第九十話 その過去が温かくありますように
作中では一周年。現実では三年。
それでも九十話は及第点なんじゃないかなと、自分を甘やかすのでした。
うだる陽射し。絶えぬ蝉時雨。焼けつく空の下に出逢い、焼け焦げてへばりついた今。
あの夏から連なり、廻りて戻る今。焼け焦げて剥がれなくなった日々の、大切な一欠片。
そんな、夏。
八月一日。思い出の頃より。
『その過去が温かくありますように』
ここまで来たけど、これからどうする?
久々に、でしょうか。とにかく言わせてもらいましょう。こんにちは、遥人です。
今日はいよいよ八月の一日。何を隠そう、姉妹がアパートにやって来てからちょうど一周年を迎える日なのです。
それは設定上の記念日と言えるものであり、同時にこの世代の子供たちにとっては無限大な夢の日でもあったりするのです。
そんなわけで、今回は少しばかりかつてを思い出してみようかなと思います。
この日々が始まった当時の、良かったのか悪かったのかはわからないけど、とにかく楽しかった日々のこと。
あの日々からの解離を悔恨し、あわよくばの回帰を目指して。
「汚れちまつた悲しみに」
「なに望む無く願う無く」
「……なんでそこをチョイスした?つーかそこは『悲しみは』だからね」
「うるさいし細かいし面倒くさいです」
まずはこいつ、と思い声をかけてみましたが、相変わらず可愛くない奴です。そこだけはもう、何一つ変わっちゃいません。
月島奈央。くだんの姉妹の姉にして、拒絶と接近をアンバランスに繰り返す、ある意味で正当な乙女とも言うべき少女。
この一年での変化は、拒絶と接近のバランスが少しだけ五分に近づいたことだろうか。
それも、本人にとっては不服な変化なのかもしれないけど。
ただ一つの実現のため、何も望まず、何も願わずにいる彼女。変わらないんじゃなくて、変わろうとしないだけで。
「それより、真央ちゃんをお連れしなさい。わりと早急に」
「どうかしたのか?」
「……それを私に言わせますか、この不感症男」
なんかものすげえ失礼なことを言われた気がするのだが、気のせいということにしておこう。
まあ確かに、この反骨精神の塊みたいな女に『今日は大切な日なんだから三人で過ごしましょう』とか言わせたら可哀想だわな。
おそらく真央さんは自室で読書に精を出しているのだろうし、本来はそれを邪魔するような真似はしたくないのだが。
「しかし、今日に限っては来てもらうよ。真央さん」
「もちろん、遥人さんが呼んでくださればどこにでも行きます」
普通に従順というか、別に構いませんよな具合でした。姉との性格の食い違いっぷりには、今でも時々驚かされてしまう。
俺が気を遣い過ぎてるだけと言えば、それもそうなのかもしれないけど。
そもそも彼女は、くだんの姉妹の片割れにして天使の妹こと月島真央である。
今日が何やら大切な日であることは百も承知で、俺の呼び掛けにも当然のように笑顔で応じてみせる、そういう女の子なのだ。
「ああそうだ、真央さん。汚れちまつた悲しみに?」
「―――今日も小雪の降りかかる?」
「ありがとう」
やはり、いや流石と言うべきか。あの日から一年、我が家の書物という書物を読み漁った彼女は、正当な文学少女と化していた。
溢れ出す暗黒は少々影を潜め、代わりに奥底の純白が滲み出ることが多くなった彼女。
乙女を名乗るよりは、どちらかと言えば妹然とした妹と思えなくもない。そんな感覚が、自分の中に芽生えていた。
だけど、考えてみたらそれは、俺がずっと欲しかったもので。
無条件で自分に甘えてくれる存在。不確定で不安定な自分の存在意義を、その行為によって確立してくれる。
それが彼女、月島真央の果たした役割。一人きりで生き残った自分に、それでも生きてて良いんだと思わせてくれた。
思わせてくれたから、俺もどうにか思わせてあげたい。ここに居られて良かったって、強く永く感じさせてあげたい。
