79. 綻び
今更ルーナを怖いと思うのは変だ。
自分と感性が異なるからと、それだけで人格を疑うなんておかしい。
頭ではわかっているのに心情が追いつかず、目の前のルーナという精霊像がぐにゃりと歪んだ。
サーシャの頭を撫でる彼の手は相変わらず優しい。
送られる視線も甘く柔らかでサーシャを慮ってくれているのがわかる。
けれど、この得体の知れない感覚は何なのか。透き通る銀色の瞳の奥底に隠された感情が読めない。
やんわりと頭の上の手をどけて、サーシャは深く息を吐いた。
今、この不鮮明な気持ちを追求するべきではない。もっと大事なことが他にある。
「精霊王の儀式、今やりたい」
「もう? 心の準備とかは良いの?」
「だって早く二人を元に戻さないと」
「サーシャは優しいね」
「それに風と火がないままじゃ生き物たちも困る」
ルーナは感情の籠らない笑みを浮かべる。同じ精霊神に対する気持ち以上に他の生物へ向ける関心は低い。
今まで何とも思わなかったけれど、気づいてしまうと何だか歪に感じる。
そもそもルーナの関心ごととは何なのか。ウェントスもイグニスも創造主に心を傾けていた。おそらくアクラも。
彼は名を呼んだその時からサーシャのことばかりで、名で縛られた恨みつらみを一切漏らしたことはない。
月属性であるルーナは他の地上三属性とは違うルールでもあるのだろうか。
いけない、とサーシャは首を振る。
考えることではないと思ったばかりなのに、つい思考が傾いてしまった。見上げると、彼もまたサーシャをじっと見下ろしていた。
「儀式のタイミングや作法は『器』のサーシャが決めて良いんだよ」
「え、そうなの?」
「僕らの役割は『器』の媒介者になるかどうか、それだけだ」
「?」
全く意味がわからず首をかしげると、ルーナが一歩前に出る。
つまらなそうに他所に視線を投げていたアクラも、ゆるりとサーシャへと目を向ける。
数秒の妙な間が空き、ルーナが口を開く。
「選んで」
「え?」
「僕と彼、どちらかを」
「どういう意味?」
またも急な展開にサーシャは混乱する。
いや、次第に頭の中で扉が開かれる。
器はただ器であるだけなのだ。人間である自分は精霊界にアクセス出来ない。それゆえに精霊神によって橋渡しが必要なのだ。
理屈はわかったが、選べとは?
「二人一緒じゃダメなの? みんなで儀式するんだと思ってたけど」
「色が混じると安定しない。従来媒介者は一種の神だけだと聞いている」
「……よくわかんない」
眉を顰めると青年はやや口角をあげて笑った。
「サーシャは考えるの苦手だもんね。いつも無鉄砲でその場しのぎばっかだったし」
「それは褒めてないね」
「当然。でも僕は好きだよ。エキセントリックで見てて飽きない」
「どうも」
僅かに首を傾げて礼を告げる。
そして再度顔をあげてアクラへと手を伸ばす。伸ばされた手の意味を分からず二人の精霊神は目を細めた。
「一人しか選べないのなら、アクラ」
「…………」
「…………」
あっさり決められた結論に神たちは無言になる。この判断もまたエキセントリックだ。
ルーナがわかりやすく不快を露わにした。
「どうして彼なの。ずっと一緒にいた僕の方が良いと思うけど」
「……確かに悪手です。賛同できません」
「そうかな?」
二人揃って拒絶の言葉を吐いた。普段ならば、神たちの言葉に耳を傾けるサーシャは反論を聞こえないものとして流した。
「俺はアクラが最良だと思う」
「何故」
「うーん、何となく?」
そう言うとルーナは呆れを交えてため息を吐く。
「悪いことは言わないから僕にした方がいい」
「ルーナは何で?」
「長くいた分、君の色は月属性に寄っているはず。互いに融合し易い色になっていた方が、精霊界とアクセスが容易だ」
「ふむふむ」
「出会ったばかりの水じゃ適合が難しいに決まってる。だから」
「ちょっと待った。アクラとは出会ったばかりじゃないよ」
