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悪魔の誘惑

 ベランダで大吾は煙草を吸っていた。

 隣の家から赤子の鳴き声がノイジーに響いている。


「うるっせえなあ殺すぞ?」


 怒鳴るように言う。

 しばらくして、赤子の声は聞こえなくなった。別の部屋に移ったのだろう。


 堕ちたものだな、と思う。

 大吾は何処にも所属していなかった。


 原因は噂だ。

 省吾が悪意を持って作った噂。

 それが就職してもどこからかそれを嗅ぎつけ追いついてくる。


 どの職場でもその噂が囁かれ、最終的には大吾の居場所を奪った。

 行き場がなくなり、大吾は家にいる時間が長くなった。


 小春も引き篭もっている。

 明るかった彼女の面影は何処にもない。

 親も憔悴しきっている。


 どうしたものだろうか。

 チャイムが鳴った。


 誰も出ない。

 仕方がないので出ることにする。


「おお、久々だな」


 扉を開けると声をかけられた。

 久々に見る伯父の姿だった。

 少し太ったかもしれない。腹が少々出ている。


「今日はお前に就職の話を持ってきた」


「俺に……?」


 戸惑いながらも、家の中に招き入れて扉を閉める。

 居間に移ると、伯父は小春も呼んで、三人で話し始めた。


「別の県の工場で期間工という仕事がある。一定期間だけ勤めて寮も完備。給料も同年代の中じゃ飛び抜けて多く貰える。一旦はそうやって遠くに行って人の噂も七十五日と風化するのを待つのも手だと思うんだ」