「それで、今日は私達に何をしてくれるんです?」
不意に、隣を歩く彼女が言った。上目遣いに瞳を輝かせ、俺の左腕を抱き、五指を絡ませながら。
それだけで、どうにかしてしまいそうになって。何をしてくれるんですと聞かれれば、もう答えは一つしかなくなっていた。
「何でも。望むこと全部、できる限りに実現してあげるよ」
俺にしては、不自然な程の大言壮語だった。自分に成せることがあるなんて、今でもちっとも信じられなかったから。
それでも、紫音さんを止めるに際して覚悟と決断を強いられた。何もできなくても、何かやらなくちゃならない時があると知った。
だから今は、それが大言壮語でも良かった。これは自分を縛る言葉の鎖なんかじゃなくて、理想を具現するための決意の宣誓なのだから。
「それじゃあ、楽しみにしますね」
彼女は満足そうに微笑んで、しかし未だ満たされぬと更なる密着を求め、仄かに甘い香りを漂わせながら隣を歩くのだった。
「おいこら、お連れしたぞ馬鹿姉」
「失礼な。姉馬鹿と呼びなさい。親馬鹿と同じ要領で敬意を込めて呼びなさい」
呼べるわけがなかった。敢えて呼ぶのならアホ。オブラート五六枚に包んで言っても辛辣な言葉になることは避けられそうにない。
「何を言ってるの奈央ちゃん。同じ要領で考えたら馬鹿姉そのものじゃない」
「真央ちゃんっ!?お姉ちゃんは確かにちょっとお馬鹿に見えるかもしれないけど、それは馬鹿みたいに真央ちゃんのことを大切にしてるが故なんだよっ!?」
要するに馬鹿なんじゃねえのかな、それは。つーかこの女に関しては、もっと正確で的確な言葉が当てはまった筈だ。
「それを世間はシスコンと呼ぶんじゃねーかな」
「呼びませんっ!愛の体現者とかキングオブシスターとか姉の中の姉と呼んでくださるに決まってます!」
「何がキングオブシスターだ。世の中には立派な姉なんざ五万といるっての」
同じくらい駄目な姉も五万といるんだろうけど、それはそれで弟や妹の自立心と保護欲に働きかける切れ者と言えなくもない。
問題は、この姉がいずれの例にも当てはまらない異常過保護系の駄目姉だと言うことだろう。
「井の中の蛙……いえ、できることなら箱の中の猫と定義したいところですね」
「あのね真央ちゃん、お姉ちゃんはちゃんと生きてるんだよ?蓋を開けてみなきゃわからない不確定な生命じゃないんだよ?」
「そんな希望を潰すようなこと言わないでよ。せめて不確定であって欲しいの」
「そんな心をへし折るようなこと言わないでよ……せめて存在くらいは認めて欲しいよ……」
無駄に呼吸がぴったりな時点で、真央さんがどう足掻こうと姉妹は姉妹という事実は変えられない。
ただ、一つ変えられることがあるとすれば―――。
「……わかりましたよ、遥人さん。私達の一周年記念に、実現しなくちゃならないこと」
「え?」
大きな大きな溜め息を吐いた真央さんが、姉から冷淡に視線を外した。それから神妙な面持ちで俺を見遣り、決意と共にそんな宣言をしてみせた。
「奈央ちゃんを、矯正しましょう」
虚しく響いた一声は、彼女の黒ずんだ腹部から放たれたと見て間違いない。
冷たい微笑を浮かべて小首を傾げた真央さんの視線は、俺に同意を求めるように『そうでしょう?』と語りかけていた。
俺は、隣で震えながら細い自分の体を抱き締める奈央さんを視界から外し、小さく弱く頷いた。
それは、月島奈央矯正計画が発動した瞬間だった。
「根本的な部分を、抜本的に改変していかなければなりません」
「そうだね。調きょ……いや矯正するからには本格的にやらないと」
真央さんと対面して座る俺は、今後改造計画の方針を定めるためにと『月島奈央(真)設計図』なるものを作成していた。
「まずは内面から劇的に変えていかなくちゃなぁ。どんな風にしようか?」
