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レゾンデートル・オン・ザ・ムーン  作者: 伊豆泥男
第2章 月と義妹と生きる意味
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第1話

 寝ぼけ眼の俺の前に、焼き鮭と白米、味噌汁と漬物が並べられる。理想的な和の朝食だ。鮮やかなピンクの切り身に、程よく焦げ目のついた銀の皮。味噌汁の具は、わかめと豆腐と油揚げといったところだろうか。地球人時代にもよく食したおなじみの献立である。えもいわれぬ懐かしさを感じる。一応俺の血には、旧日本諸島民族の血が流れているらしいので、その遺伝子によるものかもしれない。非科学的な考えではあるが。


 俺が地球人時代に思いをはせていると、テーブルの向かいに座ったユダが文句をこぼした。


「セーンパイ! なにぼーっとしてるんスか! せっかくかわいい後輩が、朝食を作ったっていうのに! 箸が進んでないっスよ!」


「作ったって、ボタン押して数値いじっただけだろ」


「分かってないっすね。センパイの好みに合わせて、味を調節したんスよ? そこを褒めてほしいス」


 言われて鮭を口に入れると、確かに俺の好みの塩加減であった。肉体がカグヤのものになっても、味の好みは前のままだ。クイッククックはほとんど全自動でおいしい食事を作る優れたシステムではあるが、その反面、システムの中にあるレシピに頼り切りになってしまうので、個人個人、ひとりひとりに向けて味を調整するのは難しい。それを簡単にやってのけるとは、伊達に地球人時代から一緒にいるわけでは無いようだ。思わすうぐうとうなると、ユダは得意げな顔をした。この後輩、一度を銃口を向けてきたと相手とは思えないフレンドリーさである。


 負かされたままだと癪なので、俺は話を逸らす。


「しかし月の生活水準も、なんというか思っていたよりも、普通なんだな」


 神を自称するくらいなのだから、地球人には想像もできないようなハイテクノロジーがひしめいているものだと思っていたが、存外そんなことはなかった。移動手段に歩行を選ぶ人も多いし、食物もこうして口から摂取している。肉体の制約に囚われたままだ。月の神が肉体を捨てるとなると、それはすなわち器としての地球人の存在理由がなくなるので、それはそれで困る話ではあるのだが……。


 閑話休題。とにかく、月の神と地球人の生活には、想像していたような差はなかった。西暦三千年代にもなるのに、どうしてこんなある意味前時代的な生活をしているのか。


「あー、そういえばそのへんの話は、地球上の教育では教えられないんですね。隠さなくてもいい気もするんですが、まあ月の神の生活がショボいことで、地球人の信仰心が揺らぐのも良くないので」


 ユダはずずずと味噌汁を啜る。あちらの具にはジャガイモが入っている。


「もちろん、月の科学を結集すれば、もっともっと想像もつかないようなテクノロジーを使役することもできるんスよ。それこそ、眼球を一切使わず脳みそに視界を映し出したり、ホログラムに物理的な質感を持たせたり。肉体を超えてヴァーチャルの意識で活動することもできれば、さらにヴァーチャル上の活動の影響を現実世界に物理的に及ぼすことだってできる。でもそれらの技術は、少なくとも月の世間一般では表に出ない」


 ――なぜなら、危険だから。


 ユダはこちらに箸の先を向けた。行儀が悪い。


「危険? むしろ、発達した技術なら安全性が高まりそうなものだけど」


「そういう、物理的な危険じゃないんスよ。もっと精神的なものス。――センパイには、どうして人類が月と地球の二つの派閥に分かれたかは教えましたっけ?」


「軽くはね」


 自分としての哲学があって、自分で道を切り開ける、そんなアイデンティティが確立した人間こそ、これからの時代を切り開くフロンティアたる月に住む権利がある。そういう理由で、二十八世紀に人類は地球に残る地球人と、月に移住した月の神に分けられた。たしかそんないきさつだった。