 その言葉は、大吾に衝撃を与えた。

 別の県で働く。考えたこともなかった。

 その日は、考えさせてくれと言って、伯父には帰ってもらった。


 小春と二人、ベランダに出る。


「お兄ちゃん。私、前みたいな日常に戻れるのかなあ」


 小春は躊躇いがちに言う。


「新しい環境で。新しい友達を作って。それも一つの手なのかもしれないな」


 今聞いた話に実感が持てない。

 けど、自分がまだ選択肢を持っているという事実は久々に明るい話として大吾に受け入れられた。


「それでいいのか?」


 闇の中に声が響いた。


「誰だ!」


 大吾は素早くカードホールドに戦士のカードを挿す。

 このカードホールド、返却の義務を怠っているとして専門学校では問題になっている。


 剣を素早く生成して構える。


「お前を徹底的に追い出そうとした噂話。その元凶に、やり返したいとは思わないのか?」


 いつの間にか男が立っていた。

 死神のような男だ。

 黒いフードで顔は隠れ、手に鎌を持っている。


「もう一度勇者になりたいとは思わないのか?」


 死神は囁くように言う。

 なれるものならなりたい。そして、周囲から敬意を持った目で見られたい。軽蔑の目で見られるのは、辛い。


「勇者になれるというのか……?」


「ああ、そうだ。俺はある方の使いだ。俺の主人は故あって人間界には来られない。だから、俺を遣わした」


「お前についていけば、もう一度勇者になれると……?」


「復讐もできる。お前達兄妹を翻弄し続けた噂話。それをばら撒く連中を一網打尽にできる」


「そんな上手い話があるのか?」


 いかにも胡散臭い話だ。


「乗るよ」


 小春が言っていた。


「私、悔しい。私を変な目で見てきた奴ら全員許したくない。私は乗る。お兄ちゃんが乗らなくても」


「小春!」


「悔しくないの? 省吾君にやられっぱなしで! 職まで失って! 周囲は私達をただの引き篭もりだと馬鹿にしてるんだよ?」


「けど、復讐なんて具体的にどうするんだ?」


「なに、簡単な話だ」


 死神は喉を鳴らして笑う。


「殺してしまえばいい」


 大吾も、小春も、言葉を失う。


「小僧一人を処分する程度のこと我が主にとってはとても簡単なことだ。だが、今回はトドメの一撃はお前に譲る。それだけのことだ」


 大吾は、考えこんだ。

 いや、考えてしまうことそのものがおかしい。

 人を殺す。そんなことあってはいけない。


 けど、以前の輝かしい日々の記憶が邪魔をする。

 勇者に戻れるなら。

 あれを奪った元凶である省吾を殺せるなら。


 自分は鬼にも悪魔にもなれるのではないかと。


「論より証拠だな。実際にお前の怨敵を罠にはめないとお前は信用できないらしい。ついて来い。幸せになれる異界へ」


 そう言って、死神は半身を影に沈めた。


「ついて来い。証拠を見せてやる」


 大吾も、小春も、恐る恐る死神の影を踏んだ。

 その瞬間、体が闇の中に沈み込み、別の場所で吐き出された。


 森の中だ。目の前には異界のワープゲートが開いている。


「くれぐれも先に入るなよ」


 死神が半身だけを影から出した。


「幻術にかかるようになる。そうできている」


 死神はそう言って全身を影から出すと、異界の中へと入っていった。

 大吾と小春は、顔を見合わせてしばし黙り込んだ。

 しかし、小春は決意のある表情をしていた。

 前を向いて、異界の中へと入っていった。


 自分はどうしたいんだ?

