76. 風
暫くしてサーシャは両手に抱え切れないほどの果物や木の実を持って帰ってくる。
曰く「妖精のお姉さんに貰った」とのこと。
サーシャはつくづく精霊に愛されている。しかしそれはどこまで本人に伝わっているのか、ウェントスは純粋に疑問を抱いた。
「明日もいっぱい遊ぼうね。おやすみ」
「………」
ご飯を食べたらサーシャはあっさり眠ってしまった。
ウェントスは珍しく言葉に詰まる。
サーシャと会ってから時々気持ちが不安定になる。この少年が器である以前に、何かがおかしい。
だって。
まあ、今更考えても仕方ないわねー。
ウェントスはコロリとサーシャの隣に身を横たえた。静かに寝息を立てる少年の胸に己の頭を擦り寄せる。
彼は一日中ウェントスの手を握ったままであった。熱を、そして魔力を分け与えようと力を込めてくれているのが分かる。
けれどウェントスの手に熱が灯ることはなかった。
翌朝、起きるとサーシャは昨晩食べきれなかった食材で朝食の支度をした。揃って食べてまた今日も遊びに出かける。
遊んで、食べて、一緒に寝て、また翌朝から遊びまわる。そんな生活を一ヶ月丸々費やしサーシャもウェントスも楽しくて楽しくて仕方がない。
あっという間の一ヶ月であった。
「アイスフィールドのオーロラ、とっても綺麗だったね〜」
「オーロラに突っ込むなんて久々よ。オーロラって青いイメージあったけど温度によって色が変わるのね」
「火山の頂上から眺める朝焼けも素敵だったわ」
「世界の全てを一望できたよね。太陽が地平線から顔を出して一筋の光を灯す瞬間が良かった」
「圧巻だったわ」
「巨人の大地から溢れてくる大きな滝は?」
「勿論興奮したわよー。高低差がありすぎて地上に着く頃には全て蒸気になってしまうなんて」
「あの大量の水が飛散して池にもならないって凄いよね」
この一ヶ月巡った景色が胸に煌めきをもたらし、二人の会話は途絶えない。
興奮のあまり頬を赤らめる少女は、甘えるようにサーシャの手のひらに頬を寄せた。
ウェントスは今や掌大まで縮んでいる。
お喋りに声を弾ませていた女性は、ふと悪戯っぽい声色に変えて微笑む。
「それにしてもサーシャちゃんって見かけによらず、聡い時は聡いわねー」
「どういう意味?」
「私の魔力が枯渇してるっていつから気付いてたのかしら? この一ヶ月、サーシャちゃんの魔力だけで飛んでたわ」
「…………」
サーシャは手の中の小さな存在を前に瞳を伏せる。気づくも何も、そんなのひと目見れば瞭然であった。
握った手はずっと冷たいままだし、青白い顔のまま体の容量を減らしていく。
「しかも治らないって気付いてる。ねえ、あなたって本当に何者なのかしらね」
「……わかんない。でも最後はこれが最良だと思ったんだ」
「うふふ。その行動のおかげで私は何となく見当をつけたけどね」
「そうなの?」
意外な返答にサーシャは目を瞬かせた。
ウェントスの魔力切れは単なる魔力切れではない。いくら補充しても体に染み渡ることなく体外に放出されてしまう。
動植物が老いれば栄養素を体に受け付けなくなるように、精霊もまた同じように体内に入れてくれない。
つまり、寿命だ。
ミーティでの仕打ちがトリガーになったのかどうか、それは分からない。
もしそうだとしたら、かの里に行こうと決めたのはサーシャなので責任を感じてしまう。
魔力をうちに貯められなくとも、触れていれば体内に流れるのでサーシャはずっと彼女と手を繋ぐつもりだ。少なくともサーシャが死ぬまでは彼女は延命できる。
「ごめんね。契約できたらもっと楽をさせてあげられるのに」
「あら、そんなこと気にしてたの?」
「だって俺の中に入ってこれるんでしょ。ずっと一緒にいられる」
「夢のような話よね。でも出来ないのなら仕方ないわ。報われないのも運命よ」
「…………」
「愛してるわ、サーシャ」
小さな唇がサーシャの元に落とされる。
頬を赤らめ、幸せそうに微笑む彼女はとても死期が近いとは思えない。
手のひらの上で体を横たえたウェントスは「でもねえ」と、唇を尖らせる。
「でも、私だって全部が全部納得いっているわけじゃないの」
「なに?」
「器に生まれた人間の運命のことよ。月たちの前ではああ言ったけど、別に素敵だなんて思ってないわ」
「…………」
「正直あなた以外がどうなったってどうでも良いの。ねえ、最後の日まで二人で過ごしましょうよ。この一ヶ月の間のように永遠に」
「ごめんね」
笑ってそう言うと、ウェントスがため息をつく。
「何それ、結局これも知ってたの?」
「何となく」
「自傷行為はダサいわよ。火もきっと馬鹿にするわ」
「俺を選んだのは君たちじゃん。今更言われても、もう決めたし」
「あらら、サーシャちゃんらしくなく聡いわ。もっと何にもわかりませんって態度でいてくれないとやりにくいったら」
「いつもいつも間抜けではいられないよね」
「……寧ろ今までが馬鹿を装ってた? 怖いわ。何も信じられなくなってきた」
サーシャは答えを曖昧に、肩を竦ませた。
何もわからないのは本当だ。ただなんとなく感覚と勘だけで進んでいるので馬鹿なのは間違いない。
ウェントスは戯けたように笑い、そしてゆっくりと肘を曲げて体を倒す。長いまつ毛を何度か上下させてとろりと瞳が眠そうに蕩けた。
「う〜ん、でも何だか全部どうでも良くなってきたわ」
「ウェントス?」
「眠くなってきたから、少し寝てもいいかしら?」
「どうぞ」
「私が必要になったら起こしてね。絶対よ」
「うん、おやすみ」
体を丸めてすぐにウェントスは寝息を立て始めた。
小さな体は更に小さくなり、呼吸と呼応するようにか弱い光が点滅する。蛍が最期を告げるような儚い光を目の当たりにしてサーシャは言葉を失う。
……どうして。
手に触れているから魔力は送られているはずだ。それなのにどんどん彼女の生命力は弱くなる。
一ヶ月無理をさせすぎたか?
自分の選択は誤っていたのか?
どうしようもない焦燥感が胸の奥で暴風となり、あらゆるものをなぎ倒す。
「……ウェントス」
「…………」
彼女は幸せな微笑みを最後に残して、空中に溶けた。
その瞬間、世界から風が消えた。




