Mission1.結婚しよう_03
ストラスタン邸で生活を始めて2週間。家庭教師をお呼びして指導いただくようになって10日が経ち、付け焼き刃ながら高位の貴族夫人としての所作も身につきつつあります。
……自己採点ですけれど。
ブレのない立ち姿を覚えるために頭に本を乗せ、語り聞かせるよう表情にまで注意を払いながら、叙事詩を諳んじてみせる。
貴族とはまるで水鳥のようですね。優雅で美しい姿は、水面下における不断の努力があってこそですもの。
「『若き狩人がその行路の半ばを急ぎ行き、小鳥たちは麗しき調べを――」
「はい、よろしいでしょう。時間ですから今日はここまで。次は明後日ですね、ごきげんよう」
先生はテキパキと手際よく教科書類を片付け、深く一礼して応接室を出て行かれました。
そこへ入れ違うように、閉じきる前の扉をノックしていらっしゃった人物が。
「あら、フィンリー様。どうぞ中へ。今日はもうお仕事終わったのですか?」
頭の上から本をおろし、旦那様をお招きします。彼の背後には、カーラさんがティーセットの乗ったカートを押して続きました。
「あ……しょ、書類を取りに戻ったのですが、じゅ、授業が終わるころだと、う、うか、伺ったので」
「坊ちゃまったら、応接室の前でウロウロしてるんですから! んまったく、どこの不審者かと思いましたよ」
フィンリー様は扉の前でモサモサの頭を撫でつけます。私は本を胸にぎゅっと抱え、何事かと様子を伺いました。
私がここへ来てからの2週間で、フィンリー様とお話をしたのは数える程度。すべて契約履行に関するすり合わせで、ほとんどは届いた招待状の扱いについてでした。恐らく今回もそういうことだろうと思うのですが。
「ほらほら! 思春期の子供じゃあるまいし、おふたりとも早くお掛けになってください。お茶がいつまでも配れませんよ」
私たちはカーラさんの鶴の一声で、わっと慌ててソファーへ飛び込みました。一瞬だけ身体が弾み、対面に座るフィンリー様もまた明るい栗色の髪がふわっと舞います。
小さな咳払いのあとで、彼が口を開きました。
「ら、来月のあたまに、褒章の授与式がかか開催されます。前年に大きなここ功績をあげた人物が、た、たい対象となるものです」
「本格的な社交期の始まりの合図ですね!」
褒章は平民に与えられることもありますから、授与式の前後数日、王都はお祭り状態なのだとか!
シェラルド領でも秋にお祭りがありますが、王都のはきっと格別なのでしょうね……!
「はい。と、当日の夜はじゅじゅ授与者との懇親会を兼ねてパーティーがか、開催されます。が、レ、レイラさんの出席は必要ありません」
フィンリー様が眼鏡の位置を両手で正すのと、カーラさんが「はい?」と低い声をあげたのはほとんど同時でした。
まるい背中をさらに丸ませるフィンリー様に、お茶の準備を終えたカーラさんが声を荒げます。
「なにをおっしゃいます! ベイラール小公爵がついにご結婚なすったんです、社交界全体が注目していますよ。独りで参加するすっとこどっこいがどこにいますか! 結婚式さえこぢーんまりと済ませておいて!」
フィンリー様は気難しそうに白手袋を手首でキュッと引っ張り、手にフィットさせました。
カーラさんは古くからベイラール公爵家にお勤めなのだとか。お母様を早くに亡くしていることもあってか、このお二人からは本当の母子のような親密さを感じます。
「と、当日は仕事が」
「現地集合になさいませ。奥様はダンスがとってもお上手だと、先生からもお褒めいただいているんですから! たくさん踊って素敵な伴侶をご自慢なさるべきです」
腰に手を置いて呆れたように見下ろす姿は、シェラルド領でもそこかしこで見られます。母が子を叱る光景に、身分や土地の違いは関係ありませんね。
フィンリー様の視線がこちらに向いた気配がありましたが、私は気まずくて目を逸らしました。雇用された職業妻に決定権はありませんから。
「……わか、わかりました。仕立てているドドドドレ、ドレスを一着いそ急ぐよう伝えて」
「ええ、もちろんです。すぐにも伝えましょう。坊ちゃまのご衣装も揃えなくちゃいけませんね、えーっと誰に言ったらいいかしら――」
「ぼぼ、坊ちゃまはやめ……」
ふわふわした足取りで部屋を出るカーラさんの耳に、フィンリー様の言葉は届いていません。礼節のしっかり身についているはずの彼女が、私たちへ礼をとることさえなく出て行ったのですから、いかに舞い上がっているかわかりますね。
「愛されてるんですね」
「いっいやっ、ま、まあそうですね。ででででも貴女にはご迷惑を」
フィンリー様は困ったように頭を掻いて、もさもさの髪が揺れました。
いずれこんな日が来るのはわかっていましたが、まだ頭の上の本を取り落とすことも多い私。緊張で身体が固くなります。
「少し驚きましたが……仕方ありませんもの」
「け、契約外の社交活動につつついては、別途ほほ報酬をご用意しましょう。何か、か、かん、考えておいてください」
「報酬、ですか」
小さく頷いたフィンリー様は、お茶を一口だけ飲んでから席を立ちました。
「ぼぼ僕は今からまた城へもど、戻らなくてはなりません。この後はダンスの練習でしたね。が、がんば、頑張って」
一息にそれだけ言うと、フィンリー様は私に背を向けて部屋を出て行きます。
私たちの間にある婚姻は、愛があるわけでも、相互に「家」としての利益を得る政略結婚でもない、その場しのぎの白い結婚です。
だからでしょうか。フィンリー様が私の予定を知っていてくださることさえ、なんだか嬉しくて。私は緩む唇を押さえるようにカップを押し付け、お茶を喉に流し込みました。