32. 国境通過
暫く歩いていたら、ゴォンと音を立てて船が止まった。
教師による船内放送が流れる。
「全員よく聞け。間も無く国境を跨ぐ。各自手筈通り自室に戻れ。食料は各部屋に配置済みだ。これより三日、無闇に行動することを禁ずる。四日後には渓谷に到着する」
「全員移動開始」
サーシャたちの頭上の階で扉が開き、生徒や騎士が各々の方向に散っていく。上の階のラウンジから退出したのだろう。
さっきまで賑やかだった話し声は一切せず、足音すら最小限だ。皆々緊張しているのが伝わる。
ほどなくして移動が終わり、船内から一切の音が消えた。
部屋に入った生徒たちは息を殺して国境通過に備える。一方サーシャは小さく声を漏らした。
手筈通りも何もサーシャは今後の詳細を聞き忘れていた。というか今聞いた。ルートヴィヒは話してくれたがなあなあに終わらせたのは自分である。部屋も食料もおそらくない。
「どうしよ〜」
と徐に目線を大空に向けた。
こんな高度なのにも関わらず鳥が飛んでいる。地上では見ない鳥種だ。虹色の鶏冠が長く伸び、悠々と大空を飛んでいる。
「つか、人いないなら好都合じゃん? どこでも入れるし」
「ラウンジにソファーあったよね」
「あ、そっか。なるほど」
盗人猛々しい発想にサーシャは妙案であると頷いた。
全員部屋に籠るというのなら客室以外はサーシャたちが自由に使える。ならば早速国境に入るまでに移動しなくては。
木製の階段を上って念願のラウンジに着いた。重い観音扉を開いてガランとしたフロアを見る。人がいなくなったラウンジは先とはまるで別の空間のようだ。
静まり返る空間にルーナがふわりと浮遊する。イグニスも続いて入り、徐にソファーに寝そべる。
「さっすが! ふかふか」
「え、俺も座りたい」
イグニスに続いてサーシャもソファーに座り、お尻が飲み込まれるほどの柔らかさに度肝を抜いた。
「沈む沈む」と遊んでいると頭上でイグニスが笑う。いつの間にか寝転んでいた椅子から降りて、サーシャの上に跨っている。
「サーシャ」
「なに?」
「敬語抜けてる」
「あ〜」
スカイダイビングや紐騒動のどたばたでいつの間にか言葉遣いが変わっていた。
年少の時から何となく使っていた言葉遣いが勢いに呑まれて変化し、もう一度戻そうかと思った。しかしイグニスが思いの外嬉しそうに笑うのでまあいいか、とも思い直す。
意思を伝える言葉に、飾りの有無は拘るところではない。
「イグニス」
「何」
「名前呼んでみて」
「…………」
何となく思ってみたことを言うと、イグニスは目を見開いた。以前彼が言っていた精霊との契約について思い出したのだ。
少し離れた位置で浮遊していたルーナが驚いた様子でサーシャを見る。
「待っ……!」
「サーシャ」
「イグニス」
口を開いたルーナを遮ってイグニスがサーシャを呼ぶ。
期待をありありと込めた瞳に見つめられサーシャは彼の名を呼ぶが、赤の瞳が瞬時に歪んだ。
「んあ?」
「なにも起こんないし」
契約がどうのとか言うからもっとパーっと光が溢れてドカーンと煙が上がりバーンとパワーアップするのかと思ったが何も起こらない。
クソガキ、とイグニスに蹴りを入れられて、頭上で苦笑しているルーナを見上げる。
「何? 俺間違った?」
「いや、間違ってないけど。サーシャは火属性と相性悪いみたいだね」
「どの辺が?」
「次は僕を呼んでみて。僕とならきっと繋がる」
「……なっ!」
イグニスが空中で慌てたように転がる。
言われた通りサーシャはルーナと名前を呼び合ったが、結果的には何も起こらなかった。
契約方法にはもっと条件があるようだ。本気で契約したかったわけではないので別に残念ではないが、機会があれば調べてみようと思う。
契約すれば魔力が増強されるのでいつかは精霊と交わしてみたい。未来に夢を膨らませるサーシャをよそに、ルーナとイグニスは難しい顔をして考え込んだ。
***********
だらだらと遊んでいたら夜も遅くなってきた。
星を見に行こうとサーシャに誘われデッキに出る。因みに浮遊魔法を使っているので足音はしない。
微弱な魔力なら敵国も察知しないと判断したらしい。大人しくしているなんて嘘。
「わ〜、すごい星空〜」
見上げると天空全体に星空が広がっている。
高度が高いため雲ひとつかからない満天の星空にサーシャは感動のあまりため息を吐く。
そのままデッキに横になり、煌めく星に現を抜かした。保護者がサーシャへと毛布をかけ隣に座る。自分は胡座をかいて座り、その後何となく隣の少年と同じように横になる。
頭上で流れ星が流れ、しょうもないジンクスが浮かび笑みを作った。
「あ、誰か死んだ」
「イグニスのところはそういう見方なんだね」
「クソガキんとこはちげぇの?」
「三回願い事をすると叶うんだよ〜」
「げ。なんかふわふわしててバカみてぇ」
舌を出してバカにする。
しかし昔した願い事は叶っている、満更嘘ではない筈だとサーシャは言う。
「でもルーナとずっと友達でいられますように、ってお願い叶ってるし」
「キモイ。何それ」
「イグニスも大切な人と会えるようお願いしてみたら?」
「はー?」
イグニスにはずっと思い焦がれているただ一人の人がいる。
人間と共に暮らし、サーシャと戯れている日々など単なる気まぐれに過ぎない。
或いはサーシャに対し利用価値を見つけたので、都合のいい時に上手く使ってやろうと思っているだけだ。結果としてサーシャが傷つこうが死のうが正直どうでもいい。
その時までせいぜい猫でも被っていようと、イグニスはそう考えていた。
しかしサーシャの方がイグニスを何とも思っていないように、のほほんと微笑む。
人間で言えばそれなりの時間を共に過ごしてきた筈だった。それなのに稼いだ年月を感じさせない微弱な熱量にイグニスは妙なもどかしさを感じた。険しくなるイグニスの顔を見て、サーシャが顔を傾げる。
「じゃあ俺が代わりにお願いしてあげる」
「なら僕もしてあげるよ」
後者で声を発した保護者は完全に面白がっている。
男にとってイグニスは邪魔な存在なので、早々に大切な人共々舞台から退出して欲しいのだ。
その笑みの意味がありありとわかり、わけのわからない歯がゆさが胸を締め付けた。そんな二人の睨み合いを露知らず、サーシャが手を合わせる。
お願いを始めたサーシャを、イグニスは不快な気分のままに蹴り上げた。
「他力本願なんてダッセーマネすんじゃねぇ」
「あ、ごめんね」
蹴られたサーシャは軽く頭を下げた。




