42. 毒沼
貴族の隣に座らず、目前へと顔を向ける。
何を考えているのかわかったルートヴィヒは眉間にしわを寄せた。
「ちょっと先の方の様子見てくるよ〜。薬草あれば取ってくる」
「不要だ。良いからサーシャは不用意に私から離れるな。傍にいろ」
「すぐそこまで。見える範囲にはいるから〜」
止める間も無くサーシャは毒沼へと進んでいってしまう。自由のきかない己の身を思いルートヴィヒは苦々しく唇を噛んだ。
風の流れを歩くように、危なげなくサーシャは先へ進んで行く。
確かにサーシャはルートヴィヒ以上の実力を兼ね備えているのだから危険は少ないだろう。学園の判定基準から外れた膨大な魔力量に敵う生徒も敵も稀である。
そもそも今現時点でサーシャ以上の魔力の使い手を知らない。大抵のことは何でも自身でこなしてしまうサーシャに心配など不要なはずだが、どうしても不安が拭いきれない。
何故なら彼は魔力どうこう以前に頭が圧倒的に足りていないからだ。ふとした時にどう判断をするか予想がつかない。
「…………!」
毒沼の奥まで進み、殆ど闇に消えかかっている彼が突然ルートヴィヒの視界から消えた。
どうした、と焦る気持ちに痺れる体を無理やり動かすと、黒い影が毒沼からひょっこりと顔を出す。
落ちたのだ。
何故、と心配しながら動向を見守る。ここから声を発しても距離が離れているためきっと届かない。そもそも喉も痺れ出してきたので声が出せない。
よたよたした動きでサーシャの影が再度空中に浮かぶ。彼の呼吸に合わせて赤黒い邪気が体から放出している。まんまと毒を食らったらしい。
随分な時間をかけてサーシャがこちらの岸へと戻って来た。皮膚は所々緑色に爛れており、痛みを伴うのか半泣きだ。
「と、つぜん。カエルが、舌を伸ばして、足が取られてー」
「…………」
痛々しい姿にルートヴィヒは声にならない声を発する。可哀そうにと思いつつも本気で心配が出来ない。
ひいひい嘆くサーシャに真剣さが足りないからなのか、悲壮感が薄いからなのか。
表面上は心配しているふりをして、少し休め、と視線だけで促した。
毒は動くたびに全身に回る。自然治癒が難しい状態異常なので休みながら対策を考えよう。しかしサーシャはやはり思わぬ行動に出る。
「泥臭いから、ちょっと、流すねー」
「…………」
制止の求めより早く、サーシャの真上に水球が現れる。
ドバッと滝のような水が降って来てそのままサーシャは全身に被った。「痛い痛いー」と鋭い水流を傷口に受けながら当然の結果をサーシャが泣いて告げる。いい加減馬鹿をやるのはやめろ。
痛みに縮こまるサーシャの周りが突然波を打つようにして揺れた。
「…………!」
「う、ん?」
水球の水が大地に染み渡り、化学反応を起こすようにゆらゆらと土が盛り上がっていく。周囲を囲まれたサーシャの足が地面へと飲み込まれる。
いや、地面ではない。
「わ、……え? なにこれー?」
「…………ッ」
大地かと思われたそれは擬態した姿だったようだ。水に反応を示しその姿が露わにある。
モルボルボールに似ているがあっちは魔物だ。これはただの植物である。
食の本能をただ全うしているだけの捕食風景だ。
なのに何故こんな構図になるのか、純粋に疑問を抱く。
大人の腕ほど太い触手がぬらぬらと蠢き、何本も連なってサーシャの体を拘束していく。柔らかくも腕を絡め取る、人間の関節を熟知しているかのような拘束だ。
「うぇー、……気持ち悪い」
拘束する触手とは違う、なめくじに似た片面に襞を持つ触手が粘液を伴ってサーシャの腹を滑っていく。
上着の中へ侵入しようかという時、サーシャが割と本気で泣きながら自分の身ごと炎に包んだ。
