52. 夢魔
目を瞑った向こう側は漆黒の海の上だった。
ざぶんと、音を立てて墨の中に飛び込み、ゆらゆらと下に向かって漂って行く。自分が何かを持っていることに気づいた。両手いっぱい程の大きい卵を抱えていたのだ。怪鳥の卵くらいに大きいそれは非常に食べ応えがありそう。
持って帰れたら大きなパンケーキを作ろう。
暫く降りてやっと水底に到着した。すでに精霊神は到着しており、皆似たような卵を持っている。
ルーナは白銀色、ウェントスは萌黄色、イグニスは紅蓮色で、サーシャは特徴のない白色だ。
墨を撒いたように黒い海底はどこまでも続き、端が全く見えない。灯が全くないのに暗いわけではなく、周囲の様子がよく見えた。立っているのは自分たちだけで、生徒たちは皆卵を抱えたまま地面に転がっている。
大事な物を守るように卵を腕の中に隠し、眠り込んでいた。
「こういう風になってるんだね。僕初めて来た」
「私は主様と来たことあるわ。楽しかったわ〜」
楽しげにあたりを見る精霊神にサーシャは尋ねた。
そろそろ目的を教えてくれてもいいのでは?
ここが現実世界でないのはわかっている。
サーシャには似たような経験が最近あった。風の聖域でその身に受けた状態異常の時によく似ている。実家の聖域にも薬草があり、似たような症状をもたらした。
これは睡眠の状態異常だ。
しかし植物による状態異常とはちょっと違う。睡眠の状態異常時はここまで脳内が覚醒していないので、寝ている自覚が乏しいのだ。
しかも自分の意思がない無防備な状態なので、敵の攻撃を防ぐことができない。ある意味最も危険な罠である。ここは学園内なので危険はないだろうが。
精霊神は本来睡眠を必要としないので、寝不足を解消したいという動機もない。そもそもこの神たちはよく寝ていると思う。
「うふふ、サーシャちゃん不思議そうねぇ」
「クソガキはアホだからな。忘れてんじゃね?」
「僕らは状態異常に耐性があるから、ちょっとなってみたかったんだ。興味本位だよ」
「……そんな理由で」
驚きの理由にサーシャは言葉を失う。
しかし言われてみればもっともな話である。
生命の危険がないのなら楽しそうなことは率先して行うのが精霊だ。現にサーシャの姉も好んで状態異常になって遊んでいた。
神にもなると微弱な植物による状態異常は無意識化で跳ね返してしまうのだろう。ある程度の魔力を持った攻撃でないとその身に受け付けない。
しかし、それだけの理由でわざわざ睡眠の状態異常になるというには弱い気がする。寝るだけあれば普通にベッドで寝ればいい。
解せない顔をしたサーシャの頭をイグニスが叩く。当然痛い。
そして昔のことを思い出す。
「マジでアホだな。このポンコツは叩くと治んのか?」
「確かに叩かれて思い出した。俺が年少の時イグニス魅了されてたじゃん。あれはカウントされないの?」
「おまッ! 今、それ言うかぁ?!」
意外な事実を公表され、ルーナとウェントスは揃って吹き出した。
精霊神が状態異常にかからないのは当然としても相手が悪い。
本人の自覚こそないがサーシャの魅了の術はイグニス曰くえげつなかった。
精神全てを暴力的なまでに持って行かれて、数日経った後も尚、サーシャの愛らしさに頭を悩まされたものだ。そんな失態を今更掘り返されてサーシャの首を軽く締め上げる。
ウェントスが腕からサーシャを助け出し、頭を撫でながら話を戻した。
「よしよし、なでなで。この睡眠はただの睡眠じゃないのよ〜。見て気づかないかしら?」
「ん〜?」
見てもサーシャにはよくわからない。先ほどと光景は変わらず寝ている生徒がいるくらいだ。
「きっと普通に受け入れてるからわからないのね〜。正解はここは私たちの精神と夢魔の精神が合致した特異な場所ってことよ」
「う〜ん?」
夢魔、とは別名ナイトメアのことだ。人間を眠りの中に引きずり込み死ぬまで覚醒を許さない恐ろしい魔物だ。
ということは生徒たちは、いや自分も夢魔の手に落ち眠っている事いうことだ。
しかし、そんな魔物教室にいただろうか?
