1. 始まりの日
「おはよ〜」
サラサラと空気が囁き、彩り豊かな陽の光が部屋の中を一周したかと思うと、己の足元を撫でるようにすり抜けて消えた。
「おはよう」
「おはよう、サーシャ」
「今日もいい天気。お散歩しましょう」
鈴の転がるような声が耳元で奏でられ、くすぐったさに思わず笑みがこぼれる。姉たちに手を引かれサーシャは家を出た。
登りきった太陽が木漏れ日の中で光の雨を降らせ、眩しさに目を細めると姉は笑いながら頬を寄せる。
「愛しいサーシャ。今日はどこに行く?」
「ええと……」
首を傾げて考える。その間にどんどん手は引かれ家から離されているのだから目的地はすでに決まっているのだと知れた。
実際に彼女らが案内するところはサーシャにとっていつも楽しく、時に予想外で心躍らせる。
「ねえねとならどこでもたのしい」
告げると五色の光彩を放つ瞳がふわりと細められる。
「私たちもサーシャと一緒ならどこでも楽しい」
「どこへでもひとっ飛び」
「さあ、私に触って」
両の手が解放され、代わりに別の姉から掌を差し出された。
サーシャがその手を取るように掌を合わせると接触面から翡翠の光が溢れる。
(……まほうだ)
姉たちは魔法が使える。自分は魔法が使えないため、いつも助けられている。瞳を閉じ、次の瞬間体が歪んだ。
***********
(あれー)
足の速い姉たちは、あっという間に森の奥深くに消えてしまい、サーシャは途方に暮れる。
幼い足取りで懸命に後を追いかけたが、こちらを振り返りもせず、まして非常に楽しげな様子に「まって」と言うのすら憚られた。
飛んだ先は住まいのある森と大差のない森の中である。右も左も後ろも前も同じような木々に囲まれ、体を一周した途端自分がどちらから来たのか分からなくなった。木漏れ日が頬を撫で、木々が葉擦れを心地良く奏でる。
走って息が上がった呼吸だけが森の中で異質に響き、サーシャは落ち着けるように目を閉じた。額に浮かんだ汗を涼やかな風が慰める。
(あっちかな。それともこっち?)
迷った時はその場を動かないのが定石だが、正常な判断を下すには子供すぎた。
進んだ足先が、つん、と群生したきのこを蹴り上げる。コバルト色の胞子が広がり、微かに金色の粒を纏って地面に落ちていく。しかし地面に触れる寸前で風もないのに巻き上がり不規則に浮遊した後空中に溶けていった。
(きれい。ねえねがみたらよろこぶ?)
初めて見たきのこに心躍らされ、ほのかにあった不安が消えた。きのこを一つ、大事に両手で掴んでカバンの中へ入れる。そして姉たちがよく歌う歌を口ずさみながらのんびりと森の中で足を踏み出した。
どのくらい歩いたのか。
日が沈み、あたりはすっかり暗くなってしまった。朝からご飯を食べていないせいか、少し空腹を感じるが姉たちと合流してしまえば何とでもなる。普段から食事摂取は最低限なため大きな問題ではない。
森を散策中何度か休憩を取ったし、気候も安定しているので思った以上に体力には余裕がある。月明かりの恩恵もあり、暗闇ではあるものの見通しも悪くない。
感覚的に絶えず直進の選択を行った故グルグル迷っているわけでもない。その意味を良くも悪くも肯定してしまい、長時間の迷子をのんびり散歩して過ごしている。
パシャリ。
黙々と足を進めていると、微かに水音が聴こえて足を止めた。
(ねえね?)
やっと会える、と足取り軽く音の方向に駆け出す。
はじめて一人で冒険したよ、こんなの見たよ、こんなの拾ったよ、と既に己の武勇伝と化した大冒険をいち早く伝えたい。ざっと茂みを抜け、服に引っかかる小枝を撫でて外し、目の前に広がった光景にサーシャは目を瞬かせた。
対面が見えないほどの大きな湖。
その中心で月明かりを全身に浴び、白銀の長髪を靡かせた子供が湖面に立っていた。その瞳は何も映していない透き通るガラス玉のよう。ひどく緩慢な所作でこちらへと目を向けるが、実際にはサーシャのことなど眼中にあらず。
サーシャもサーシャでどうでもよかった。神聖さと静寂に包まれた空間ではあったが、それとは関係なく酷く落胆していたからだ。ようやく姉と合流できると期待に胸を膨らませていたのに。
「あの、ねえねしりませんか?」
問うと、ガラス玉の瞳はサーシャの姿を初めて映し、僅かに眉を寄せた。じっと見つめること数秒、ふわりと湖面を滑ってサーシャの前に舞い降りる。
目の前に立つと銀色の子供はサーシャと同じくらいの齢に見えた。身長の変わらないその姿にサーシャは改めて目を瞬かせる。
サーシャにとって自分と同世代の子供は初めてだ。
姉や兄と自分の体つきは全く違うため、成長過程が不思議だと常々思っていたのだ。目の前の子供はその点で妙に親近感を覚える。
嬉しさがお腹の中から暖かさと共に湧き上がり、自然口角が上がる。それを見て銀色の子供は眉間の皺を更に深くした。子供はサーシャに掌を向ける。地面に着いた銀色の髪が渦を巻いて浮き上がった。
その刹那起きた突風がサーシャを巻き込み、小さな体が乱暴に持ち上げられた。痛いくらいに体に風圧がかかる。
この感覚は知っている。この子も魔法が使えるのだ。理解した瞬間、サーシャは翻弄される暴風の中で必死に手を伸ばし子供の手を取った。
「あの、おれのともだちにっ……」
言葉は最後まで言えず風が口を塞ぐ。
しかし風の流れの間、僅かな隙間から銀色の子供が目を見開いたのが見えた。
「サーシャ!」
気付いたらサーシャは家の前に立っていた。
夢から醒めたような感覚にぼんやりしていると、慌てている姉たちの声が遠くから聞こえた。帰ってきたのだ。
あの子が返してくれた?
家がどこかもわからないはずなのに、けれど自分がここにいるのはそう言うことなのだろう。姉や兄が家の中から飛び出してサーシャの元へやってくる。
「サーシャ、探したのよ」
「気づいたら逸れてしまって……」
「無事で良かったわ」
心から心配している姉に、サーシャは微笑んでほっと息を吐いた。
我が家に戻ってこれて、彼らの顔が見れて安心したのも本当だけれど。今日の冒険譚をやっと話せる。擦り寄る姉に頬を掠らせ、サーシャは口を開いた。
「あのね、きょうね」
言おうとして、まぶたが急に重くなる。一日中歩いた体はやはりくたくたで、急に疲れが出たようだ。
気付いた兄がサーシャへと近寄る。
「話は明日な。今日はもうおやすみ」
***********
……その後、気づいたら朝になっていた。
いったいどのくらい寝ていたのか。帰ってからの記憶がひどく曖昧で、未だ夢の中にいるような浮遊感を感じながらベッドから起き上がる。
「おはよ〜」
いつもと同じように声をかけ、一段一段足を確かめて階下へと向かう。兄と姉は出かけており返答はない。
普段は鈴の音が呼応するような賑やかさがあるのに、常でない静けさに自分が未だ夢の中にいるのではないかと錯覚してしまう。
コンコンコン。
ふと木製の扉がノックされ、はっと視線を向ける。これもまた珍しい。いや、ともすれば初めてだ。
この家に客人が訪れたことはない。しかし特別嫌な気もせず、サーシャは迷わず扉を開けた。