「重要なのは、さらに深い理由ス。そもそも、どうしてそんな思考に至ったのか。事の発端は二十二世紀に遡るス」


 二十二世紀から二十八世紀までの歴史は、あまり詳しく書かれた文献を読んだことがなかった。歴史書にある記述といえば、世界から大きな戦争が消え、国家の枠組みを超えた統一政府が誕生したくらいだ。人類の地球と月への分断も、その統一政府によるものだ。それ以外には、人類の歴史を転換させるような大きな事件は起きなかったらしい。


「二十二世紀まで遡るって言っても、そのあたりから月への移住が始まるまで、大した歴史はなかったと聞いてるぞ。地球人には言えない歴史があったのかもしれないが」


「地球人にそのあたりの歴史が隠匿されていた――というのは、半分正解で半分は外れスね」


ユダは自分の分だけ作ったゆで卵を二つに割り、塩も振らずに片方を口に放り込んだ。


「確かに実際、その頃の地球には大きな発展はなかったス。しかし何もなかったわけじゃありません。その時起こっていたのは、緩やかな衰退ス」


「衰退? そんな話は聞いたことがないな」


 つまり、何も発展がなかったということは真実で、何もなかったというのは嘘だったということか。


「その衰退の原因こそが、地球人と月の神を分ける要因にもなった、『アイデンティティの欠落』ス。二十二世紀に、人類の科学技術の加速度は頂点に達しました。その時起こったのが、技術的特異点、すなわちシンギュラリティです」


 すなわち、と言われても俺にはピンとこない。秘匿されていた歴史の話なのだから当然のことではあるのだが。俺は押し黙り鮭の皮をはがし口に運ぶ。塩気とパリパリ感のバランスが素晴らしい。


「シンギュラリティの時に起こったことを簡単に言うと、普通の人間を超越する人工知能ができちゃったんス。特別な才能を持たないような人間なら普通に負けてしまうような機械ができてしまったんス。自立し、考え、仕事をする機械。当初ではその人工知能の登場を、より人類が発展するための福音だとする人間が多かったス。しかし、事実は違った」


 ユダの口調がおどろおどろしくなる。


「待っていたのは、世界的なアイデンティティの消失でした。それまで人々が誇りにていた、プライドとしていた、よりどころにしていた、『己の役目』、またはそれに類似したものが、軒並み機械に奪われていったんス。それはもう、地獄のような有り様でした」


 見てきたようなことを言うユダ。いや、もしかすると本当に見たのかもしれない。月の住人は皆、永遠を生きている。もしユダが二十八世紀から生きている、第一世代とでも呼べるような存在だったとしたら、まだ人類が分断されていない頃の記憶を持っていてもおかしくはない。


「自分の代替となるような機械を目の当たりにし、絶望する者、自棄になる者、命を絶つ者も現れました。世界はもはやてんやわんや。無事なのは機械で代替できない才能を持つ者か、それでも生きる意味を見失わなかった者だけでした」


 語るユダの目は、虚空を見つめていた。


 本来なら、人類をより上のステップに導くはずだった技術。しかしそれは、多くの人間の生きる意味を奪った。省くべき仕事が、実は人間の本質だったとは皮肉な話だ。


「……それでも、六世紀は持ちこたえていたのか」


「ええ。多くの人間が自分を見失ったとはいえ、そうでない人間もいましたから。しかしその数も、時間と共に減少していきました。そして二十七世紀中ごろ、世界統一政府はついに根本的な対策に乗り出します。――それが」


「それが、地球と月に人類を分断することだった、というわけか」


 苦肉の策だ。その選択は、生きる気力を失った者たちを、見捨てると宣言したようなものだ。しかしそれでも、何もせずに人類が滅んでいくのを見ているよりはましなのかもしれない。