首を傾げて視線だけで問うと、ルーナは「いたよ」と視線だけで返答をした。バクの愛らしさに目移りをして全く気付いていなかった。
夢魔は淫美な女性の姿をしており、普通の人間ならばバクよりもそちらに目が行く。全く気づかないサーシャはある意味サーシャらしい。度がつく鈍感さだ。
「精神が合致するっていうと、一方的に夢魔の干渉を受けないで済むって意味かな? 俺たちの意思もある程度反映できるとか」
「そういうこと。その辺に転がっている人間は残念無念の成れの果てね。ただ衰弱して死に向かうだけ」
「ん? 夢魔を倒したら起きるでしょ。俺たちだって倒さないと出られないし」
「あら、聡いわね。サーシャちゃんは絶望とかしないのかしら〜」
「本で夢魔のことは読んだよ。簡単にしか書いてなかったけど」
サーシャはふと持っている卵に目を落とした。本には卵のことなど書いてはいなかった。持って帰って調理できるのか、夢魔を倒したら蔵書に書き加えてあげよう。
「みんなは夢魔に干渉されて、何を見たいの? 夢魔って見せるの悪魔でしょ」
サーシャはそう聞くと、其々三様に楽しそうに笑みを浮かべた。
「干渉してるから、悪夢とは限らないよ。確かに見るものは選べないけど。希望としては僕はサーシャが成人した姿が見たいな」
「この卵は本人すら認知していない深層心理なのよね〜。私は主様が見たいわ、お顔忘れちゃったから」
「オレはそのまんまどぎつい悪夢。クソガキが泣いて怯えて縋り付くとこ見てえ。いつもいつもヘラヘラしてウゼエから」
「ウェントス以外、しょーもなくて笑える」
イグニスからすかさず蹴りが入ったが、ギリギリで避けることが出来た。
ルーナの言う成人なんて、もう数年後の話だ。わざわざ今見る理由がわからない。それに言うほど変わらないだろう。
イグニスは何で一々突っかかってくるのか。彼のコミュニケーションの手段であるのは理解できるがやり方が非常に幼い。初等部の頃から何も変わっていない。
ウェントスの話だけがサーシャにとって興味深い。
「サーシャちゃんは? 見たいものある? 夢の中だから何でもありよ〜」
そうだな、とサーシャは素直に考えた。実現不可能で見たいもの、と思いを巡らせてみる。
……何かが頭をちらつかせたが何だかよくわからなかった。それが掴めなかったため、全てがどうでも良くなった。
「俺は特にないや」
「札束溢れるバスタブに複数の女性と入ってみたいとか」
「アハハ、それは世俗的で面白いね〜」
笑い合ってると、突然漆黒の空間に花火が上がった。どんどんと腹に振動を伝える花火が数発上がると、残り火が「コングラチュレイション」とカタカナのままに残る。「何あれ」とイグニスは唸るが、ウェントスは楽しそうだ。
花火の中から水着のような衣装を着た女性が現れる。頭から山羊に似たツノが生え、お尻からは細長い尻尾が伸びている。尻尾の先端はハート型に尖っていた。
淫美な姿は当然夢魔だろう。サーシャは「また、痛そうな服着てる……」と悲しくなって目を伏せた。
夢魔は機嫌良く腰をくねらせ、拳銃の形をした手でサーシャたちを撃ち抜く格好をしてみせる。
「おめでとうございまーす! 本日の来訪者はとってもラッキー! 特別出血大サービスで悪夢はお休みよん! 皆様の生涯で大変幸せだったひと時をプレゼント致しまーす!」
「はあ?」
露骨に機嫌を下降させたイグニスの胸に、真っ黒な穴が開く。フリだと思っていたあれは、本当に撃っていたのだ。
イグニスだけでなく全員の胸に穴が開き、それは徐々に全身へと広がっていく。
顔まで侵食が広がりもう見えない、となった時、三人の手がサーシャに同時に触れたのを感じた。




