如雨露
喧騒に咲く一輪の花がそこにあった。周りの草は花を崇めたり、引き立てたり、そんな様子で、花はその様子に満足している風であった。風が吹いて、新たな草が目に入った。花は、その一本の静かなかわいらしい草を、取り込みたいと思った。
二年三組の教室の前。私はお友達と話していました。廊下に並べられたロッカーから、次の授業は世界史で、その用意をしていました。教科書とノートと資料集と。私の左、少し離れた所で同じものを用意しているお友達は、彼氏がどうとか、そろそろ眠いだとかを話していて、私はそれに相槌を打っている様子でした。前の時間の現代文の授業中に聞こえた音楽室からのピアノも、休み時間となれば聞こえなくなりました。私たちの教室を過ぎてそのまままっすぐ行くと音楽室でした。比較的最近流行った曲だったと記憶しています。
「ねぇみおってさぁ。その眼帯で黒板見えてるの?」
お友達がロッカーの奥を漁りながら話しかけてきました。全くデリカシーのない質問だとは思いますが、許します。もう聞かれ慣れました。
「見えるよ。もう慣れてるし。」
こういう質問は、笑みながら答えなければいけません。そうしないと、これ程までにない位その場の雰囲気が悪くなります。居心地も悪くなって、手のやり場に困ります。ロッカーの中なんかは、整理しとかなければ良かったと心の底から思い、相乗して自分の不出来を憎むことになります。へぇ、大変だねぇ。というお友達に比べて、他人事ではない自分はバツが悪くなって、先に戻ってるね、と言って教室に戻ろうとしました。
私は無意識に廊下の真ん中の方へすり寄っていた風で、振り向きざまに人にぶつかってしまいました。私より幾分か背が高くて、その人の胸の辺にぶつかってしまった様でした。謝ろうと見上げたら、そこには王子様が居ました。長くまっすぐな黒髪を後ろで一つに括った、高貴なお方が驚いた表情をしていました。キリッと吊り上がった目尻は、驚いていても分かりました。冷たい目の奥。その方は、表情を整えて、
「ごめんね、大丈夫?」
と言ってくれました。大丈夫ですと答えると、そう、気を付けてね、と言うと歩いて去って行きました。その後ろ姿はタロットカード大アルカナⅡの気迫、もしくは白磁の銅像。彼女の歩いた軌跡に花々が生い茂り、じょうろで優しく水が注がれる。私はそんな風景が見えました。私の心も彼女の軌跡を潤す一つの水滴となってしまいました。
後に友人から聞いたのですが、彼女は一つ上の学年の一条ゆめという先輩で、校内に溢れる色恋の噂は後を絶たず、学校の中でも女たらしと有名な方だそうで、校内に唯一生える桜の木の下で告白をし、振られた者は近くの梅の木で泣くという校内に伝わる一連の伝統の様な物を三年間で作り出したと言われています。悪評とも捉えられますが、私には良い事の様に思えました。告白されて振ると言うことは誰彼構わずではないと言う事で、私は以前よりもずっとゆめ先輩に惹かれていきました。
廊下ですれ違う時なんかは手を振ってくれます。帰り道に友人とテストの結果について話していたら、横から、もう少し頑張ろうね、と声をかけてくれます。その度に私は赤く火照り、なにも話せなくなってしまいます。ゆめ先輩はいつも逆光の状態で話しかけてくるものですから、顔をちゃんと見たのは、出会った日以来一度もありませんでした。太陽が羨ましく思えました。ゆめ先輩に、光の一筋でも触れられる太陽を、心の底から恨むことさえありました。
ある日、家庭科の授業でクッキーを作りました。お世話になっているからと前置きを心の中に貯めこんで、意を決して、昼休みに三年生の教室に足を運びました。教室の前では女生徒が列を成していました。後から聞きましたが、ゆめ先輩の教室ではあれは日常茶飯事で、手紙、差し入れ、勉強を教えてもらいにくる子、等が多いようです。ゆめ先輩を真ん中に、補佐の様な先輩が二人、睨みを効かせながら裁いている様子でした。私も列に並んでみようと思いました。並んで五分が経った頃、私の番になりました。ゆめ先輩の取り巻きは私をつま先から頭上まで舐めるように見てから、何か小言を垂れていましたが、私は目の前の、穏やかな湖の水面の様な座り姿に、天使の赤子の様な笑顔でこちらを見る白馬の王女様にしか目はありませんでした。この美しさを写真に撮って納めていたい。そうとも思いました。ゆめ先輩にクッキーを渡しました。その時の私は目も当てられないほどの緊張で、絞り出した言葉は日本語化も怪しく、聞くに堪えられなかったとすら思います。そんな私にゆめ先輩は優しく微笑みかけ、手を出して、と言うと一切れのメモを私の手に乗せました。秘密だよ、と口元に人差し指を当て微笑むゆめ先輩は、何やら妖艶でえっちでした。触れた手の冷たさにパニックになり、ありがとうございますと言うと逃げるように飛び出していきました。
教室に戻らず、私はトイレに駆け込みました。メモを見る為です。私だけのメモ。ゆめ先輩との秘密。居ても立ってもいられなくなっていました。メモは白く、百合が二輪プリントされているだけのもので、ゆめ先輩の紙の匂いがしました。そこには、「放課後、〇〇にあるカフェで待ってるね。」とだけ書いてありました。唐突のお誘いに、恐怖を覚えました。取り巻きの二人にぼこぼこにされるのではないか。ゆめ先輩に何か失態を犯した為に学校に居られなくなるほどのあれこれを……。と散々思考をこらしましたが、行きつく先はデートへの淡い期待でした。正確には、期待しすぎない様にあまり考えない様にしたデートという選択肢への高まる鼓動でした。
