41. ミーティの聖域
聖域である森の中を二人は歩いていく。
聖域手前の森はルートヴィヒの平衡感覚を奪ったが、此度は大丈夫らしい。
警戒のために視線をあちらこちらに飛ばしているものの足取りに迷いはない。獣道程度の細い道が迂回しながら森の深淵まで伸びている。道幅が狭いため先頭にルートヴィヒ、後方にサーシャが続いた。
木の密度が高いせいか太陽光の殆どが遮られている。鬱蒼とした木々に囲まれた森の中は非常に暗い。太陽の位置も分からないため時間の計測も難しいだろう。当然魔物の気配はしない。殺気を感じないのでサーシャはすっかりお散歩気分だ。
「ジャングルみたいで楽しいね〜」
「呑気な事だな。聖域は魔物が出ないとはいえ人の理りが通用しない。少しは注意しろ」
「初等部のとき精霊捕獲のため聖域に行ったよね。安全だって聞いたよ」
「Fクラスには説明が不十分なのだろう。事前に教師らで安全地帯を調査し半径五キロの範囲内での実習に収まっていたはずだ」
「え、そうなの?」
五キロどころかサーシャとルーナは普通に聖域を縦断してしまった。歩いた感じ数十キロはあったと思う。
とはいえ聖域縦断中は特にこれと言ったことはなかった。楽しいお散歩であった。またルーナとどこかに行きたい、と思考が飛んで行く。
「その反応を見るに領域を出たな」
「知らなかったから不可抗力だよね〜」
「奥に行くほど聖域の魔力が増大し、人の耐性を超えるという。耐性以上の魔力を受ければ破裂するとも」
「何が?」
「肉体が」
サーシャは何ともなかった。立証されているのか、噂にすぎないのではないかとサーシャは考えるが、ルートヴィヒ自身も確証はない。
代々そう申し伝えられてきた。己で実験することもできないし、まして他人で試すこともできない。その言い伝えを信じるしかなかった。
「ならこの聖域も進めば進むほど身が危ういということ?」
「先人たちの教えによるならな。サーシャは今は何ともないか?」
「まだ入り口だからかな。何も感じない」
「私もだ。しかしもし肉片に帰す可能性があるならば訪問は途中で諦めるぞ。人外は人間の事情に疎いからな。常識が通じない」
「納得はしてないけど了解」
入り口から数キロ進むと辺りはすっかり暗闇だ。暗闇に目が慣れ、木や蔦の輪郭がかろうじてわかる。
互いの布ずれから近くにいることもわかるが、サーシャは何となくルートヴィヒの服の裾を掴んだ。空中で掴んでいるため引っ張る力は伝わらなかった筈だが、気づいたルートヴィヒは後ろ手でサーシャの手首を掴む。
「異常があったら言え」
「今のところはない。あ、ルートヴィヒ、前」
一瞬後ろのサーシャへ視線を流したルートヴィヒは前方の障害物に反応が遅れる。暗闇の中視界がままならず、障害物は突然目の前に現れた。
「……っ」
木の枝から違う種類の蔓草がカーテンのように伸びている。蔓草には荊が付いているようで避けれなかったルートヴィヒは露出部に軽い負傷を負う。
「サーシャ、気をつけろ。身を屈めば荊に当たらない」
「わかった。痛くない?」
「大丈夫だ」
舐めようか? とサーシャは言おうとしたが寸前で思いとどまる。野生児のサーシャや雑な性分のイグニスならいざ知らず、流石に貴族様には相応の手当の仕方があるだろう。
薬の一つや二つ持ってきているに違いない。不敬罪になるところであった。危ない危ない。
荊のカーテンはしばらく続き、中腰のまま奥へと進んで行く。カーテンの出口が仄かに緑色に光っている。僅かながらの灯にほっと息を漏らして二人は蔓草の間を抜け出た。
「はあ」
「あらら」
目の前の光景に其々ため息と驚きの声を漏らした。
奥行いっぱいに緑色の沼が続いている。僅かに発光している沼からは気泡がポコポコと湧いていた。沼には毒々しい色の蛙や蛇が泳いでおり、沼の効用は一目瞭然である。
「飛んで行くしかないね」
「サーシャは自力で飛べるな。ちょっと待て箒を呼ぶから」
箒を持ってこなかったので飛行はできないと思っていたが、箒は使用者に連動しているらしい。
ルートヴィヒが何やら呪文を唱えると、数秒後風をきって箒がどこかから現れた。
「すごいね〜」
「これくらいは誰でも出来る」
「俺はできないけどね。……あれ?」
「ん」
仄かな光に照らされてルートヴィヒの顔色がわかるようになった。違和感を感じてサーシャは貴族の少年へと手を伸ばす。
出来たばかりの傷口が僅かに腫れている。傷自体は薄いが、触ってみると指にジンジンとした熱を感じた。
サーシャに触られながらルートヴィヒは眉を寄せて瞳を閉じた。
「これ、さっきの荊の傷だよね。痛いんじゃない」
「痛くはないが感覚がない感じだ。荊には麻痺の効用があったのだろう」
「あらー。ずっと我慢してたの?」
「進むにつれて症状が出てきた。全身に麻痺が回る前にさっさと進むぞ」
「うーん、ちょっと休もうか」
急ぐルートヴィヒを押しとどめてサーシャは休憩を促した。麻痺毒は時間の経過と共に回復する。どの程度要するかは毒の種類によるが無理に進まなくても良いだろうと判断する。麻痺を纏いながら果てしない毒沼を渡るにはリスクが大きい。
本来なら麻痺に効く薬草を処方するところだが、辺りを見るにそれらしい草は生えていない。
「ルートヴィヒは回復薬持ってきてないの?」
「忘れた。今思うと先ほどは冷静な判断ができていなかったように思う」
「何で?」
「今は言いたくない」
フイッと横を向いてルートヴィヒは沼の手前の草むらに腰をかけた。動きがややぎこちなくなっているのでやはり麻痺が体に回ってきているようだ。サーシャは隣に座らず目前へと目を向ける。
何を考えているのかわかったルートヴィヒは眉間にしわを寄せた。




