57. 貴族からの誘い
七月。
学園での授業が一旦終わり、一ヶ月の夏休みに入る。
各々帰省のため慌ただしく準備をする中、サーシャはぼんやりとしていた。王立図書館で本を借りてきた帰り道、ルートヴィヒの従者に声をかけられた。「主人がお呼びである」と。
「サーシャ、来たか」
ルートヴィヒの寮宅に着くと、開口一番にそう言われた。召使たちがバタバタと荷造りをする中、貴族の少年だけテラスで優雅にお茶を飲んでいる。
「座ってくれ。話があるのだ。……彼にもお茶を」
「大丈夫〜。用が済んだらすぐ帰るから」
「たまに会う時くらい私に合わせろ。夕食は何が食べたい?」
「強引だなー」
サーシャが席に着くと、すかさずお茶と茶菓子がテーブルに置かれた。ルートヴィヒの指示以前に用意がされてあったらしい。従者との阿吽の呼吸にサーシャは感心する。
「で、何の用?」
「夏休みの予定を聞きたい。君を私の領地に連れて行く」
「何で?」
「……大抵の者は理由も聞かず大喜びでついてくるのだが」
眉を寄せつつルートヴィヒは緩やかに笑う。サーシャ相手に想定どおりに話が進まないのは織り込み済みだ。
「退屈な休暇を友と過ごしたいのは普通のことだろう?」
「退屈って、ルートヴィヒは貴族だよね。仕事あるじゃん」
「確かに執務はあるが、息抜きは必要だろう。それに両親にもサーシャを紹介したいのだ」
「両親」
カップに口をつけながら、サーシャはその言葉を反芻する。
詳しくは知らないがルートヴィヒはかなり高貴な出自の貴族だ。その両親となると想像を絶する。
天上の方々の前で、粗暴で礼節も弁えない自分が粗相を犯すことは想像に難くない。
ひいてはそんな野生児を友人として連れてきたルートヴィヒの株が下がる。誰も得しないではないか。
「ん、行かない」
あっさりと誘いを断ったサーシャに、ルートヴィヒは不快を露わにした。
笑ってはいるが、その実機嫌を損ねている。ルートヴィヒが望めば大抵のことは通ってきたのだから思い通りにならない展開に苛立ちを抱くのはわかる。
それでも、とサーシャはお茶を一気に流し込んで席を立った。
「俺じゃなくて他の生徒の方が『友人』として適任じゃない?」
「私はサーシャが良いと言っているのだ。こら、勝手に帰ろうとするな」
「ルートヴィヒはいちいち強引だよ。それにこのままいると」
「あ」と、声と共にサーシャは再度席に着く。
背後に立った従者がサーシャの肩に手を置き、そのままやんわりと椅子へと押し戻したのだ。
肩に置かれた手がそのまま首に回り、サーシャは眉を寄せて目の前の少年を睨んだ。
やっぱり。
自分が拒否したらこういう展開に持っていくつもりだったのだ。初めから。
椅子の上で態勢を崩しながら抵抗するが、意外にも従者の力が強い。首が締まらない絶妙な力加減で首に手が回り、テーブルを挟んだルートヴィヒが優雅に微笑んでその様子を見る。
胸ポケットから見たことがあるレースの紐が取り出され、サーシャは思わず天を仰いだ。
「そんなに怒るな。別に悪い話じゃないだろう?」
「こういうことされて、怒らない人なんていないよー」
「確かに。拘束するまでもなく、皆思い通りに動いてくれるからな」
「離して」
「サーシャが私の言うことを聞くのなら」
埒が明かない。
ルートヴィヒは良い人間だとは思うが、一度求めたら頑として主張を曲げないところが厄介だ。
手荒な真似はしたくなかったが仕方ない。サーシャは覚悟を決めて、椅子に座り直した。
ルートヴィヒの手が伸びてきて、紐が目前に迫る。
それをやんわりと押し返す。そして自分の首を持つ従者の手に自分の手を重ねた。ルートヴィヒの目が細まる。
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「わかった、わかった。ルートヴィヒの言う通りにするからその紐はやめて」
「悪いが信用できない」
「じゃあ紐で縛る前にお茶をもう一杯欲しいな。美味しかったから〜。従者さん、お願いします」
「……安直な」
お茶を用意するために従者が首から手を離すと思ったのだろう、とルートヴィヒは薄く笑う。
拘束が解かれた瞬間逃げ出すに決まっている。ヘラヘラと笑っているくせに逃げ道をキョロキョロと探しているサーシャに考えが足りないな、と思う。
当然首を離すよう従者に指示するわけもなく、代わりにルートヴィヒは自分の飲んでいたお茶をソーサーごと差し出した。
「そんなに飲みたいのなら私のをどうぞ。少し冷めてしまったがいいか」
「ありがと〜」
サーシャがにっこりと笑って受け取ろうとしたのでルートヴィヒは眉を寄せた。
サーシャがお茶に向かって手を伸ばし、気づいた時には遅かった。
ルートヴィヒと従者が目を見合わせ、一体何が起こったのか現状を把握する。
今までサーシャが座っていた席からはその姿が忽然と消えていた。
「今、何が起こったんですか?」と従者が狐に摘まれたような顔をして主人に問う。
ルートヴィヒには同属性の波長を感じたので何が起こったのかわかっている。わかってはいるが、誰にでもできることではない。
サーシャにしか出来ない魔法を一瞬で仕掛けられてしまったのだ。
お茶には安眠作用のある茶葉を使っている。その効用を風魔法で増幅させたのだ。
円卓を囲んだルートヴィヒと従者に急激な眠気が襲いかかり、ほんの一瞬微睡んでしまったのだ。おそらくほんの数秒。何故ならお茶の温度は変わっていないから。
ルートヴィヒは唇を噛んで従者に告げる。
「包囲網を敷け。寮塔にも、学園の門にも、街の凱旋門にも全て。必ず捕まえてこい」
「かしこまりました」
しかし結果としてサーシャは捕まらなかった。忽然と学園から姿を消したサーシャを追うことは難しい。
ルートヴィヒは己の甘さを悔やみつつ次なる手を考えた。




