6. 学園の面汚し
Fクラスの担任、セルゲイは地下牢へ続く階段を降りていた。
サーシャが独房に入れられてから早一週間。幼い子供が根を上げ、反省するに十分な時間が経った。
実際、学年主任からは一ヶ月の謹慎を命じられていたが、それはあまりにも酷な話だ。年端もいかない子供が生活できる環境に、地下牢は整えられていない。
明かりのない薄暗い密室は、風通りも悪く息がつまる。
食事だけは提供されるが、それ以外の環境はと言うと、むしろ野外の方が快適なくらいだと思う。風邪でもひこうものなら、一気に他の合併症も引き起こしかねない劣悪な環境である。
サーシャ本人に何の情もないが、Fクラスの生徒として受け持ったからには多少の責任はある。セルゲイはただそれだけの理由で地下牢の扉を開けた。
地下牢と言っても囚人がいるわけでも、看守がいるわけでもない。
昔何らかの理由で作られた施設であり、今は素行の悪い生徒を閉じ止める用途しか存在しない。反省室代わりである。
しかし独房には当初の目的の名残があり、なかなかに不気味だ。
石で積み上げられた壁には人の爪や髪が未だに残っている。逃亡を願い壁を引っ掻いたのだろう。茶色く酸化した血痕もありありとわかる。
独房の出入り口となる鉄格子も、気味の悪い赤錆の匂いが鼻についた。
静まり返る独房の廊下にセルゲイの靴音だけが響く。
思った以上に悪い環境である。
こんなところに一週間も閉じ込められ、サーシャは泣いているかもしれない。
ともすればトラウマになり学園にもういられないかもしれない。
しかし仕出かした罪を思えば当然の罰ではある。
サーシャの独房の前まで来て、鉄格子に手をかける。
泣いている子供に何と声をかけようか。慰めるべきか、あるいは罪を悔い改め、日々精進するよう励ますべきか、そんなことを考えていたら反応に遅れた。
目の前の状況を認知するのに、一コンマの時差ができた。
「…………」
サーシャの独房は他と随分装いが違う。
他の独房は影がかかり薄暗いというのに、少年の部屋は白い光に満ち溢れている。ここだけ照明を設置したのかと天井を見上げるが、どこにもそんなものは見当たらない。
むしろ光源の場所がわからない。明かりの発生源が不明なくせに、影はランダムの方向に伸びている。つまり光源は一箇所ではない。
明かりだけでなく、気温や湿度もちょうどいい感じだ。
それもそのはず。鉄格子と反対側の壁がぶち抜かれ、ご丁寧にガラス窓が嵌められていた。半開きになった窓から涼やかな風が流れ換気もバッチリである。
一応地下であるのに風が入ってくるとは、それは何故。
一番目を引くのは独房の大きさである。
壁をぶち向いたため、奥行きが元の部屋三倍くらいに広くなっている。
部屋は三等分にカーテンで分けられ、閉め切っていないため奥の構造がわかった。
手前が作業スペースで机の上に本や薬品が並べられていた。
真ん中が就寝スペース。一人で寝るには相当でかいベッドがカーテンの隙間から覗き見える。
一番奥は……。水音が聞こえてセルゲイは頭が痛くなった。
確かに不衛生な環境は望ましくない。しかしそうは言っても。
「サーシャ」
「?」
パシャリ、と水から上がる音がしてカーテンの奥からサーシャが顔を出す。
少年はセルゲイを見て驚いた顔をし、すぐに身支度を整え鉄格子のところまでやって来た。
「先生、お久しぶりです」
「ああ。ところでこれは何だ。誰が独房を好き勝手した」
「俺です。悪いとは言われませんでしたので」
悪びれもなく肩をすくめた少年は本当に罪悪感などないのだろう。
顔を合わせたのは入園式のただ一度だが、それだけで随分マイペースな人間なのだと担任は認識した。
「常識で考えろ。独房を勝手にリフォームするやつがあるか」
「いや、先生も常識で考えてくださいよ。元々の環境じゃ流石に過ごせないですよ。暗いし寒いしジメジメしてるし、ネズミやムカデは出るしで休まりません」
「…………」
もっともな意見にセルゲイは黙る。しかしそれでは罰にならないではないか。
「というかこの資材はどうしたのだ。まさか外に出たのか」
「その辺りは善悪弁えてます。俺は一歩も外に出てません。中にいたまま何とかしました」
「どうやって」
「内緒です」
またも悪びれもない答えが返される。
幼い子供で、考えも足りなさそうなのに、何故か変なところで大人びた笑みを浮かべる。セルゲイよりも十は年下だが、まるで駄駄を捏ねる子をあやすように優しく微笑んだ。
普段ならば生徒の戯れを厳しく叱責するセルゲイだが、どういうわけか言葉が出てこない。
「はい、課題の反省文です」
どさっと藁半紙がセルゲイに手渡される。
独房に入れた際に与えた課題である。神聖なる儀式を汚した罰として用紙二百枚の反省文を課していた。
マイペースだがすべきところはする。サーシャの中には真面目と不真面目とが不自然に同居している。
セルゲイはそれを受け取り、当初の目的に方向転換を行った。
「謹慎の期限は一ヶ月だ。まだここで反省していろ」
「……長いですね。普通だったら病気して死んじゃいますよ」
「お前なら大丈夫だろう」
「それはそうですけど、暇です」
「有り余る時間は『反省』に回せ」
「鬼ですねー」
サーシャは言いながら、湯上りで濡れた髪をタオルで拭いた。そのタオルもふわふわと盛り上がり、太陽の香りがする。
「暫くしたら属性チェックだ。それまで大人しくしてろ」
「あー」
属性チェックという言葉にサーシャの顔に影が落ちる。
「もし、その属性チェックで砂時計壊しちゃったらどうなります?」
「その時は独房に逆戻りだな。まさか砂時計にも何か細工したのか? というか何故使うのが砂時計だと知っている」
「逆戻りかー」
少年はがーんと頭を震わせる。
そして揺れる頭をふと止めて、セルゲイの背後へと視線を投げた。担任が振り向くのと、何者かが脇を通過するのはほぼ同時であった。
目に美しい白縹色の長髪が空中で踊るように揺れる。
施療塔医のネロである。普段無表情で熱の伴わないその瞳に、甘やかな蜜が含まれている。ネロの視界に自分は映っておらず、サーシャのみが存在した。
「サーシャ様。お腹空きましたでしょう? お食事です」
「ありがと」
ネロは当然のように独房の鍵を開け中に入っていく。
サーシャは食事を受け取り、呆然とするセルゲイに困ったような笑みを作った。
「独房の環境に心を痛めたネロ先生が何かと手助けしてくれてるんです。優しい先生ですよね」
「そうか。……いや、そうなのか?」
飲み込めない状況にセルゲイは何度目かの絶句を味わう。
優しい以前に「サーシャ様」という敬称は変じゃないか? 生徒と教師の距離感ではない二人の関係に担任は頭を悩ませる。
「それでは、また一ヶ月後」
悩める担任にそれ以上の言葉はかけず、サーシャはくるりと踵を返した。




