58. サーシャの夏休み
ルートヴィヒの寮宅から直接市外に飛んだサーシャは「こっわ、もう油断しないー」と粟立つ肌を擦り合わせた。
嫌な予感がして街の中に戻る気にならず、とぼとぼと街から離れる方向に歩き出す。
ルーナたちに何も言ってないけれど大丈夫だろうか。イグニスとウェントスは気にしないと思うが、ルーナは心配するかもしれない。連絡手段があれば良いのだが今は思いつかない。
「ルーナ」
と、ダメ元で呼んでみるが応答はない。
学園の中なら波長内にいるのか割とすぐ答えが返ってくるのだが。困ったな〜と思いながらサーシャの歩みは止まらない。と言うのも別の案を思いついたからだ。
「折角の機会だし里帰りしようかな〜」
思えば入園してから一度も元住んでいた聖域に行っていない。多くの生徒が毎年里帰りする中サーシャは日々無益に過ごしていた。
家から出るときはいつでも帰れるなんて言っておいて、何故帰らなかったのか。怠惰に過ごしすぎたのか、あっという間に流れてしまった月日にサーシャは頭をひねる。
「姉さんたちなら、何か連絡手段知ってるかもしれないな〜」
今のサーシャの風魔法ならば移動はかなり楽にできる。ルーナは空間ごと切り取る移動魔法を行うが、あの方法はサーシャにとってまだ難しい。
基本の三属性は感覚で使えるが月魔法は勝手がよくわからない。
いつか使えるといい。
サーシャは片足で自分の周りに円を描いた。風を切った音がしてサーシャを中心にて風が渦を巻く。竜巻の真ん中で結われた髪が巻き上がり、周囲の落ち葉や枯れ枝が巻き込まれた。
街道を歩く人は少ないが、突然出現した渦に目を丸くした。「魔術とは便利なものだな」と感想を残して、それらはサーシャの視界から消える。
サーシャが一歩踏み出すと景色が風に乗って緩やかに進む。渦の内側と外側とでは空気の抵抗力が全く違う。滑るように進んでいく景色はさながら風そのものになったような感覚だ。
元々風魔法を使うことが多かったが、ウェントスのおかげでかなり精度が上がっている。
契約せずとも共にいるだけで格段に跳ね上がった性能にサーシャは感嘆の息を漏らした。単純な移動だけでなく、状態異常の引き起こし方も容易になった。
精霊神と契約をしたルートヴィヒの方はもっと凄い力を持っているのだろう。まともにやったら勝ち目がないので、先ほどは意表をつけて良かった。
風に乗って半日、サーシャの住んでいた森近くに来た。
街道を逸れて、草原を突き進めば故郷である。大人の背丈もある葦の葉を潜り抜けて、森の中に飛び込む。
森に入る境界で卵の殻を打ち破る感覚があった。
これがルーナの言っていた結界だろう。まだ見つかっていないと言うが、こんなにあっさりと入れるようではきっとそのうち見つかる。
しかし見つかったとしても、特別なものはないので観光名所にはなり得ないだろう。
森に入った瞬間、優しい音楽がサーシャの耳に届いた。聖域だけあって姉がそこら中に飛んでいる。サーシャに気づいて手を振る。
森の中は眩い光で満たされて目が眩むような明るさだ。木々の間に淡く虹色に光る靄が流れていて、木にぶつかると砂金のような鱗粉を散らす。
不協和音が互いにぶつかるような不安定で、けれどどこか心地よい音楽が柔らかく鳴り響く。見渡してみても音源はわからない。
「あら、サーシャ?」
「サーシャだわ。おかえりなさい」
「大きくなったわね。昨日出て行ったばかりなのに」
「まあ、違うわよ。三十年も前の話よ」
「ふふっ」
姉がすかさずサーシャに近寄り体の周りを飛び回る。翅で頬をやんわり撫でるのでくすぐったい。妖精の時間感覚はズレているようで、サーシャは訂正した。
「出たのは十年くらい前だよ。ただいま〜」
「そうなの? それって人間で言うとどのくらいの長さなのかしら?」
「子供が大人になるくらいの年月に決まってるじゃない」
「大人? 坊やは大人になったの?」
「大人になったのよ。キラキラしてるもの」
一つ返すと好き好きに言葉を奏でる姉は忙しない。全てに返答できずに黙って微笑むと、姉も揃って嬉しそうに微笑んだ。一人の姉がサーシャの額に唇を寄せる。綿毛のように柔らかい。
「久々に来たら結構変わってる? この歌は何かな?」
聞き慣れない音楽のことを指すと、姉たちは顔を見合わせて意味深に笑みを浮かべる。互いの顔をくっつけて小さな体を寄せ合って震え合うのでサーシャは首を傾げた。
寒いのではなく、堪えきれない喜びがそうさせているのだとなんとなくわかった。
「うふふ、あのね、これはね」
「あの子が歌っているの。とっても綺麗な歌声でしょう?」