「妹に異常な感情を抱かないようにしてください」
「……やっぱそこか」
奈央さんを模した人形の絵の頭部に線を引き、とりあえず『性癖改善』と書いてみる。
「ちょっと待ってくださいよぅ!性癖ってのは流石にいただけませんっ、私は純粋に姉として真央ちゃんのことをもがぁっ!?」
もがぁっ?とか思って反論する奈央さんの方を見てみると、開いた口に立派な里芋が突っ込まれていた。
「うるさいペットには躾が必用ですねー、ふふっ」
黒紫色のオーラを纏う真央さんが、テーブルに七本もの里芋を並べて楽しそうに微笑んでいた。
……一周年記念に何やってんだろうという自己嫌悪もあったが、真央さんが楽しそうなのでもうこんな感じでいいのかもしれない。
「うるさい口は封印っと」
やはり設計図にそう書き込むと、俺はだんだん込み上げてくるわくわく感を抑えながら奈央さんを見た。
当然ながら、彼女の五体に自由はない。椅子に縄跳びという安易な道具で手足を縛られた奈央さんは、既に半泣きになりながらもがもがと何かを訴えていた。
見かねた真央さんが、里芋を口から抜いてやる。それからだらしなく垂れた唾液を乱雑にテイッシュで拭き取り、抜いた里芋を台所へと運ぶ。
「遥人さんのばかばかばかばかあっ!女の子にこんなことしてただで済むと思ってんですか変態野郎!ベッドの下の本と現実の区別くらいつけもがああっ!?」
「二本目だね」
ニッコリと力一杯に微笑んで、俺は奈央さんのうるさい口に二本目の里芋を捩じ込んだ。
つーか勘違いを生む発言をしてんじゃねえよ。俺はそんな性癖ねえしベッドの下に本なんかねえよこのアホ女が。
本当だよ?
「もがっ!もがぁっ!」
「何か言ってます。また里芋抜いてあげましょうか」
「いいよ面倒くさい。それより早く矯正しよう」
優しさの欠片を見せながらも、真央さんは果てしなく愉快そうに里芋を口内に押し込んでいた。
ちょっとこれ可哀想なんじゃ……いやいや。
性格が矯正されるのは何より本人のためになることの筈だ。俺たちは心を鬼にして彼女を矯正してあげなくちゃならない。
「それで、性癖改善の手段についでだけど」
「それなら、私に考えがあります」
真央さんは姉の流した一粒の涙を拭ってやると、まるで女の子らしい女の子みたいなことを口にした。
「誰か、男の子を好きになってもらえばいいんです」
真央さんが快心の笑顔で提示したそれは、一応のこと名案に他ならなかった。しかし、である。
「この偏屈が惚れるような男が何処にいるんだ?」
奈央さんが唯一自由のきく首を大きく縦に振っていた。その動きのお陰に、里芋が口から抜け落ちる。
「そうだよ真央ちゃん!私の周りの男の子なんてコレを含む少数の変人しかいないんだもの、真央ちゃんから乗り換えるなんて無理に決まってるじゃない!」
そう力強く言い切ると、奈央さんは達成感に溢れた様子で一息をついた。台詞を最後まで言えたのが嬉しかったらしい。
「そうかなぁ。手近に適役がいると思うんだけど」
そんな風に呟いた真央さんが、じっと俺を見詰めていた。ちゃんと考えろってことか?
「ええと……まず疾風は」
「ないですね。そもそも危ない女の子と付き合ってるでしょう」
奈央さんが即答で切り捨てる。まあ俺もないとは思ってたし、第一奈央さんがあんな野郎に取られた日には自決ものだ。
「じゃ、久遠?」
「あれは同志ですが、それ故に有り得ません」
ああ、シスコンね。なんて、久遠には失礼ながらすぐに合点してしまった。まあ奈央さんと久遠がくっつくとかなんか嫌だしな。
「じゃあ……って、考えたら奈央さんと同年代の男なんか他にいるか?」
学校に男なんか腐るほどいるけど、そもそも俺が認めてない人間をくっつけるなんて言語道断だしな。
「ほら見たことですか。私とくっつくにしかるべき人間なんて真央ちゃんを置いて他にはもがぁあっ!?」
三本目いったああああああああ!