もちろん、納得できる答えではないが。


「で、回りくどくなりましたが質問の答えス。どうして月面では、あるはずの高度な技術が使われていないのか。その答えは、シンプルに言えばトラウマス。一度それが原因で滅びそうになったから、大々的には使いづらいんス。月の神は皆アイデンティティが確立した者ばかりとはいえ、何が起こるかわからない。ひょんなことから、また世界的なアイデンティティ・クライシスが起こるかもしれない。だからそういう技術は、封印とまでは言わないスが、あまり目の届かないところに置いている、という訳っス。二十二世紀以降の技術は、大体が人工知能を搭載していることが前提ですからね。この月面での生活スタイルは、シンギュラリティが起きる直前、大体二十一世紀後半くらいになってるっス」


「高度な技術が使えない、って訳じゃないのか?」


「そうっスね。別に禁止されているということはないっス。先端科学技術の研究を生きる目的にしている者もいるわけですし。必要なところにはもちろん使われてます。センパイが乗ってきた宇宙船に使われていた人工重力発生装置も、シンギュラリティ以後の技術ですし。申請は必要になりますが、そのあたりの機械いじりを月でもしたいなら、センパイでも資料なりデータなりにアクセスは可能です」


 そうしてユダは、箸で器用に茶碗に残った米粒を集め、口へ運んだ。綺麗に残さず平らげた、最後の一口である。


 なんとなくのいきさつは分かった。ついでに、どうして今の人類が地球と月に分かたれているかの詳細も知れた。早起きした甲斐があったというものだ。


 しかし、新たな疑問もいくつか浮かぶ。月に連れていく人間の選別はどう行ったのか。月面の技術領域の事情は分かったが、文化についてはどうなっているのか、エトセトラエトセトラ。


 俺はそれらの質問をユダに問おうと、口の鮭を飲み込んだ。しかし俺が口を開こうとしたその瞬間、ユダの携帯端末が大きく振動した。


「おっと、すみませんちょっと失礼して。ごちそうさまでした」


 そう言ってユダは携帯端末を立ち上げ画面に目をやった。メッセージでも届いたんだろうが、いったい誰からなのだろうか。


 よくよく考えれば、俺はユダの素性を深くは知らないな。少し考え込んでしまう。俺が知っていることといえば、もともと月の存在であるのに、生きる意志のある地球人を月の神に祀り上げるため、地球に潜伏していたもの好きだということくらいだ。それがこいつの仕事なのか、それとも趣味なのか、それすらわからない。


 そもそもユダの、この後輩自身の、「生きるための目的」は何なのだろうか?


 俺はこの後輩について、実は何も知らない。


 眉間にしわを寄せた俺に、端末から目を離したユダが語りかける。


「いやーすみませんセンパイ。急用が入ってしまいました。今日のデートは中止でお願いします」


「そうなのか。デートって言っても、文献探しにライブラリに行くだけだったから、別にいいんだけどな」


「えー! ボクはデートだと思ってたのに! つれないっスねぇ」


 俺のほほをつんつんしようとするユダを邪険にあしらう。この後輩、よもや妹を殺そうとしたことを忘れているわけではあるまいな。距離が近すぎる。


「という訳で、文献探しはまた今度にしてください! 今日は家でのんびりしてて! ボクがいないと、この辺の地理全然わかんないでしょ、センパイ」


「うぐっ」


 正直なところその通りである。月での生活にはもう慣れたが、土地勘まではまだ身についていない。もちろんナビが使えないという訳ではないが、家の外に一人で出るのは少しばかり不安だ。実は俺には方向音痴の気がある。福音号での探索にもかなり苦労した(だからこそ、探索や隠密行動を得意とするユダを連れて行ったのだが)。


