54. 夢魔とルーナ
「もしかして真名を呼ぶ時って、結構特別な時だったりする?」
「そうだね。人間でいう人生の節目に使う名前だよ」
「節目?」
「誕生時とか死去時とか」
「なんで?」
「僕もよくわかんないな。だって記憶にないもの」
「つーか、そろそろクソガキがなんで名前を呼べるのか知りてぇ」
気づいたらイグニスが近くまで来ていた。髪を乱暴に掻き回され頭を掴まれた。
ルーナに比べ、イグニスはもっと精霊神の仕組みを知っている気がする。
ウェントスもイグニスもただ一人に傾倒し、執着している。ルーナの「誕生時」という言葉から、その「ただ一人」というのは「創造主」のことではないだろうか。
精霊神は増えないが、しかし今ここにいるということは作った誰かがいるのだ。
「真名」を与えられてイグニスもウェントスも誕生した。ルーナに関してはよく分からない。「真名」を呼んでも二人ほど嫌がらなかった。
魔術師学園でも地上属性に限定した授業が行われているので月属性はまた違った理りがあるのかもしれない。
「その、イグニスの大切な人ってお母さん?」
「まー、作ったって意味じゃそうだよなー。気づいたら一緒いたし」
「誕生の時ってどんな感じなの?」
「覚えてねぇ。でも『名前』が与えられたって漠然とした感覚はあった。んで、そいつと過ごしているうちに色々精霊としての役割聞いて、作ったり、殺したり繰り返してた」
「なるほど」
神様だからと言って頂点に君臨するわけではない。その上に創造主がいて、世界のあり方を決めている。
途方も無い夢物語のような話だが、今神を目の前にして否定は考えていない。
世界の在りようを創造主と神で均衡を決めて、この世界を運用していたのだ。
ただ存在するだけが神では無い。精霊神の三人が時折ふらりと消えるのは各々均衡を保つための仕事をしているのだ。
知らないところで実はしっかり働いている神たちにサーシャは感謝を告げる。
サーシャとは別次元の話のため認識としては夢物語でいい。すごい話だな〜とスケールのでかさを右から左に流した。
「名前に関しては俺も覚えてないんだよね〜。本とか妖精のお姉さんに聞いたのかな、って思ってるんだけど」
「それはねーな。月も言ってたろ。真名は特別な時にしか使われねーから他に漏れるわけがない。呼ぶ時も色んな支度があるって聞いたぜ。真名は相手を束縛する力があるから」
「結構物騒なんだねー」
「無遠慮にいきなり束縛しやがったクソガキが何言ってんだ」
「え?」
頭を叩かれて、すぐに思い至った。イグニスに会った時もウェントスに会った時も、なんとなく頭に浮かんだ名前を呼んでみたのだ。
それが束縛の意味を持っていたなんて知らなかった。
「束縛されっと、魔法が拘束主に効かなくなんだよなー。すっげえ厄介。この縛りさえなけりゃ速攻殺してんのに」
「うわ、ごめん。知らずとはいえ悪いことしたねー」
「そう思うんなら早く死ね」
「火、もういい。黙って」
ルーナが間に入って会話を止めた。
急にイグニスに「早く死ね」と言われてサーシャは面食らう。庇うルーナを静止して、イグニスに質問を続けた。
「拘束主が死ぬと束縛が解けるの?」
「普通そうだろ。術者が生きてたらこの呪いは生涯続くし」
「もう一度真名呼んだら、解けたりしない?」
「……はぁ?」
「サーシャ」
目を見開くイグニスは、突然頬を紅潮させる。
その姿を隠すように今度こそしっかりとルーナが間に入る。
口をモゴモゴ動かすイグニスが後ろに見えるが、追従する言葉は発せられず、サーシャはひとまずルーナを見上げた。
……何だか、少しばかり怒っている気がする。何故?