真央さんが眉一つ動かさずに、それでいて一切奈央さんを見ずにその口に里芋を叩き込んだ瞬間が、ありありと眼前に晒された。
「そうなると、後は一人しかいませんね」
なにくわぬ顔で、いや恐らくペットをあしらうような感覚で姉を封殺した真央さん。満面の笑みを絶やさぬまま、不自然な程に俺を見詰めていた。
「誰だ?秋隆さんは流石になしだろうし」
「……この不感症男」
んっ?今なんか、真央さんがぽつりと何か呟いたような。しかも妙に聞き覚えのあるやつ。
しかしわからんな。とりあえず、奈央さんに心当たりはあるのだろうか。
なんて思って彼女に目をやると、思いきりそっぽを向かれた。酷いな、目を逸らすだけじゃ飽き足らず顔ごとかよ。
「つーか奈央さん大丈夫?なんか顔が紅潮してきてないか?」
「もっ、もがぁっっ!」
やばいかな、これ。体調崩されると遊びや悪戯じゃ済まなくなるぞ。でもごめん、ちょっと何言ってんのかわかんない。
「心配無用です。さあ奈央ちゃん、言いたいこと言わせてあげるよ」
嬉々として姉の頭を撫でていた真央さんが、その言葉と同時に三本目の里芋を勢い良く抜き取る。
ここから奈央さんのターン、なんだろうか。
「わっ、私は嫌ですよこんな不感症男!ぜんっぜん好みじゃないし気もきかないしつまんないしっ、然り気無くセクハラするし何気なく女の子口説くしっ、それからなんかもうほんとだっさいし!こんなのとくっつくくらいならタラちゃんと一線越える方が百万倍マシだってんですよ!はい!」
タラちゃんと比較すんじゃねえ!そして挙げ句に完敗してんのかよ俺は!どんだけ嫌いやねん!
なんて言葉にするのすらキツいいいいいい!なんだこれ物凄く傷ついたぞ!?
「……ぐすっ……そっか、考えたら俺も候補で……えぐっ……そっか、そんなに嫌なのか……」
「っっったりまえでしょうが!私は貴方とスリッパに優劣つけるなら迷わず軍手と結婚する覚悟さえあります!」
「スリッパはっ!?そしてわざわざ軍手と結婚する意味はっ!?」
「貴方なんかスリッパ以上軍手以下の存ざもがっ!」
「あっ、スリッパには勝ってたんだ……って、またかよ真央さん」
叩き込まれた里芋を視認すると、俺は少し呆れながら真央さんを見た。ワンパターン化は良くないよ。
「ふふっ、四本目だね奈央ちゃん」
そして相変わらずのはしゃぎっぷりである。鬼の首でも取ったようとは正にこのことなんじゃないかな。
「遥人さん、奈央ちゃんの相手になってあげる覚悟はありますか?」
「あるけど、奈央さんが嫌がるぞ」
俺はほら、もちろん買って出るよ?奈央さん可愛いし、普通に大好きだし。
でもほら、俺って嫌われてるし。考えたら出逢った日からずっと、拒絶されたままだし。
「奈央ちゃんが素直に遥人さんと仲良くなりたいって言ったら、そうしてくれますね」
「そりゃもちろん、喜んでそうするよ」
そうなればの話ね。とらぬ狸の皮算用とは良く言ったもので、得られる筈のない好感など計算に入れる価値はこれっぽっちもないだろうから。
「だってさ、奈央ちゃん」
芋を抜き取る。今更っちゃ今更だけど、現在までに奈央さんの唾液に晒された四本の里芋はどう処理するつもりなんだろう。
「だから真央ちゃん、私はこんな男に興味なんか」
「ふうん、無いんだ。おかしいね」
待ってましたとばかりに反論する奈央さんに対し、真央さんはまるで本宮日和のように、つまり脅迫するように呟いた。
「おかしいなぁ。私のことが好きなら、私の大好きな遥人さんのことも好きになってくれる筈だよね?」
「そっ、それは別問題だと思うんだけど」
うん、別問題だろうね。俺もあの娘は大好きだけどあの娘の尊敬してるあいつは嫌いだしな。てめーだよ草壁冬介。
いや、そんなことはどうでも良い。
「いっしょだよ。そうじゃないなら、奈央ちゃんが私を好きって言ってくれるのは嘘だったんだね」
