49. ウェントスの祝福
「ただいま〜」
寮塔に戻ると不機嫌全開なイグニスがいた。
ウェントスは入寮許可が出ていないので悲しそうに寮の周りを漂っている。
クーロの管理システムのせいで締め出しをくらっているのだ。失念していた事実にサーシャは謝ってウェントスを招き入れた。四人になるなら部屋割りを変えないといけない。
「おっせー、ノロマ。何してたんだよ」
イグニスにほとんど注意を払わなかったせいか、不機嫌が半端ない。髪を乱暴に掴まれてサーシャは少し泣いた。
「痛いから離して」
「言い訳聞いたらな」
「ルーナとちょっと寄り道してきたんだよ。そんなに待った?」
「あらー、二人でデート?」
「男同士の時はデートって言わないよ。訂正するのなら冒険かな?」
「ずっりー! 死ね!」
パターン的に拳が飛んでくる気がして、サーシャはワタワタと射程から逃げた。
イグニスはいちいち荒っぽい。逃げる途中で腕を掴まれて、体勢を崩した先がイグニスの胸板なので堪らない。レンガに頭をぶつけたように痛む。
「イグニスも好きに出かければ良かったじゃん。別に待ってなくても」
「サーシャちゃん、サーシャちゃん」
イグニスの背後から黒煙が上がり、何故かウェントスが間に入った。
「こういう面倒な男には可愛らしく赦しを乞わないと余計拗れるわ。演技で良いから形だけでも」
「聞こえてんだよ、クソ女」
「いや、許しなんて要らない。火は立場を弁えて消えて」
「あら、私たちって想像以上に仲悪いのねー」
うふふ、と何故か楽しそうにウェントスが笑う。これは喧嘩をしているのだろうか。サーシャは喧嘩をしたことがないからどういうものかよくわからない。
しかしイグニスが怒っているのは確かなので、話くらいは聞いてもいいだろう。
「イグニス」
「なんだよ」
呼ばれてややバツの悪そうな緋色の瞳が細められた。サーシャの両の腕が掴まれて次の言葉を静かに待つ。
その様子が飼い主からの指示を待つ敬虔な飼い犬のようにルーナとウェントスには見えた。パタパタと左右に振れる尻尾は幻覚か。
「ごめんね」
「いい。次はオレも連れてけ」
あんなに怒っていたくせにそれでいいのか、と思うくらいあっさりとイグニスは怒りを鎮めた。
両腕を固く握られながら、サーシャは「次」の約束をその場で確約させられたのであった。
クーロと少し遊んだあと、サーシャたちは施療塔に向かった。
ルートヴィヒの容態を心配しての訪問で、また自分の帰還を知らせるためでもある。学園の教師に帰還を告げても聞き流されたので申請は受理されないだろう。
どこかに消えてもどこかから帰ってきても、どうでもいい存在なのだから仕方ないのだけれど。
初めて訪れた施療塔は意外にも賑やかであった。図書館のように静まり返り、治療を行っているイメージがあったのだが話し声が絶えない。
いや、よく聞くと呻き声だ。
開け放たれた個室の先。直視できない光景にサーシャは思わず顔を歪めた。
戦地からでも帰ってきたのだろうか。どの病室もなかなか見ない類の怪我人で埋まっている。個室は清潔綺麗広々で怪我人の身分の高さを感じた。
もしかしたらAクラスくらい高い地位の人たちかもしれない。
ん? Aクラス?
原型を留めていない怪我人の顔を注意して見てみると、なんとなく見覚えがある。
じっと見ていると、向こうも驚きのあまりベッドの上で体が跳ね上がった。
「ゼロ、さん?」と虫の鳴くようなか細い声が聞こえ、サーシャはやっぱりここにいるのはAクラスの面々であるのだと気づく。ゼロさんと呼ぶのはAクラスの数人しかいない。
つい最近まで共にいたAクラスが急にこんなに酷い怪我をするなんておかしい。
最後に船で見たときは皆五体満足であった。
ウェントスが「手加減なしに船を飛ばした」「少し潰れた」と言っていたのはこういう意味だったのか、とサーシャは遅ればせながら気づいた。
多少どころではない惨状にサーシャは自分の考えなしを詫びた。精霊神にもっと説明すべきだった。
彼らは人間に対する情報を殆ど持たない。ルーナが例外だったのだ。
「ウェントス」
「うふふ、何かしら?」
「次はもっと優しくしてね」
「失敗は誰にでもあるわ。次は任せてね」
一切の反省なく愛らしく微笑んだあと、ウェントスはサーシャの腕に絡みついた。
ため息をついて少年は足を先に進める。
心配していたサーシャもあっさり気持ちを切り替えたので、ある意味ウェントスと肩を並べる程度に薄情である。
入院階の奥まった所、VIPルームに該当する部屋にルートヴィヒはいた。病室とは思えない広間に貴族の少年はソファーに腰をかけていた。しゃんと伸びた背筋に長い黒髪が揺れる。組んだ足の上に重そうな本を乗せて勉学に励んでいた。
音響装置からは耳に優しいクラシックが流れており、ルートヴィヒによく似合う優雅な空間に仕上がっていた。
ドアを開けてからでは順序が違うが、サーシャは小さく三度ノックする。
「ルートヴィヒ」
声をかけると、ゆったりとした仕草でルートヴィヒが本から顔を上げた。その顔に目立った損傷はなく、他の生徒と違いきちんと防備が取れたようだ。
しかし全くの無傷ではない。ガウンの下から覗く包帯は痛々しく、腱を切られた足は機能を止めている。魔術で治療しているものの限界があるのだろう。
ルートヴィヒもガイアの元に連れて行こうか。しかしそうなるとルートヴィヒは他の生徒の治療も希望するだろう。大人数を往復させるほどサーシャに魔力はなく、また敵国内で次も無事である保証はない。
治癒魔法、もっと練習していれば良かったな。
今更仕方ないことを後悔していると、ルートヴィヒが手綱を引くようにして空中で手を動かした。あの動きは見たことがある。
サーシャが自分の首に指を触れると、あの首輪の魔力が消えている。時期が来て拘束が解けたのだ。こんな時に喜んではいけないのかもしれない。ルートヴィヒが少し悲しそうに微笑んだから。
「サーシャ、よく来たな。君が無事で良かった」
「おじいちゃんに治してもらった。ルートヴィヒは痛そうだね」
「だいぶ良くはなってきた。……こっちに来れるか。歩けないんだ」
ルートヴィヒの近くに行くと、隣に座るように促されサーシャもソファーに沈む。ルートヴィヒはまっすぐ座っているというのに、サーシャは柔らかさのあまり体が飲み込まれる。何故。
貴族の少年は優雅に微笑んでサーシャへと手を伸ばした。
「あの精霊神と共に消えてから、どうなったか心配していた。もう戻って来ないかと」
「なんで?」
「サーシャは精霊を選ぶのかと思ったのだ。精霊神と契約を結べば世界の英知を握れると言っただろう。学園に戻ってくる必要はない」
「意味がよくわかんない」
ルートヴィヒの憂いがサーシャにはピンと来なくて同調できない。
よって励ましも慰めも出来ず首を傾げた。