「聖域に永遠に広がる波紋なの」
「ほら、サーシャも覚えているでしょう?」
なんのことを言っているのかわからず曖昧に笑うと、ウズウズと姉たちも翅を震わせる。言いたいけれど言えない。けれども言いたい、とそんな感情が五色の虹彩から溢れる。
沢山の小さい手にサーシャは手を取られ、「こっち!」と森の奥へと誘導される。進む先はサーシャたちの家がある。
数分歩いて我が家が見えて来た。
木で出来た簡易的な我が家が懐かしい。何年も経っていると言うのに時の経過を感じさせないまま同じ姿でそこに立っている。
ますます音楽の音が大きくなりサーシャは首を降った。音が大きくなったのかと思ったけれど、よく感じてみたら違う。
音量は一定だが、その圧力がこの一帯格別に響いている気がする。心の臓の奥深くで熱さを感じ、サーシャは一旦瞳を閉じた。
弦楽器が伸びやかに腹の中で響いていくような不思議で、気持ちの良い音色だ。
ゆっくりと瞳を開いてサーシャの目に飛び込んで来たもの、それは。
「あ」
家を囲うように大樹が存在している。
歌はこの大樹から発せられている。薄く発光する大木は様々な色を纏って音楽を奏でている。
魔力が溢れているんだ。
一目で見て、サーシャはあの大木が一体なんなのかわかった。
サーシャがこの森から出ると言った晩にお別れ会を開いたのだ。大切に育ててくれた姉たちへのお礼としてサーシャは贈り物をしたいと申し出た。
その際に彼女らは「サーシャの木が欲しい」と言ったのだ。種も苗木も用意のなかったサーシャだったが、ルーナに「これ拾ったからあげる」と石のようなものを渡されたのだ。
見た目は唯の石だが、その石に触れた途端サーシャの魔力が一気に吸収されてしまう。
急に魔力切れになり眠くなったサーシャは思考が追いつかず、けれども促されるままその石を地面に植えた。
あの時は眠くて眠くて何も考られなくなったけれど、こうして育っていると言うことはちゃんとした木の種だったのだ。
その木は聖域を覆い尽くすほどに広々と枝を伸ばしている。聖域の屋根と言っても良いくらいに大きい。真下からは全体像がとてもわからないが。
「ふふふ。わかった? サーシャが植えたのよね〜」
「こんなに大きくなったんだね。ちゃんと育って良かった」
「私たちが植えてもこんな風にならないわ」
「さすが坊やだわ〜」
「毎日魔力に満たされていて気持ちいいの」
「立派な神樹になったのよ」
姉が声を揃えて笑い、サーシャも釣られて笑いかえす。久しぶりの我が家に気が抜けてサーシャはついつい姉や兄と語り明かして一日を過ごす。
相変わらず現実感の薄い、夢を見ているかのような空間である。
心地よい浮遊感と大樹の奏でる歌声に包まれながらサーシャは次第に眠気に襲われる。
大樹の枝葉が伸びてサーシャを抱き上げ、まるで逃さないとでも言うように、何重にも重なって檻を作った。既に瞳を閉じたサーシャはそれに気づかない。
ただただ安らぎだけが体に浸透し、その身をされるがままに委ねた。
気づいたら数日が経っていて、サーシャは大樹の中で飛び起きる。起きるタイミングで檻となっていた枝が分け開き、囲われていたことに気づかない。
「あれ、あれ? どのくらい寝てた?」
ともすれば夏休みが過ぎ去ったくらい寝てしまった気がする。そのくらい頭がクラクラするし、現実を認知するのに難儀した。
今はいつで、自分は何歳で、何を目的に進んでいるのか。手に掴みきれないほど記憶が混濁している。
大樹に止まっていた姉たちが頭を傾げ、互いに目を見合わせた。
「一日くらいじゃない?」
「違うわ。三十年くらい寝てたわ」
「うわー……」
サーシャは一度顔を覆ってすぐに大樹から飛び降りる。
大樹が悲しそうに歌を歌って、サーシャの衣服を枝で引っ張ったが、気づいた少年は優しくその枝を外した。
「また来るね」
「待ってるわ〜」
「次はいつ会えるのかしら?」
「きっとすぐ、明日よ」
「いいえ、きっと三十年後よ」
答える姉にサーシャは軽く手を振って別れを告げた。あっさりしているかもしれないが、距離的に来ようと思えばいつでも来れる距離だ。
次はもう少し早く来ようと思いながらサーシャは学園へと足を急がせる。
あの貴族の少年の執着も下火になっている頃だろう。貴族社会では野生児が珍しいのかもしれないが、興味本位で容喙されるのも考えものである。
ルーナから黙ってどこかに行くなと言われているし早く帰らなければ、と気持ちが逸る。
バタバタしてしまったので先に浮かんだ疑問を解消するのを忘れた。
神樹とは何なのか、その問いの答えはまもなく明らかになる。