「そんなわけないよっ!私は真央ちゃんのこと大好きだもん!自白剤飲まされても同じこと言うよ!」
「―――それじゃあ、わかるよね?」
すげえ。素直にすげえ。あれか、これが世に言う誘導尋問って奴か。本宮みたいと評したが、これは本当に匹敵してるんじゃないだろうか。
「それじゃ、そろそろ手足もほどいてあげますね」
「う、うん……」
ようやく自由の身になるというのに、どこか浮かない様子の奈央さん。真央さんが耳元で何かを囁いているのが見えた。
それを聞いた奈央さんは露骨に震えて唇を噛んでいる。顔は真っ赤で、冷や汗みたいなものが首筋を伝っていた。
「良かった。別に奈央さんもド●ってわけじゃないんだね」
「誰が●Mですかっ!一瞬でも疑ったことを猛省しなさい!」
自由な体を思いのままに動かして、彼女は俺の目の前へと歩み寄った。ここで計画を実行しなくてはならないのだろうか。
「つーか俺は何をしたらいいんだ?」
「知りませんよ。私は遥人さんを……そのっ、す、好きにならなくちゃならないんですからっ。そっちがどうにかしてくれなきゃ、こっちはどうしようもありませんっ」
まったくもってその通りだった。しかし声が上ずってるじゃないか。どんだけ不服なんだよ。
「それじゃ真央さん。何かアドバイスを」
はっきり言って、どうしたら奈央さんに好感を持ってもらえるかなんてさっぱりわからない。
どこからか『いつもみたいに条件反射よろしく口説けばいいんじゃないすか』みたいな投げやりで悪質な声が聞こえてくる気がするけど、多分気のせいだろうね。
「ええと……私にしてくれたのと同じようにすればいいんじゃないですか?私はそれで、遥人さんのことが大好きになりましたから」
「なるほど。案外わかりやすいな」
しかし、そんな何気なく大好きと連呼されたりすると嬉しくて死にそうなんだけど。俺は明日あたり死ぬのかもしれない。
とりあえず、真央さんにやったことか。いろいろあるような気がするけど、一番はこれだろうな。
「奈央さん、おいで」
恐らく奈央さんには使ったことの無いような声色。出来る限り優しい調子で、彼女を自分の膝元へと招いた。
「は、はいっ!」
奈央さんは何故か気合いを入れるように強く返答して、ごくりと息を呑みつつ歩み寄って来た。
射程圏内まで来たところで、それはようやく発動した。俺は奈央さんの腰に腕を回すと、体全体でぐっと引き寄せる。
存外に細い彼女の体が飛び込んで来るのをしっかりと受けとめ、包み込むようにぎゅっと抱き締める。
「あっ……はぅ……」
喘ぎ声とも呻き声ともとれる彼女の呟き。それさえも包み込んで逃がさないように。
背中に回った手で優しく背中をさすると、徐々に強張っていた奈央さんの体が力感を失っていく。
完全に体重を預けられたところで、次に頭を撫でてやる。最初はゆっくりと、やがて激しく。綺麗な髪がぐしゃぐしゃになっても、甘い臭いは逃げる気配がない。
さて、ここからは……企業秘密にしておきたかったんだけどな。恥ずかしくて堪らないし。
相変わらず片手で背中をさすりながら、もう片手の手を這わせていき彼女の五指に絡ませる。
距離感に慣れてきたのを見計らって頬を擦り寄せ、更に頬を中心に顔を撫で回していく。
最後に前髪をそっとかき上げ、額に唇をあてがう。ここまでが一連の流れで、俺が幼い日に母さんからしてもたらったこと。
真央さんに対しては日常的なことでも、奈央さんに対しては少しだけ抵抗が残っていた。
それは多分、未だに奈央さんを女の子として見ている部分が大きいせいで。真央さんは妹のような存在と言うけど、考えたら奈央さんは妹のようには思えない存在だった。
これじゃきっと駄目なんだろうな。家族になるって言ったんだから。真央さんと同じように、ちゃんと抱き締めてあげなくちゃ。