「じゃあ約束です。今日は家から出ないこと! 破ったら後輩が悲しみます」


「はいはいわかりましたよ。約束するよ」


 適当な相槌を打つ。それに満足すると、ユダは目にもとまらぬ速さで外出の準備を整え、脱兎のごとく家を出た。


 しん、とした静寂が部屋の中に広がった。


 食器を洗浄機にかけ、一息つく。思えば、月に来てから初めて一人になったかもしれない。人格を移植し、病院から退院してからというもの、ずっとユダは俺に付きっ切りだった。過保護といってもいいかもしれない。手取り足取り、月面世界のことについて教えてくれた。さっきだって、懇切丁寧に月の歴史について話してくれた。もちろん、妹を殺そうとしたことを許すわけではないが、世話になっているし、それなりに感謝はしているつもりだ。


 だからアイツが、今日は家から出るなというなら、おとなしくそれに従おう――なあに、時間に余裕がないわけではない。退院してから、自分の中の妹、カグヤが語り掛けてくることはなかったが、それでも自分の中に妹がいることは、確かに感じられる。小さな灯ではあるが、確実に妹は存在している。この炎を絶やさない限り、彼女は消えない。少しずつ手がかりを探していけばいい。今日はユダの言う通り、休息の日にしよう――。


 ラウンジチェアに腰かけ、のんびりとタブレットを操作し電子上から文献にアクセスする。実際にライブラリまで赴かなくても、情報は手に入れることができる。何か手に入れたい情報がはっきりしている場合なら電子上から情報を仕入れればいいのだ。だがまあ、今の俺のように何を探したいかわからない状態だと、実際に文献が陳列されている棚の間を散策した方が情報行動的には効率が良い。だからこそ直接閲覧したかったのだが、今日はガイドがいないのでやむなし、である。


 紅茶に口を付けながら、のんびりとタブレット画面をスライドさせる。砂糖を入れすぎたせいか甘ったるい。おまけにどうにも、ピンとくる文献が見つからない。検索語が悪いのだろうか。とはいえ、あまり露骨に「人格の復活」とつながるワードで検索してしまうのも賢いとは言えない。俺の中にカグヤの意志が残っていることは、あの後輩に悟られてはいけないのだ。カグヤが生きていることを知れば、ユダは今度こそ殺そうとするだろう。わざわざライブラリを直接見たかったのにはそういう事情もある。電子上での検索は、どうしても足跡が残ってしまう。


 上手い検索語が思いつかない。行き詰ったのでタブレットをスリープモードに切り替える。やはりあの後輩の言う通り、休息に専念した方が良いのだろう。チェアを倒し半分寝転がるような体勢になる。このままタブレット同様眠りについてもいいかもしれない。


 ――と、その時。ヒーンホーンと、家の中に高い電子音が鳴り響いた。


 この音は、確か来客を知らせるチャイムだったはずだ。いったい何者だろうか。それこそ病院でユダが言ったように、俺には月での知り合いなどいない。考えられるとすればユダの知り合いだろう。ひとまずタブレットに玄関の映像を映し出す。


 そこにいたのは、淵の透明な眼鏡をかけた男だった。白い肌の上に白衣を着用しているので、色のない薄い印象を植え付けてくる。なよなよとして情けない感じを抱くだろう。――もしも初対面であったなら。


 俺は、この男の顔に見覚えがあった。雰囲気こそ違えど、俺はこいつを知っている。


「アルバート……!?」


 そう。その男は、俺が地球にいたころに親交のあった、アルバートという男そのものであった。同年齢であるため、福音丸にも一緒に乗っていた。何度か話もした。多くの地球人と同じく、神の贄になることになんの疑問も抱かなかった男だ。


 あいつはもう、この世に存在していないはずだ。俺と一緒に福音丸に乗っていた地球人は、俺以外は皆、月の神に肉体を捧げたはずだ。つまり、玄関の前に立っている男は、外見はアルバートだが中身は月の神であるはずだ。


 こちらがカメラ越しに見ていることに気がついたその男は、マイクに向かってこう言った。


『あの、僕はヒルベルトという者です。数学者です。こちらのお宅に、タケルさんという方はいらっしゃいますか――?』

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