋の隅に立ち尽くしているシャミナード枢機卿を振り向いた。
「シャミナード、行くわよ」
「はい」
シャミナード枢機卿はアンジェリクに従順に答えた。
「アンジェリク、シャミナードといつの間に仲良くなったのだ?」
「つい先刻よ」
(おかしい……)
リオネルはアンジェリクとシャミナード枢機卿とともに勇者の祠を後にした。
勇者の祠があった人気のない古びた区画を抜け、比較的新しい増築部分に戻った。
そこは使用されている部屋が並ぶ、教皇庁の中で最も人の出入りがある区画だ。
聖都テネブラエは小さくとも国家だ。
教皇を元首とした神権政治が行われている。
教皇庁は行政機関であり、そこには内務、外務、財務、軍務などの仕事があった。
聖職者たちはここで王宮の役人のように働いていた。
長い廊下を、書類を持った聖職者たちが何人も行き来している。
大抵は黒の衣の司教以下の聖職者だったが、聖騎士も幾人か歩いていた。
(アンジェリクのことを誰も不審に思わないのか?)
ピンク髪を長く伸ばしている私服姿のアンジェリクは聖職者には見えない。
テネブラエの行政機関である教皇庁の中を、聖職者らしからぬアンジェリクが歩いていたら不審に思われるはずだが、奇異の目を向ける者は誰もいない。
「皆にはアンジェリクが見えていないのか?」
リオネルが質問するとアンジェリクは楽しそうにして答えた。
「見えているわよ。試してみましょうか?」
アンジェリクは立ち止まると、その廊下を歩いている皆に向けて命令した。
「皆、跪きなさい!」
(……っ!)
視界にいる聖職者たちが一斉にこちらを向き、膝をついて頭を垂れた。
リオネルたちに付き従っていたシャミナード枢機卿も、皆と同じように膝をついて深々と頭を下げている。
「ね? みんなちゃんと見えているし聞こえているでしょう?」
悪戯が成功したかのように、アンジェリクは少し得意気な笑顔でリオネルに言った。
「……」
魔王は強大な闇魔法で人間たちを支配していたと、聖典に記されていた。
アンジェリクの一声で皆が傅いている風景を見て、リオネルは魔王の力が解った気がした。
「教皇庁だけじゃないわ。テネブラエのみんなが私たちの味方よ。この街に私たちの邪魔をする者は誰もいない。だから何の心配もいらないわ」
「テネブラエのみんなが?」
「そうよ。私の魔法は、テネブラエくらいの範囲なら軽く覆えるもの。みんな私たちの味方よ」
「……」
(つまり、私は……孤立無援?)
絶望的状況にリオネルは愕然とした。
アンジェリクは楽しそうに、自分の腕をリオネルの腕に絡めた。
教皇庁で聖職者が堂々と、異性と恋人同士のように腕を絡め合ってじゃれあっていたら、位を剥奪されて最悪破門されるような案件だったが。
ここにリオネルとアンジェリクを非難する者は誰もいない。
「これから私たちは世界中に祝福されて結婚するのよ」
「結婚するなら……。私は枢機卿を辞めるのか?」
ニール教では聖職者は結婚を禁じられている。
「その必要はないわ。それにリオネルは『愛の伝道師』になるんでしょう?」
「あ……、ああ、そうだったな……」
アンジェリクにそそのかされて愛の伝道師になると叫んでいた過去は、もはや黒歴史だったが、リオネルはアンジェリクの機嫌を損ねないために肯定した。
「私が正式に聖女になって教皇と結婚をしたら、きっと世界は感動するわ。伝説の結婚式になる」
「え?! アンジェリクはドナシアン五世聖下と結婚するのか?!」
現在の教皇は老齢のドナシアン五世だ。
「私が結婚するのは教皇リオネル聖下よ」
アンジェリクは美しい夢を見ているような表情で言った。
「リオネルが教皇になって、聖女の私と結婚するの!」
「それは、さすがに……」
不可能だ、とリオネルは言おうとしたが。
今、リオネルの目の前には、聖職者たちが一斉に傅いている風景があった。
(魔王の闇魔法を使えば出来るのか? もしや私が全員の賛成票で枢機卿になれたのは……)
「リオネル、私に任せて」
アンジェリクは微笑むと宣言した。
「私がリオネルを世界の支配者にしてあげる!」
「……」
アンジェリクの言葉に、リオネルは非常に物騒なものを感じた。
「……世界の支配者は……私には、無理、かな? 政治は向いていない気がするのだ。王太子だったときは義務で仕方なくやっていた。好きでやっていたわけではないから……政治はちょっと……」
リオネルはやんわりと物騒な案件を辞退しようとした。
「私がいるんだから大丈夫よ。私に任せて!」
アンジェリクは天使のような愛らしい笑顔と熱っぽい眼差しで言った。
「夫の仕事を手伝うのは妻の役目ですもの。私がリオネルを支えるわ!」
「……」
リオネルは退路をことごとく断たれ、絶望した。
(大人しくマリスと結婚しておけば良かった。泥の塊の魔王よりマリスのほうが何倍もマシだった。マリスと結婚しておけば魔王も復活しなかった……!)
一体どこで道を間違えたのか。
リオネルは自らの過去を振り返り、反省らしきことを行った。
(ちょっと恋愛したくらいで、何故こんな大事になるのだ。おかしいではないか。理不尽すぎる。神は私に恨みでもあるのか?! 神のくせに私怨で人を不幸にするなど許されないぞ!)
リオネルは運命の理不尽を嘆いた。
そして、はたと、気付いた。
(そうか、神は……私の美貌に嫉妬しているのか。これは仕方ない。私は絶世の美貌だからな。美しさが罪だったか。生まれながらの罪、原罪というやつか……)
「リオネル、ぼんやりしてどうしたの?」
思考を巡らせるあまり、ぼんやりとして歩みが遅くなっていたリオネルに、アンジェリクが声を掛けた。
「あ、いや、何でもない。少し考えごとをしていただけだ」
リオネルは慌てて平静を取り繕った。
「何を考えていたの?」
「今日の夕飯は何かなと」