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レゾンデートル・オン・ザ・ムーン  作者: 伊豆泥男
第1章 神にとっては小さな一歩、人にとっては大きな一歩
3/8

第3話

 もう後一時間もすれば、この船は月に到着する。遂に神さまに、この身を捧げられるのだ。それは私たち地球人の悲願であり、この上ない喜びである。――はずなのだが。


 人生を円満に終了させる直前になっても、いまだに私の心にはしこりが残っていた。兄さんのことである。あの兄はやはり、神さまに殺されたくはないらしい。「自分の生き方と死に方くらいは、自分で決めたい」それが兄さんの、昔からの口癖であった。今でも兄は曲がらない。


 私には兄が分からない。自分で決めたら、そこには必ず責任が付きまとう。責任は、重い。兄さんはその重さに鈍感なだけなのだ。何かを選ぶということは、何かを選ばないことでもあるのだ。その選ばれなかった可能性の集積が責任だ。そんなものを背負わされて平然としているのは、まともな人間の精神ではない。だからこそ地球人は、神さまに自分をゆだねるのだ。兄さんは異常者なのだ。


 しかしそんなことを訴えたところで、兄さんは変わらないだろう。それでも自分で道を選ぶことやめないだろう。誰かの示した道を、彼は嫌うのだから。


 だったら兄さんが、私の道を示してくれたらいいのに――――


 月の大気圏に船が突入する。しばらく地球とも月とも連絡が取れないという旨の放送が流れる。地球人としての、最後の時間である。これまでの人生が、走馬燈のように駆け抜ける。与えられたものを与えられただけ消費していた人生。そこには責任はなかったが、苦しみもなかった。これでいいのだ。



 ――それなのに、それでも、兄さんは私を惑わす。



 居室のロックが外部から解かれ、扉が開かれる。そこに立っていたのは、当然――





    ☆



 三日間考えたが、妹を説得する方法は思いつかなかった。どうやっても、妹に逃げる意志を持たせる算段は付かなかった。俺にできるのは、ひたすらに自分の想いを語ることだけだった。それで妹を説得できなければ、無理やり力づくでも連れていくしかない。そこまで覚悟していたのだが。


「わかった。わたし、兄さんと一緒に逃げる」


 妹は、簡単に折れた。


「兄さんが逃げた方がいいって言うなら、それに従う。二十年も私と一緒にいた兄さんが言うんだから、その判断は間違っていないんだと思う。だから、従う」


 この答えは予想していなかった。妹は最後まで、神のものになることを選ぶと思っていたのに。


「良かったっスねセンパイ! すんなり説得できましたよ! 説得で十分くらい使うと思ってたんスけど、これなら!」


 後ろでユダが馬鹿みたいに喜んでいるが、これは俺の理想的な展開とは言い難い。俺が真に言いたかったのは、死ぬなということではなく、自分で道を選び取れということなのだ。この妹の返答は、俺の言うことに従順に従っているだけだ。依存先が神から俺に挿げ替えられただけだ。


「違うんだ。俺が言いたかったのは、そんな表面上のことじゃなくて――」


「何やってるんスかセンパイ! 説得できたなら、早いとこ作戦を進めましょう! 時間ないんスから!」


 ユダのセリフが俺の言葉を遮った。確かに、ここでどうのこうの言っている暇はない。妹の哲学は、すぐに変えられるようなものでもないようだ。とりあえず今は、神の贄から逃れることが先決だ。


「じゃあ、ついてこい」


 そうして歪みを抱えたまま、俺たちは船の機関部を目指した。

第4話の投稿は、2/9(金)を予定しています。

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