65. 少女と天使様
朦朧とする意識の中で少女は助けを呼んだ。必死に姉の名前を呼ぶが喉の奥から焼けただれたような熱が込み上げてうまく発声ができない。
つい先ほど、不運にも悪党に遭遇してしまったのだ。何やらわからない言葉を吐かれ、その瞬間片方の太ももに激痛が走った。
痛みは伴うが捕まれば何をされるかわからない。恐怖から少女は必死にその場を逃げた。
悪党は追ってこなかった。安心したのも束の間、痛みが少女の足をじくじくと蝕んでいき遂には歩けなくなってしまう。
進みたいのに体が言うことを聞かず、その場に倒れた少女は姉を呼ぶ。自分と同じ紅梅色の髪をもつ凛々しい姉を。
痛みは徐々に足から全身に這い上がってくる。暴力的な熱が体の内側から込み上げ呼吸も苦しい。
(……お姉ちゃん、……お姉ちゃん)
声は出ないのに涙は止めどめもなく流れてくる。一刻の間に体のどこもかしこも蝕まれ、少女はいつしか痛みからの解放を願った。
自分の命はそう長くないのだろう。頭が重くなる。白んでくる視界に自分の心臓の音だけが響いた。
(おねぇ、ちゃ……)
もう瞳を閉じる、という時、少女の目の前で風が凪いだ。姉が来てくれたのだろうかと淡い期待を胸に、最後にその姿を目に焼き付けておきたくて必死に瞳を開く。
少女の目に映ったのは姉の姿ではなかった。
頭上からの木漏れ日を一身に受け、飴色の髪を持つ少年が舞い降りた。木漏れ日は天国への階段のように一筋に伸びている。
少年の後に三人の男女が続いて降りてくる。どの人もこの世のものとは思えない美貌と神聖さを持ち、少女は彼らの正体を知った。
(……天使様だわ)
間も無く天に上る自分を迎えに来てくださったのだ。少女を見ると、飴色の髪の天使が少女を抱き上げる。羽の中に包まれるような心地よさに少女は目を閉じた。
(こう言う風に天国に向かうのなら、悪くはないわ)
少女の痛みは壊死と麻痺によりもう脳に伝わることはない。ある種楽になった少女は再び姉のことを考えた。
この優しそうな天使様ならば最後の願いを叶えてくれるかもしれない。天使の胸に頬を寄せて声にならない声で願いを乞う。
(私はもうダメだけれど、どうかどうかお姉ちゃんだけは……)
(マルグレットお姉ちゃんはお助けください、天使様)
柔らかく少女の髪に口元を寄せると天使の少年は何事かを言った。
「─────」
耳が既に機能していないのかその言葉の意味はわからない。けれど否定ではないのだろうな、と何となく感じて少女は意識を手放した。
少女が次に目を覚ますと、眩い光に包まれた天国にいた──なんてことはなかった。
見上げた先に見えるのは飴色の髪の天使で少女の頭を撫でてくれている。膝枕の状態で草地に敷物を敷きその上に寝かせられている。体を包む毛布は柔らかで暖かい。良い花の香りもするので二度寝してしまいそうだ。
(天国って随分現世と似ているのね)
周囲は少女の住む森と瓜二つだ。死んだ時は昼間だったが今は夜の帳が落ち、森の中は少女たちの周辺を除き真っ暗だ。
少女の体のうち動くのは顔の筋肉だけだ。体には力が入らず少しも動かすことが出来ない。
天使の優しい手のひらを甘受しながら少女は観察を続ける。
天使は四人。今少女を撫でている天使と、銀色の天使、紅の天使、緑色の天使。彼らは森の中で焚き火を囲いながら何やら話している。
喧嘩をしているような、談笑しているような、何だかゆるい空気で何を話しているのか全然わからない。
じっと見ていると、飴色の天使が何やら怒られているような雰囲気を感じた。けれども受け手の少年がゆるく流すので真剣な話し合いになっていない。
少年の細い指先が少女の髪の間に入り込みドキリとした。背中が疼くような感覚に知らず顔に血が上ってくる。
髪の生え際をなぞる指の動きにとても堪えきれず少女は小さく息を漏らした。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
天使たちの会話が止まる。自分が起きたことに気づいたようだ。
小さな吐息だけが少女の耳の中で煩い。心臓がいつにない速さで胸を打つので苦しい。心地よい手が少女の頭から離れ、「え、何で?」とはしたない欲求が喉から溢れそうになった。
飴色の天使の瞳が少女に注がれる。何かを呟き再び手が降りてくる。また頭を撫でてくれるのかと心待ちにしていると、急に優しい天使様が蹴り飛ばされた。
(な、なに?)
蹴飛ばしたのは紅の天使だ。急な暴力に仰天してそちらを見るが、紅の青年は少女に目もくれずに何かを言い募っている。
いや、よくよく聞いていると何を話しているのかわかる。駄々をこねた子供のように少年を少女の元から引き抜くと自分の膝の上に乗せた。
少年は露骨に嫌そうに顔を顰めている。
少年の手を捕まえ自分の頭に乗せようとするが、当の少年が嫌がっているので次第に揉み合いの喧嘩になる。
「ずっる! 何でオレにはしてくんねーの」
「─────」
「ちょっとぐらいいーじゃん。オレも気持ちくなりてー」
「私も。あの子ばかりずるいと思ってたの。サーシャちゃん、なでなでしてー」
少年の名前はサーシャと言うらしい。随分と変な名前だ。しかし見目が美しいので違和感は薄まる。
サーシャは緑色の天使にはあっさりと手を伸ばし、なでなでと頭を半周した。「うふふ」と女性は嬉しそうに笑うが、紅の青年は嫉妬に拍車を掛けられたようで怒りに顔を染めている。
「死ね! クソガキ!」
「─────」
「……な。んなこと言ってねーだろーが」
言い合いをしていた彼らだが、急に青年の歯切れが悪くなり喧嘩は突然終わる。勝者はサーシャという少年のようだ。
乱れた衣服を整えながらサーシャは少女の元にやってきて腰を下ろす。
「─────?」
「?」
なぜかサーシャの言葉はよくわからない。他の天使の言葉はわかったが。けれど天使たちの間で会話は成立していた。少女の耳がおかしいのだろうか。
とはいえ聞かれているのはおそらく体調のことだ。それならば先ほどに比べてだいぶ良くなっている。痛みはまだあるが直に良くなるだろう。少し休めば天国の門へ向かえそうである。
少女が伝えるべきはまずは感謝である。
「天使様、此度はお迎えに来てくださりありがとうございます」
突然四人がそれぞれの反応を見せた。
盛大に吹き出したり、明後日の方向を見て肩を震わせたり、ぽかんと呆けていたり、殆ど変化を感じさせなかったりと様々な様子ではあるが。
その反応に疑問を抱きながらも少女は動かせる顔面だけで祈りを捧げた。