「束縛束縛言っているけど、サーシャが気にすることはないでしょ」
「なんで? イグニスの意じゃないから解放してあげないと」
イグニスの肩が僅かに揺れる。「解放」の言葉に紅の瞳が不思議な色を纏う。
「だってサーシャは縛ってないじゃない」
「そうなの? だって」
イグニスが人間と共に学園生活をしているのが実はずっと不思議だった。
今、束縛しているからだと聞いて納得していたところだ。人間嫌いのイグニスがまどるっこしい生活を何年も続けているなど非常に不自然だ。
長年縛り続けてきて悪かった。
早く解放してあげないと、と考えるのは自然な話ではないか。
「拘束術、サーシャもされたでしょ。ああいうの火に向かってしたことある?」
「あ」
「ないでしょ。だから彼はいつでもどこでも自由に動けるんだよ。火の好き勝手を君が考える必要なんてない」
ルートヴィヒによる拘束術のことを言っているのだと気づいた。あの時は自分の意思関係なく引っ張られるので何とも煩わしかった。
確かにイグニスに向かってああいったことはしていない。
そもそも拘束しているという認識がなかったからだが。
「あぁ! 楽しかったわ〜! ……あら、何この空気?」
飛行旅行から帰って来たウェントスが、神妙な空気の中に明るい風をもたらした。
こういう訳で、と事の成り行きをサーシャが説明すると、ウェントスが勢いよく吹き出して大笑いする。
「あはははは! ああ、おっかし〜! サーシャちゃん、それはダメよぉ〜」
「俺が? 何で?」
「二度目の真名呼びは更なる拘束の意味になるの〜。人間で言う結婚って感じかしらね〜。だからしっかり選ばないと〜」
「え、……えぇ?」
「尤もちゃんとした儀式の準備と多くの条件が必要だから簡単には成立しないけどね。でも私も主様と本契約してみたいわ〜」
「あ、結婚、っていうか契約のことか。吃驚した〜」
知らぬとはいえ、とんでもないことを言ってしまったと内心サーシャは焦っていた。けれど契約のことだと知り、気持ちが落ち着く。
それにしても精霊たちにとって名前とはなかなか重要なものであるとサーシャは再認識した。先日も愛称を呼びあって契約を試みたし。
ウェントスの言うことはなかなか分かりづらい。言葉遊びが好きなのだろう。言葉の中に含みが持たせられていたがサーシャは無論気づかなかった。そしてその矛盾にも生憎察することができない。
何だかバタバタしてたらウェントスの記憶をしっかり見ることが出来なかった。いや、人の大事な思い出を不躾に見るのもどうかと思うが。
やや渋い顔をして黙り込んだルーナとイグニスを見て、サーシャは軽く息を吐き出した。
子供の頃と違ってだんだん扱いが難しくなって来た気がする。
空色が消えて、あたりは再び闇に染まる。それを合図に今度はルーナの体が縮んだ。
「ん、次は僕か」
気を取り直したルーナの目の前にサーシャが立つ。
それを見てイグニスは嫌悪のあまり口を歪めた。
ルーナの前に立つサーシャは、今のサーシャではない。
出会った頃の幼児の姿で、その姿はサーシャ自身が認識しているものとかなり違う。
「俺って始めこんな感じだったんだね〜」
「何これ、骨と皮ばっかじゃん。殺さなくても勝手に死にそー」
「サーシャちゃんって学園じゃ孤児設定だったわよね。納得だわぁ」
「いや、それは俺が必要書類提出しなかったから向こうが勝手に……」
死人のように顔白い顔をしたサーシャが徐に手をあげる。
その動きは非常に緩やかで、力の在り処がわからない。ミシミシと関節が音を立ててルーナの手に触れた。
幼いルーナが嬉しそうにやんわりとサーシャの手をとる。二人の手はコバルトブルーに染まっている。あれは、とサーシャは思い出した。
『ルーナ、ての あおいろ とれないね〜』
『なかなかしぶとい。サーシャの手、赤くなってるし。強く洗っちゃダメだよ』
『ねえねに せっけんの つくりかた きいた。つくろ〜』
「ふふ、懐かしい」
記憶のサーシャと会話を続けながらルーナが笑みを作る。
その後二人は石鹸の材料集めに森に入って探検をするのだが、続いた展開の長さにイグニスは再度離脱した。「あいつキモイ」の一言を残して。
と言うのも石鹸作りの後も全てがサーシャ、サーシャ、サーシャとサーシャに関する記憶で埋め尽くされていたのでイグニスが堪らず砂を吐き出したのだ。
逆にウェントスは興味深げにその記憶を眺めている。
「創造主に関するものはないのね〜」と不思議そうに頭を捻った。
サーシャはサーシャで多分自分も似たようなもので、ルーナに関する思い出が再生されるのだろうな、と緩く笑った。




