Mission3.王都を離れよう_03
フィンリー様から昨日お話があった通り、朝早くに生活拠点であるストラスタン伯爵邸を出発しました。途中で私の乗る馬車だけが北へと進路を変えます。
「たいした挨拶もできなかったなぁ。これからしばらくお会いできないんだから、もう少し名残惜しそうにしてくださっても良さそうなものを」
ついつい頬を膨らませて愚痴をこぼします。
だってフィンリー様といったら私には「気を付けて」と一言だけで、私に付き従ってくれる侍女のマチルダさんとばかり、5分も話していたんですから。
「おふたりは契約結婚でございますから、そんなもの必要ありませんでしょう」
「……ご存じなのですか?」
馬車に同乗するマチルダさんの言葉に、私は目をまん丸にしました。
確かに、一部の侍従は私とフィンリー様の関係について知っていると、最初に聞いています。けれど今まで、どなたもそんな素振りを見せなかったのですっかり忘れていました。
「わたくしの本来の職務が侍女でないことは、お聞き及びですね」
「ええ、はい。今朝、マチルダさんが最も信頼に足る護衛だと伺いました。まさか今までずっと、侍女に扮して守っていただいていたなんて、気づきもしませんでしたわ」
「わたくしは主人であるフィンリー小公爵の手足となって動く影です。主人のことであれば全て存じております」
わー、すごい! 私には、すべて知ってると言える存在がいるでしょうか? 家族でさえ、たまによくわからないなって思ってしまうのに。
「信頼と尊敬で成り立つ関係って素敵ですよね。私もいずれそんな相手と結婚するのかと……」
「信頼され、尊敬される人物を心がけたらいかがです? そこに契約の有無は関係ありません」
辛辣! でも言い返せない!
意志の強そうな緑の瞳を覗き込めば、敵意とまでは言いませんが、味方とも思ってくださっていないような空気が。
「私を護衛するというお仕事に、マチルダさんはあまり――」
「マチルダです」
「マチルダさん」
「マチルダ」
発音に間違いがあろうとも思わないのですが、何度も言い直されて「ぐぬぬ」と唸ります。これはまさか新手のいじめ……! と思ったところで、ハッとしました。
「あ! マチルダ、ね。ごめんなさい。カーラさん、いえ、カーラや先生からも何度かお叱りを受けていたんですが、直しづらくて」
所詮は小さな、そして裕福とは言い難い領地の男爵令嬢ですもの。他者を呼び捨てにするだなんて、とてもとても。
実家にもメイドはいましたが家族同然の存在ですから、やっぱり末娘である私が偉そうに呼びつけることはありませんでした。
マチルダは、ともすれば怒って見えるような真剣な表情でこちらを見据えます。
「契約とはいえ、レイラ様は公爵夫人になる方だということをお忘れなきよう。里帰り中は、わたくしが厳しく指導させていただきますので、そのおつもりで」
「マチルダは、その、貴族のマナーに詳しいのですか? あっ、その、姿勢も綺麗だし、どういった方なのかしらと思って」
「出身は隣国ですが、子爵相当の家の生まれです。今はもうありませんが」
思いもよらない回答に慌てて背を伸ばします。子爵家!
「子爵令嬢! マチルダ様!」
「マチルダ」
「はい、マチルダ……」
どういったご事情かわかりませんが、私より身分は上だったわけじゃないですか。それをそんな……。うう。これは自分で言うのもなんですが、先が思いやられます。
全くぶれることのない姿勢のまま、マチルダは外をちらりと見やりました。
「お忍びですから、他領に入ってもご挨拶はせず民間の宿をとります。が、資産家の息女と同程度の節度を持った振る舞いをお願いいたします」
「いきなり難しい注文ですね。資産家だなんて、滅多にお会いする機会もないですもの」
「まずは、わたくしに敬語を使うのをやめるところから始めてください。あと背すじ」
無意識のうちにふんわり丸まった背中を、ピシっと真っ直ぐにします。背すじはフィンリー様だってまん丸なのに、これは異議ありです。なんて、もちろん言えませんけど。
「護衛が本来のお仕事なのに、侍女の仕事から淑女教育まで……これもフィンリー様のご指示ですか? いえ、ご指示なの?」
「指示ではありませんが、許可はいただいています。ベイラールの名で守れるうちはいいが、そうでなくなったときに選択肢は多いほうが良いと」
「そう、そうですね。フィンリー様はいつも聡明でいらっしゃるわ」
一瞬、冷たい水を浴びせられたような心持ちでした。
この契約、明確な終わりの期日は定められていません。相互に問題がなければ一生を意味する一方で、極端な話、何かあれば明日にも解除が可能とも言えるのです。
もちろん、実質的な解除には相応の話し合いと相互の納得が必要ではあるのですが。
初めてお会いした日にも感じましたが、ちょっと情が薄いんだわ。まさかもう契約終了について考えていらっしゃるなんて。
「とても、お優しい方です」
本日はじめて、マチルダの瞳が和らいだような気がしました。
優しい、ですか。ええ、確かに優しい方だとは思います。
契約とはいえ夫婦であり家族なのだから、それらしく振る舞ってほしいと思うほうが甘えなのでしょうね。