おそらく制御しなかったであろうその火力はルートヴィヒのつま先まで至り、サーシャを中心とした大地や毒沼を消滅させてしまった。
当然触手は炎の中で塵となり、サーシャは無事に解放される。消滅した穴の真上で息を切らせたサーシャは「疲れた……」と最後の力で浮遊し、ルートヴィヒの隣に倒れた。
「俺も、ちょっと休むー」
「…………」
麻痺と毒の状態異常に苛まれた二人は、今度こそ大人しく体を休めることにした。気づかなかったが既に時分は真夜中を過ぎていた。
翌朝、サーシャが目覚めると毒はすっかり良くなっていた。
深夜、先に動けるようになったルートヴィヒが毒沼から蛙を捕獲し、胆のうから毒消しを作ったのだ。
毒効果で瀕死状態に陥ったサーシャは動くことができず、介添えし何とか薬を飲ませることが出来た。一人で向かわせなくて本当に良かった。
無事に状態異常から回復し、毒沼を慎重に渡る。
昨日サーシャがくらったように、沼からは時々引きずり込むような攻撃が入る。その正体は蛙だったり蛇だったり水草だったり様々だ。一度見たので再度くらう下手をするわけもなく、何とか数キロの毒沼を渡り切った。
次に現れたのは花粉を撒き散らす毒花である。大人の背丈を越える毒花に、人の頭ほどある巨大な蝶が群がる。花粉と鱗粉が霧のようになって広がり、一瞬様子がわからなかった。
当たり前のような迂闊さでサーシャが足を進めるので、ルートヴィヒはその腕をとる。
「待て、あれが見えないのか」
「え? ……あ」
霧の隙間から見える草や大地が石になって固まっている。哀れな兎も道に迷ってしまったのか、彫像となって地面に転がっていた。
「今度は石化かー」
「状態異常の恩恵ばかりの森だな」
嫌味な一言を漏らす。
風に乗って霧が拡散する。霧に触れないよう一歩後方に下がった。
「でも、森だけあって荊も沼も毒花も全部風属性になってるね。火で全部燃えそ~」
「確かに私と相性はいいな。焼いてみるか」
「俺もやってみる。イグニスほどじゃないけど火魔法は得意だよ」
「イグニスとは?」
「友達だよ~」
笑って述べるサーシャにルートヴィヒは首を傾げた。サーシャに友人などいただろうか。少なくとも学園内ではいつも一人だった。
しかし、とルートヴィヒは記憶の糸をたどる。「ルーナ」も「イグニス」もサーシャの独り言の中で多く登場する名前だ。イマジネーションフレンドだろうか。
少し悲しい気持ちになったので、もう少しサーシャに対して優しくなろうと貴族は考えた。
「あ、やりすぎた」
「……サーシャ」
サーシャの手のひらからどでかい火球が放たれ毒花へ落下した。ちょっと燃やすどころではない火力が周囲の景色を真っ赤に染め上げる。
囂々と音を立て、決して消えることはないだろう炎が迫ってくる。完全に山火事である。
かといって消そうとして水をまけば、あの卑猥な触手が出てきてしまう。
いつもいつも向こう見ずな行いばかりなのでなかなか主導権が握れない。要はいい加減にしろ、とルートヴィヒは思う。
「上を飛び越えて行こうか~」
「火事が広がって逃げ場がなくなったらどうするつもりだ」
「その時は消火活動しながら一緒に触手と戯れようよ」
「冗談じゃない」
女性ならまだしも男二人が触手にうねうねされる需要は絶対にない。
冗談ともわからない良い笑顔でサーシャが言うのでルートヴィヒの顔が引きつる。
とはいえ、なんだかんだ言いながら空を飛びながらサーシャが雨……というか豪雨を降らせたので火は無事に消し止められた。
鎮火と同時に触手が顔を出したが、リーチさえ届かなければ何という事はない。
気色悪いのは間違いないので、地上を見ないようにしながら粛々と先に進んだ。




