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レゾンデートル・オン・ザ・ムーン  作者: 伊豆泥男
第1章 神にとっては小さな一歩、人にとっては大きな一歩
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第1話

 私には、兄さんの考えは到底理解できなかった。



 私の二十年の人生は、幸せに満ちていた。食事にも、娯楽にも、教育にも、何一つ不自由しなかった。求めれば求めるだけ、月の神さまは与えてくれた。おかげで私は、争いとも貧困ともかけ離れたところで、健全な精神と肉体をはぐくむことができた。何もかもが満ち足りた、素晴らしい人生だと皆が言っていた。もちろん私もそう思っている。誰もが幸せを感じていた。何もかも、月の神さまのおかげなのだ。


 だから私たちには、月の神さまに感謝こそすれども、反抗する動機など、何一つないはずなのに。



 どうして兄さんは、贄になることを拒むのだろう?




    ☆



「いやあ、ついに僕たちも、月の神さまの贄になれるんだね。嬉しいなあ、楽しみだなあ。ねえ、君もそう思うだろう?」


 窓の外を眺めながら、「まあ、そうだな」と心にもない返事をする。船の外に広がるのは、深い深い宇宙の闇。その中に、何万年前に生まれたかもわからない星の光だけが、ポツリポツリと瞬いていた。


「なんだいなんだい。テンションが低いなあ。神さまに会えるんだぞ? 僕たち地球人の、共通の夢だぞ? もっと盛り上がってもいいんじゃないか?」


 話しかけてきた同輩アルバートは、合成果汁の入ったカップを机に置いた。


 彼の言う通り、普通の地球人ならば、この「福音丸」と名付けられた船に乗れたという事実だけで狂喜するだろう。幸せな二十年の生涯を全うし、そしてその人生を与えてくれた月の神への恩返しに、その肉体を提供する。それが地球人の一生のサイクルだ。福音丸に乗ることができたということは、そのサイクルが終盤に差し掛かったことを意味する。すなわち、人生の目的が今まさに完遂されようとしているということになる。そりゃあ喜ぶだろう。


 事実、月へ向かう福音丸の乗組員は、浮かれたやつらがほとんどだった。無理もないことだとは思う。目の前のアルバートを含めた地球に住む人類は皆、月の神に肉体を捧げることを至上として生きている。それが幸せだと教えられ育ってきたし、それを疑う者もいなかった。俺たちは神のために造られ、神のために育てられ、神のために今まさに、月へと運ばれているのだ。


 しかし俺には、どうしてもそれが受け入れられなかった。


 そんなの、どう考えたっておかしい。いくら今までの人生を保証してくれたからって、命まで捧げる義理はないはずだ。俺にはこの福音丸が、奴隷船にしか思えなかった。


 だが、ここでそんなことを言い始めても仕方ない。俺はぐっとこらえて目線を窓から外し、愛想を作ってアルバートの方を向く。


「……いや、十分盛り上がっているよ。俺があんまり感情を顔に出さないのは知っているだろう?」


 嘘だ。しかし俺の真っ赤な嘘を、アルバートは疑いもせず受け入れた。


「そういえば、そうだったかな。うん。そうだった気がする。君は昔からそうだったよな。気分を害してしまったかもしれない。そうだったら謝るよ」


 そして彼は何事もなかったかのように、他のメンバーに話しかけに行った。


 再び顔を窓に向ける。星々は、先ほどと変わらない場所で光を放っている。時速4000キロを誇る福音丸も、宇宙の広さの前では形無しだ。


 去っていったアルバートは俺の嘘を、一つの疑念もなく受け入れた。俺が苦手なのは、あの純真さだ。微生物すら生きられない澄んだ湖のような、空恐ろしい透明さ。どうあがいても俺は、ああは成れない。魂の色が違うとしか思えない。


 俺は違う。俺は死にたくない。他の地球人と違って、神の贄となって死ぬことを、幸せだとは思えないのだ。確かに神は、俺たちに様々なものを与えてくれた。しかしそれでも、神のために死ぬ気は毛頭ないのだ。


 改めて意思を固め、決意を再確認する。逃げてやる。神の手から逃げてやる。贄になぞなってたまるものか。


 勝負は三日後、この船が月に着陸する時だ。月の大気圏突入の瞬間、この船には電波障害が発生し、地球とも月とも連絡が取れなくなる。その一瞬の隙を付くのだ。


 絶対に逃げてやる。そして何より、絶対に逃がしてやる。哀れにも神の贄となることを望んでいる、愚かな愚かな妹を――

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