11. 名を授ける
「さて、次に会う時までの宿題じゃ」
「?」
紅梅色が風に靡き、束の間彼女のまつ毛が垣間見えた。悪戯っぽく微笑みを浮かべた瞳が、妙に艶やかで頭が沸騰する。
「器同士、名を交換せぬか? 妾に名を授けて欲しい」
今日な申し入れに動揺してしまう。
「マルグレットって名前があるじゃん。なんでわざわざ……」
「その名は好かん。仮初の名は、呼ばれる度どうもむず痒い。それにそなたも『サーシャ』などと、似合うてないぞ」
「そうなの?」
今まで気にしたことがなかった。名前が自分にあっているかどうかなんて。
確かにハルハドでは『サーシャ』は主に女児の名前として用いられる。むしろ『アレックス』になって良かったのかも。
いや、それよりも好きな子と名前の交換をするなんて、なんだか擽ったい。
徐に店先の本棚に目が行き、数ある本の一冊が目に飛び込んだ。名前としてどうかと思うが、響は結構いい。それにかっこいい。
「じゃあ、『アマデウス』で」
「……もう決めたのか。宿題と言ったのに、存外に適当じゃのう」
呆れたマルグレットはサーシャの視線を追い、同じ本棚へと行き着く。彼女もまた、蔵書の中から適当に選んだ。
「ならばそなたは『ファリャ』じゃ。……ふむ、なかなかいい名前ではないか?」
「言い難くて噛みそうなんだけど。いや、でも……」
「不思議としっくりこぬか? 妾も親より与えられた名よりずっと馴染むぞ。器同士、繋がるところがあるのじゃろうな」
「…………」
彼女の言うとおり、不思議な感覚だ。
初めて聞いた名前。馴染みも愛着も何もないはずなのに、彼女がその名を紡いだ途端目眩が我が身を襲う。
しかし、暴力とは程遠い目眩はきっとある種の感情だ。勿論サーシャにその類の経験はない。
「さあ、『ファリャ』。妾の名前を」
「『アマデウス』」
「……ふふ」
二人だけの秘密の名前。目眩に侵されながら、名前を呼び合う奇妙な掛け合い。
恍惚と頬を染めたマルグレットに見惚れ、脳内が痺れる。
苦しいのかもっと感じたいのか、逆行する感情の波に翻弄されながら、いつしかサーシャの目は閉じていた。
「サーシャ」
突然、マルグレットではない声で名を呼ばれ目を覚ます。
気づくと教室で、隣に座るルートヴィヒが怪訝そうな顔で自分を小突いた。
急に時間と場所が移り変わった。目を閉じて開いた瞬間別世界に放り込まれたような奇妙な感覚。
夢だろうか?
目を揺らしながら周囲を観察すると、いつもの教壇にいつもの教師、幾人かの級友が目に入る。ゆるく握られた手には羽ペンが握られており、ノートには黒板の内容が模写されている。
軽く目眩を感じながら頭を下げると、右手に弟の手が優しく重なった。労るように手の甲を撫でる。その感触が徐々に現実感を運んでくれた。
これは夢ではない。今は三コマ目、社会学の時間だ。認識すると共に時間が巻き戻るように意識がしっかりしてくる。
「大丈夫か? 随分ぼんやりしているが」
「平気。ちょっと考え事してただけだから」
「そうか」
伝えると弟はほっと息を吐く。けれど右手は重なったままで離す気はないようだ。
声を沈ませてサーシャに囁く。僅かに開いた窓から涼やかに風が吹き込み、耳元を撫でた。そんな細やかな囁きは教室に全く響かない。
「考え事とは?」
「うーん」
「……サーシャ?」
「ちょっと待って。整理するから」
「わかった」
ようやく整理がついたのは、その日の夕方だ。マルグレットが迎えに来る数十分前。
自室のクローゼット前にて身支度を整えながら、やっと口を開くことができた。
サーシャのベッドに腰掛けた弟は、手の中のグラスを揺らす。一口口に含むと、眉間の皺を深くする。
サーシャが放った一言に機嫌を落下させたのだ。
「……『彼女が出来た』だと?」
「うん、そう。彼女のこと考えてた」
「一体いつ。連日、夜出歩いてるのはそのせいか」
「うん」
「バカ言うな。君にはまだ早い。色恋など……」
マルグレットと再会して実は数日経っていた。あれから毎日デートという名の散歩をしている。
手を繋ぎ、出かけ、名前を呼び合うだけ。それ以上のことは何もない。
急に不潔な者のように見られる。ルートヴィヒの方がよほど大人めいたことをしているだろうに。
……女性を部屋に連れ込むことを、さも当然に述べていたのは記憶に新しい。自分は良くて、兄はダメなどと、倫理観が欠落している。
「その人はどんな人なのだ」
ルートヴィヒが上を見上げたので、問われた人物は頭をかいた。サーシャでは埒が開かず、非難の的が何故かイグニスに移る。
「オレに聞くかー? まあ、ぶっちゃけ生物学的本能に反するっつーか」
「どういう意味だ」
「普通の人間じゃない、とだけ。位置づけとしちゃクソガキと同じだな」
彼女も『精霊王の器』なので、精霊にとって特別な存在であろう。静かに視線を交差させ、イグニスは自分に意識をよこす。
「でもオレも理解不能ー。何がそんなに好きなん?」
「イグニスにわからないのは当然でしょ。君らに恋愛感情なんてないんだから」
「はー? お前、マジでそれ言ってんの?」
「?」
説明を求めて会話を繋ぎかけたが、不意にマルグレットの気配がした。話をなあなあに、サーシャは出かける旨、彼らに伝える。
「待て、話はまだ……」
「お説教は帰ってからゆっくり聞く。ルートヴィヒも出かけたら? 君も彼女いるんでしょ」
花祭りは恋人たちの一大イベントでもある。彼には常々女性からの誘いが殺到している。
ヘラヘラ笑って提案すると、荒っぽく睨まれ終了。