 未だに悩みながら、大吾は後に続く。


 ワープゲートを踏むと、視界が歪んで、肉塊が犇めいているような異界へと移動していた。


「ひいいいい俺が悪かったよおお」


「悪かった。悪かったで済むと思うの?」


 冷笑。そんな言葉が似合うような女の笑い声がする。

 見ると、金髪の男が両手を氷漬けにされて跪いてる。


「人をレイプして、その様子を動画に撮って、ばら撒いて。どれだけ私があれから苦労したか……」


 女は男に向かって手をかざした。

 氷の矢が空中に幾重にも現れ、男の腕や足を射抜いていく。

 苦悶の声が上がった。


「ねえ。意外ね。貴女の血も赤いのね」


「お前は悪魔だ! お前の血こそ何色だ!」


「残念ね、赤よ。お似合いじゃあない。悪党同士赤い血でさ」


 そう言って男の顎を自分に向かって持ち上げると、女は唾を吐きかけた。


「お前達のお仲間だ。魔術師の才がある。俺達パーティーの要となってくれることだろう」


「なに? 貴女達もお仲間? よろしくね」


 そう言って、女は優しく微笑む。

 男を甚振っている姿とはかけ離れた優しい笑顔だった。


「そろそろ終わらせろ。後がつかえている」


「わかったわ。ごめんね。そういうことだから。皆の為に死んで」


 そう言うと、女は男の首を氷の剣で断った。

 血が噴水のように巻き上がる。


「ふふふふ……ははははは……はーっはっはっはっはっは」


 女は男の首を掴んで振り回しながら、踊るように回転した。


「はーっはーっはー」


 そして、立ち止まって乱れた呼吸を整える。

 そして、首を見て一つ笑うと、興味を失ったようにそれを放り投げた。

 衝撃的な光景だった。


 自分にもこれをしろというのだろうか。

 できるというのだろうか。


「今、一日十人ペースで外部の人間がここに来ている。お前の怨敵もそのうち来るだろう。待つのは苦手か?」


「ううん、全然」


 小春が言う。


「小春……」


「憎くないの、省吾君のこと」


 小春の言葉は、大吾を惑わせた。

 憎くないと言えば嘘になる。

 しかし、長年かけて培った倫理観というものがそれを邪魔するのだ。


「なにを迷っている」


 死神が戸惑うように言う。


「相手はお前を徹底的に突き落としたのだぞ? 報復してなにが悪い」


 それは、悪魔の囁きだった。

 報復してなにが悪い。

 確かに、その通りだ。


「俺は……省吾を、殺す」


 大吾は迷いながらも、そうと言っていた。

 自分で、自分の背を押すように。


「もう一度、勇者に戻れるんだな?」


「ああ。我が主はそうと言っている」


「なら、迷うのはもうやめる。俺は省吾を殺す」


 自分に言い聞かせるように、繰り返し言う。

 死神は唇の片端を持ち上げて微笑んだ。


 そして、運命の日はやってきた。


「来たよ。ついに来た」


 小春が水晶玉を覗きながら言う。

 そこには、省吾と、専門学校で僕の前の席だった女子が映っている。

 二人きりのようだ。


 小春はカードホールドをつけ、僧侶のホルダーとして覚醒している。


 二人は、異界に入った。

 心臓が早鐘のように鳴る。


 ついに今日、自分は人を殺す。この手で。


「死神。頼みがある」


「なんだ?」


 背後に控えていた死神が言う。


「二人きりにしてくれるか。俺と、省吾と」


「ああ、些細な事だ」


 死神は唇の片端を持ち上げて微笑んだ。

 その次の瞬間、大吾は影に飲み込まれていた。


「久々だな、省吾」


 省吾は、我に返ったように大吾を見る。

 肉塊が蠢くような壁の中、大吾と省吾は向かい合って立っていた。


「なんだ、大吾か。久々だな。元気だったか?」


 状況を掴みきれていないようで、省吾は上ずった声で言う。


「今日はお前に頼みがあって来たんだ」


 大吾は、紡ぎ出すように言う。


「なんだ? 頼みって」


「その前に聞くんだが、もう変態君って呼ばないんだな」


 省吾は痛いところを突かれたように表情を歪める。


「薄々感づいているのかな。俺が異界でお前の前に現れたという意味を」


「変態野郎……やっぱお前の罠か」


 そう言って、省吾は鞘から剣を抜く。

 相手はこちらを殺す気だ。

 なら、気が楽だった。


 こちらも、殺す気で挑めばいい。


「俺のために、俺に殺されてくれるか?」


「死ねよ、変態野郎!」


 そう言って、省吾は剣を片手に駆けてきた。

 剣が振られる。


「――プロテクション」


 今ならば使える。そんな確信があった。

 六角形を連ねたバリアが剣を弾く。

 そして、大吾は省吾の剣を持つ腕を断っていた。


「あああ……俺の腕が。腕があ!」


 知らず知らずのうちに口角が上がる。

 こんなにも甘いものなのだろうか。

 復讐の味というものは。


「腕で済めば安いものだろう。お前が俺にしたことに比べれば」


「ひっ」


 両足を断つ。

 血が噴水のように溢れ出る。


「ひいい……」


 腹を断つ。

 腸がこぼれ出る。


「そう簡単に死んでくれるなよ。俺のために」


 大吾は幸せな気持ちで一杯だった。

 ストレスフルな専門学校時代の思い出。

 それを上書きして余りある快楽だ。


「頼む! 俺と一緒に入った女。そいつだけは許してくれ」


「ああ、あいつか」


 大吾は、剣を振る手を止める。

 省吾の表情が、緩む。


「俺達、幼馴染だろう?」


「そうだな」


 大吾は、女のことを考えて顔が緩んだ。

 こんなにだらしなく顔が緩むのは生まれて初めてだ。


 それはいつからだろう。

 初めて煙草を吸った時? 隣の家の赤子に怒鳴り散らした時?

 もういじめられ尽くして、大吾は堕ちていたのだ。別人へと。


「今頃死んでるよ。俺が今更どう動いても手遅れだろう」


 省吾の顔が憎悪に歪む。


「大吾おおおおおお!」


 そして、残った左手で剣を奮った。

 左手を断って、首を断つ。


「はははははは。あははははははは。はーっはっはっはっはっは」


「お前は復讐を果たした勇気ある者」


 死神が背後に現れる。


「魔の、勇者だ」


「ああ、いいだろう。こうなれば堕ちるところまで堕ちてやる。俺を社会からはじき出してほくそ笑んでいた奴ら全員に痛い目を合わせてやるんだ」


 正気を失っている。自分の中にいるやけに冷静な自分がそう囁く。

 しかし、それのなにが悪い。


 復讐の快楽に、今は身を委ねよう。

 大吾の高笑いが、異界の中に響き渡った。


「ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ――!」


 譫言のように、大吾は繰り返した。


 そこで、僕は正気を取り返した。


 混沌種の勇者が目の前に立っている。

 彼の記憶の中にいたのだ。

 そんな実感が遅れて湧いてくる。


「大吾……か?」


「見たな、俺の記憶を」


 大吾は、憎々しげに僕を睨んで、腹の槍を引き抜こうと掴んだ。




続く


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