「……わぁ。見てる側からすると、結構過激なんですねえ」
真央さんがそんな感想を漏らす。今更じゃないか。彼女とはこんなことを毎日繰り返していて、それが違和感のない関係になっているのだから。
「奈央さんはこれ、大丈夫なのかな?」
抱き締めた腕をほどいても、彼女は俺に全体重を預けたままでいた。目線を追うと、完全に意識がとんでいるようだった。
「――はっ!?ここは…………天国?」
「落ち着け」
何を馬鹿なことを。いや確かに馬鹿なんだけど。ほとばしるほど馬鹿なんだけど。
「……寒っ」
「何言ってんの。夏だよ今は。真夏」
「でも、なんだか寒いんですよう」
だきっ。
「……まあ一応、人肌よりは室温も低いわな」
だからってこんな。自主的に密着されるのは自分からやるのとわけが違うわけで。
すりすりすり。
「何やってんの?」
「摩擦熱です。これで遥人さんのほっそい胸板も温かくなります」
細くて悪かったな。思いきり頭すりすりしやがってからに。これは俺がやったら完全なセクハラだよ。
「はい、これで終わり」
「あっ、そんなぁ」
ぱっと手を話して立ち上がり、今まで密着していた奈央さんとの間に距離を置く。名残惜しい、体温と柔らかさと香りと。
「うう、遥人さんっ」
待ちわびたようにとびかかって来たのは真央さん。同じように抱き締めて、優しく頭を撫でてやる。
「なんだかすごく、寂しかったです」
そりゃまあ、いつもは真央さんのポジションだったからね。一年積み上げてきたものだから、失って寂しくなるのも当然。
「だから、寒いんですってば」
「おいおい、ほんとどうしたんだよ奈央さんは」
背中に奈央さんが密着すると、ついに妙なサンドイッチが完成してしまった。
温かくて、柔らかくて、安心できて、幸せで。
多分これが、恥ずかしくはあるけど、俺たちが積み重ねてきた一年間の証なのだろう。
当たり前みたいに抱きあって、幸せだって言えて。多分じゃない。これが俺たちの望んだものだった。
手に入れられたんだから、誇るよ。強く、気高く。
「今日は三人で寝ようか」
きっと、一年前の今日だったら考えられないこんな発言も。
「仕方ないですね。遥人さんがそういうのなら、一緒に寝てあげましょう」
いつもなら考えられない、こんな奈央さんの嬉しい切り返しも。
「せっかくの一周年なんですから、お風呂もいっしょにしましょうよ」
真央さんのそんなすっとんきょうな発言も。
「いやいや、流石にそれはまずいだろ」
「……私は構いませんけどねえ。やっぱり遥人さんは男の子ってわけですか」
奈央さんの挑発的な発言には何も言い返せないとして。
つーかそんなことしたら一年間の積み重ねが台無しだろ。完全に女の子としてしか見れなくなってしまうだろうし。
「ま、その前にやらなくちゃならないのが……」
――――この里芋、どうしよっか?
八月一日。一年に一度のその日は、一生に一度の出逢いを得た日。
記念なんて大層なもんじゃない。無限大な夢なんか見れやしない。
それでも。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
電気が消えて、三人の寄り添うベッドが静かに夜に溶け込んだ。
すぐに寝息は二つ聞こえだし、安心した彼女は隣の少年を抱き締めた。
「今日だけ、ですからね」
自分に誓う言葉。それでも今日、この日だけは、素直な自分でいたいから。
「おやすみなさい。―――私も、大好きですから」
汚れちまつた悲しみに―――例えばこんな、温もりを。
こんな一日
そんな日常
最後は改変しましたが、あれはなんとなしに素晴らしい詩ですね。
さて、里芋と矯正計画の行方はうやむやですが、こんな感じで一周年とさせていただきたいと思います。
原点回帰を目指す一話、その成果を垣間見ていただけたら幸いです。