「んん?」
「…………?」
少年の言葉にルーナとアクラは頭上に疑問符を浮かべる。ルーナの言葉通り正しく二人は出会ったばかりだ。契約してすぐに別行動に移ったので殆ど一緒にいなかった。
二人の疑問をまたも流して、アクラの手を握る。
「俺が思うのは俺と神の相性の良し悪しじゃない。この星と神との相性の方が重きがあると思う」
「つまり?」
「つまり三属性のうちのアクラが適任ってことだよ。ルーナはこの星に認知されてないじゃん。月妖精も見たことないし」
「………」
月の精霊神は唇を噛む。
「妖精がいないって、気付いてたの?」
「当たり前だよね」
「まあ、確かに器なら気づいて当然か」
微笑むと彼も僅かに口角をあげた。
「わかった。サーシャの判断に従う」
と渋々ながら納得を示す。
話もまとまったことだし、では次の段階に移ろう。儀式の方法は器の作法に任せられるというが、伝聞も伝承もないまま一体どうすればいいのだろう。
アクラの視線を感じつつもサーシャは意図して彼に目を向けなかった。
「儀式の場所は俺の聖域にしようかな」
「ということはハルハドに戻るんだね。サーシャの聖域ならば確かに他の人間に認知はされないから安全だろう」
「それもあるけど」
「他に理由が?」
「あそこには『世界樹』があるから。俺に足りない分の魔力を補える」
ルーナの眉が吊り上がる。
「それも気づいてたのか。あれはつい最近まで『神樹』だった。いつから『世界樹』だと認識したのかな?」
「何となく?」
「え」
「理屈はわからないけど。それにウェントスとイグニスの魔力が消えた時、一瞬見えたんだよ。彼らの命の灯火が世界樹の方向に飛んで行ったのを」
「…………」
ルーナだけでなく、アクラとガイアも無言になってサーシャに視線を注ぐ。この間抜けな少年は一体どこまで気づいているのか。
わからないと言っているのは口先だけで、実は行き着く結論まで全て認識しているのではないか。
皆に見られていることに気づいたサーシャは一時キョトンと表情を変え、けれどもすぐに柔らかに微笑む。
裏のない、無邪気で真っ白な笑顔が周囲の心を疼かせる。神も、辺りを浮遊していた妖精たちもかける言葉を見失った。
「じゃ、早速よろしくね」
アクラに向かって手を差し出すと、彼は嫌そうに手から目を背けた。
手は握られることなく、無意味に空中を漂いその後下ろされる。応えてくれなくてもサーシャは気にしない。
「僕の空間魔法で飛ぼうか」
「ん、ありがと〜。それじゃおじいちゃん、バイバーイ」
間の抜けた別れの言葉を残し、少年は黒く切り取られた空間に飛び込む。アクラもその後ろに続いた。
ぐにゃりと体が歪むのを感じながら漆黒に塗りつぶされた圧縮空間の中に落ちる。
ルーナに片手を取られ、態勢が安定したサーシャは残りの片方の手でアクラの服の端を掴む。
数分、緩やかな落下の中で吐き気を耐え忍ぶと、突然間の前が真っ白になった。
出口はいつも突然だ。
四つん這いになって冷や汗と吐き気を通過させ、暫くしてやっと頭が冷えてくる。顔を上げると聖域前に飛んでいた。
ルーナの魔法は本当に便利だ。もっと誰でも使えるようになれば人々の生活は今とは比べ物にならないくらい楽になるだろう。
何年も共にいた癖にちっとも月魔法を使いこなせないサーシャは自分の力量に落胆する。自分には不可能であったが、才能に恵まれたルートヴィヒならば、あるいは。
いや、今考えても詮無きことだ。彼は今魔術が使えなくて困っている最中であろうから。
サーシャと違い、ルーナもアクラも涼しい顔をして聖域に体を向けている。サーシャの体調が整うのを待ってくれているのだ。
一つ深呼吸してサーシャは二人の元へ歩み寄る。
「もう大丈夫。ごめんね」
「ゆっくりしていいんだよ」
「いや、行ける~」
また一つ頭を撫でられ、サーシャは生まれ故郷の聖域に足を踏み入れた。




