帰ってきた日常
ビルの階段の踊り場にいた。
徹が階段を上がっていく。
振り返って、その目が寂しげに僕を見る。
僕は追いかけそうになるが、袖を引っ張られて足を止めた。
優子が、僕の袖を引いていた。
徹は苦笑して、階段を昇っていく。
そこで、目が覚めた。
「コトブキ君、遅刻しますよ!」
恵の元気な声が室内に響き渡る。
僕は寝ぼけ眼をこすりながら体を起こす。
「もう朝食、できてますからね」
そう言うと、制服姿の恵は部屋を去っていった。
カーテンを開ける。
眩しい日光が目を刺した。
違和感を覚えるぐらいに、いつも通りの朝だった。
キッチンでは母が洗い物をしていて、居間では父が新聞を読んでいる。
(ナンバース……だったんだよな、二人共。それも、母さんは魔界に二年いたって)
けど、そこにあるのは普段の日常だ。
「何をぼんやりとしている。恵さんが待っているぞ」
父が新聞に視線を落としたまま、淡々とした口調で言う。
「うん」
食パンとベーコンエッグとサラダとスープを急いで食べる。
父は昨日のことについて触れなかった。
僕も、触れなかった。
父が触れないならばそれは触れないべきなのだろう。そう思った。
「コトブキー、起きてる―?」
優子の声が玄関から家の中に響き渡る。
「もうちょっと待っててー。今朝飯食い終えるから!」
そうだ、このままでは恵や優子まで遅刻してしまう。
専門学校は今日も通常営業だ。
一緒に通ってくれる友人や恋人に迷惑をかけるわけにはいかない。
慌てて朝食を飲み込むと、僕は玄関に出て、三人で朝の通学路を歩き始めた。
「そろそろ暑くなってきたねえ」
呑気な口調で優子は言う。
その手には、三人分の弁当袋がある。
「優子、徹の分まで作ってきてないか?」
「あっ」
僕の問いに、優子は我に返ったような表情になった。
「そっか、徹は修行の旅に出たんだっけ」
「ま、僕が二人分食べればいっか」
「ご健啖ですねえ」
「ごめんね。緑君と笹丸君が辞めて、徹が旅立って。部も随分寂しくなったね」
優子がしみじみとした口調で言う。
「ニューフェイスを忘れちゃいませんかっ」
元気の良い声が響き渡る。
純子だ。
製造科のこの一年生はいつも元気が良い。
「琴谷先輩、おはようございます!」
僕は表情を和らげる。
「おはよう。皆にも挨拶をね」
「はい! 優子さんも恵さんもおはようございます!」
「おはよう」
「おはようございます、純子さん」
「徹さんがまたいなくなったって本当ですか?」
純子が興味深げに訊く。
僕は苦笑した。
「武者修行だよ。きっと、強くなって帰ってくる」
「それじゃあ、新人の補充は急務ですね。緑さんも徹さんもいなくなって、前衛が琴谷先輩だけだ」
「けど、実質的な部員勧誘は期末試験終了後からだからなあ。まあ、宣伝はしておいたけど」
「その前に、生徒会長選挙がありますね」
「ああ、あるな」
今の生徒会長も、就職の為に元生徒会長になるのだろう。
時間の流れというのは早い。
生徒会長の元で、幼馴染三人で部活動に励んでいた時代が遠い昔のようだ。
「琴谷先輩、頑張ってくださいね! 部長が生徒会長だなんて私も鼻高々ですから」
純子の言葉に、僕は戸惑った。
「ん? 僕は生徒会長選挙に出馬する気はないけど」
「え」
「へ」
「む?」
三人の戸惑うような反応に、僕は逆に戸惑った。
「なんだよ、三人して」
「コトブキ君、知らないんですか。この前の学内対抗戦。優勝者は無条件で生徒会長選挙にエントリーされるんですよ?」
恵の言葉に僕は絶句した。
そして、慌てて言葉を探す。
「いや、向いてない! 僕陰キャだし!」
「なーに言ってんですか。今の学内女性人気は先輩と徹さんで二分されてますよ」
純子の呆れたような言葉に、僕は口をパクパクさせるしかなかった。
生徒会長選挙。陰キャであるところの僕は、速やかに退場する方法を脳内でシミュレートし始めた。
そんなことをしているうちに、学校に辿り着いたのだった。
続く