私は放課後、バスを乗り継ぎ指定されたカフェへと急ぎました。何か違っても、待たせる訳にはいかないと、足早に向かいました。友達へのさよならの挨拶も無下に、何もかも二の次にして急ぎました。
カフェに着くと、お客さんが一組と、従業員の方がいるだけで、他は誰も居ませんでした。学校から少し距離のある場所でしたから、生徒もなかなか見ない様な場所でした。私は、何度もメモを見直し、ここで間違えていないか何度もメモを確認しながら、そのカフェで一番良い席に座りました。勿論、上座はゆめ先輩に空けておきます。
頼んでいたカフェラテの結露を二回程拭いた頃、ゆめ先輩が店内に入ってきました。一人でした。店内に入って此方を見つけ、歩いて進んでくるその様は、勝手にスローモーションに再生され、私はゆめ先輩の時間軸と、少しの時差を生んでしまいました。
「みおちゃん、お待たせ。」
不意に再生されたその声はシルクより軽やかで、陶磁器よりも透き通っていました。
「あっいえ、今来た所です!」
30分程会話を重ね、夢の様な時間を過ごしました。呼び出しの理由、私なんかが時間を使っていいのか、このカフェは行きつけか。全て答えは忘れました。それもこれも、終わった頃に「可愛いね、みおちゃん。」と口元に手を当て笑うゆめ先輩のせいです。その情景が何度も自分の中でリピート再生されて、その度に脳が溶けるドロドロとした音がしました。
そんな密会は週に一度の頻度で一か月程繰り返されました。私は次第に、この世にゆめ先輩が実在している事をひしと感じ、同時にどんどん惹かれていき、気付いた時には大衆の中の一人でした。否、大衆より頭一つ抜けて、私は好かれている自身すらありました。
私は今日、ゆめ先輩に数学準備室に呼び出されました。ゆめ先輩は何か用があるらしく、授業が終わって少し経つ頃に呼び出されました。気が気ではありません。図書室で本を読んだり、昼寝をしたり、自分の教室に戻って校庭でラクロスに励む自校の生徒を見ていたりしました。時間は思ったよりも遅く過ぎ、もう何も暇つぶしなんかは思いつかない位の事をしました。そうして、ゆめ先輩との馴れ初めを思い出してみたりしました。やっと時間になったので、準備室に向かいます。
準備室は、入りづらい雰囲気です。中が暗くて。ゆめ先輩を待って一緒に入りたいけど、誰にも見つからないようにね。と言われたのを思い出して、こっそり入ります。電気を付けたら誰かにバレるかもしれないから、電気は付けずに椅子に座ります。
ゆめ先輩は、何故私なんかを呼び出したのでしょう。それもこんなところに。カフェで良かったのではないでしょうか。いくら考えても分かりません。ミステリアス。そんな言葉がしっくり来ます。いやでも、頭の中が見えるくらい見透かせるもの、それはそれで問題です。私は頭がよくないので、もしかしたら、私の方がそんな風で、問題かもしれません。
ガラっ。
ゆめ先輩!
「ごめんね。お待たせ。誰かに見つかった?」
「いえ、誰にも会っていません。」
「そう、よかった。」
なんだ?
「あのねみおちゃん。すごく言いづらいんだけどね。」
えっ何。怖い。
「私、卒業したらみおちゃんと一緒に住みたい。」
は?
「えっと、それってどういう……。」
「私、みおちゃんの事が本当に好きになってしまったみたいで。」
は?
「えっと……。えっと……。」
「付き合ってくれない?私と。」
顔、赤。きれい。
「あっ、えっと、よろしくお願いします。」
「ほんと!?よかった……。」
えっ。あっ。えぇ!嬉しい。えへへ。いやでも、なんか言わなきゃ。えっと、えっと、
「ねぇみおちゃん。」
何!?
「彼女の事はなんでも知りたいからさ、その眼帯の下、見ていい?」
え?は?なんで今?いいけど、いいけど、この目は。
「えっと、嫌わないですか。前言撤回とか。」
「そんな事しないよ。」
皆これ言うんだよな。こわいな。くる。こっちくる。隠さなきゃ。いやでも。
「えっこれ。」
「やっぱり嫌いになりましたか。」
終わった。終わった。
「無いんじゃ、舐められないじゃん。」
なめ、は?
「眼球のない子に興味ないんだよね……。」
は?え?顔、こわ。
「ん~。忠実な養分になると思ったんだけどなぁ。残念だなぁ。」
「あっ、あの、こっちの目ならありますけど、こっちじゃだめですか。」
「そっちでいっか。」
近い、くる。きてる。顔、良。あっ。えっ、ナニ。目。何?開かれてる。なに。なにするの。
べろっ。
いった。いたい。なに。なに?いたい。暗くてよく見えなかった。何。舐めた……?
「今日からみおちゃんも、私の養分。ねぇ、二人で幸せになろうね。」
「えっと。」
「ねぇ、楽しい学校生活にしようね。」
手、あったかい。あの時とは違う。興奮してるんだ。
「はい、ゆめ先輩。」
幸せなら、いっか。ゆめ先輩が幸せにしてくれる。




