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魔術師たちの匣庭  作者: こたちょ
5章 魔物編
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16. 物忘れ

 

 澄み渡った初夏の空。明るい子供たちの笑い声。優しいまなざしでこちらを見る夢魔と人魚姫。

 幸せに溢れた空間で、自分だけが前後左右を見失った、暗中にいる錯覚に陥る。名前の忘却に驚いたが、それよりも更に目眩がする事態に襲われた。……忘却を自覚した途端、他の記憶も連なって薄まっていくのだ。自分がどこで生まれ、誰と過ごし、いつどこに旅立ち、どんな経緯で彼を選んだのか。


 突然の事態に思考が強制的に中断される。

 霞がかり、そのまま消えゆく記憶を必死で掬い取る。

 本気で泣きが入るような状況下で闇雲にそして出鱈目に掴んだ。何とか目に見える範囲をカバーし、無くしものがないか確認する。


 弟のこと、出自のこと。

 精霊神のこと、彼らが住まう聖域のこと。

 精霊の役割。そしてこの世界が向かう終末。

 世界を救うべく、今自分がこうして苦戦していること。


 生憎以前の名前は掬えなかったが、大事なところは掴んでいる。


(……大丈夫、……本当に?)


 心拍数が半端ない。天候とは裏腹に額や背中にどっと汗をかき、寒くて寒くて仕方がない。


 今になってアマデウスの『名を契った意味』を理解した。精霊や魔物だけでなく、人間界でも名前が強い意味を成すのだと。こうして身を持って経験し、彼と交わした強力な契約に戦慄する。


 人間界でいう『名前』はすなわち『フォルダ』に該当するのだ。

「サー**」のフォルダには「サー**」であった時の記憶が、「ファリャ」のフォルダには「ファリャ」の記憶が。一度名前が代わると前のフォルダには戻れない。自分が何者であったのか、一度忘れれば思い出す術はない。


 しかしこの方法。ファリャだけでなくアマデウスも捨て身の行動だったはず。ファリャ同様アマデウスも別物に書き換えられ、以前の「マル*****(忘れた)」ではなくなってしまうのだから。


 とはいえ、アマデウスの方は何も失った様子はない。全てにおいて後手後手な自分は、今漸く契約の意味と損失を理解したが、彼は常に余裕で溢れている。契約以上にアマデウスはもっと大きな何かを手にしているということ。それはファリャの血肉を代償としたかつての記憶。



「天使様」

「ファリャちゃん」


 両者が同時に自分を呼ぶ。

 考えに耽るあまり気づかなかったが、もう何度もファリャを呼んでいたようだ。ここで彼らへ反応するのが、怖い。意識を少しでもそちらに向けようものなら先ほど掴んだ記憶をまた零してしまいそう。

 浮遊は自動でかかり直進している。もう少し考えに集中させてくれないか。


「ねえ、ファリャちゃん」

「天使様」


 今考えなくてはならないことは何か。そしてしなくてはならないことは何か。水の神が残念に思っていた記憶の損失。それは名前の変更を元に起こったのでは?

 もしかしたら、もっと前はサ***ですら無かったのかも。あったかどうかも分からないと言うことは、無いとのと同じ。思い出せるわけなどない。


 水の神が記憶の継承を嫌った理由が見えた。

 記憶する媒体が白紙になりやすいポンコツで、更に言えば白紙に加わる記憶は全て真実になる。例え嘘であっても彼の願望がそのまま反映されてしまうのだ。

 だからこそ『誘惑が過ぎる』の言葉に繋がるのか。


「ファリャちゃんってば」

「ちょっと待って」


 何かが頭の中から消えた。

 それはファリャと呼ばれる度になくなってしまう。なるほど、サ***の部分はこうしてなくなるわけか。いくら保持しようと努めても、ファリャがファリャであり続ける限り消去は止まらない。


 この抵抗は無駄なのか?


「ファリャちゃん、このまま行くと」

「天使様……」


 夢魔の困惑と子供たちの不安げな声。人魚姫が服の袖を引っ張る。


「ぶつかるわ」

「!!!」


 その一言と子供たちの悲鳴、浮遊の強制停止と保護膜の形成は同時に行われた。


 大木を割るような衝撃音が耳をつんざく。

 保護膜に覆われた子供は全身を揺さぶる振動と音の大きさに意識を手放す。夢魔と人魚姫は受け身をとって大事はない。ファリャだけが全身を強く打ち、あらゆる骨が砕けた。朦朧とする意識の中、一体何が起こったのか顔を上げる。

 考えに没頭するあまり、目の前に障害物があることに気が付かなかった。みんな、自分に注意を促してくれたのに。


「ファリャちゃん、大丈夫?」

「…………」


 目が見えない。顔が潰れたらしく口を動かすのも辛い。もっと言えば全身が痛い。動ける要素のない体に、上げたい悲鳴も上がらない。


「な、にに、ぶつかった?」

「船ね〜。飛空艇ってやつかしら」

「ひ、くうて……」

「みんな気を失っているけど、無事よん。甲板に倒れているわ」


 軌道に血液が溢れる。

 呑気に話なんてしていないで、さっさと身を焼いて蘇生すべきか。指先から手のひらへ、腹の中から臓器全体へ、復活の炎が上がる。痛みに堪え皮膚が焼けるの感じていると、足音が聞こえた。


 等間隔に鳴る革靴の音。足の長さを思わせる歩幅。品の良い軽やかさ。足音だけでそこまで感じさせるなんて、そういない。夢魔でも人魚姫でもない人物が真っ直ぐこちらに向かってくる。


 十五歳。

 初夏。

 メルエ渓谷。

 飛空艇。


 そうだ、この時期にここを飛ぶのだった。


「……随分探した。君は一体を何をしているんだ」


 懐かしい。

 呆れたような、けれど堪えるような声が耳に届く。


「サーシャ」


 その名前は霞に留まることなく、はっきりと形に表された。


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