第八十九話 持たざる者の選択
作者と読者に忘れられそうな彼女を、そろそろ書いてやらねばなるまい。
そんな強迫観念のもと、ちょっと長くなってしまったわけですが。
普通。当然。当たり前。
大嫌いだった言葉。
求め続けたカタチ。
届かなかった願い。
常識。定義。大前提。
入れなかった器。
護れなかった範疇
満たせなかった、私。
眩しくて、羨ましくて、妬ましくて。
欲しいかったモノは、なんだったかな。
私を認めてくれるもの。人、場所、器、境界、範疇、前提、定義。
一つでさえあったなら。一つでさえなかったから。
私は貴方を、求めたのでしょうね。
『持たざる者の選択』
言われちゃったこと。聞いてしまった言葉。締め付けられたのは、心だけじゃない。
『あのね。ごめんね』
幼い心。無意識の悪意。絶える筈のないもの。耐えるしかないこと。
私の前に小さく佇んだ、一人の男の子。幼くてあどけない、本能の塊。
『おねえちゃんと遊ぶの。たのしくないの』
抉られた心。晒された欠陥。足下から揺らいで、遠ざかって行く意識。
目を覚ました時、私は白いベッドに伏せていた。昔いつかの頃みたいに、情けなく、弱々しく。
泣く権利、私にはないもの。
「それで、そんな風に俯いているわけ?小夜ちゃん」
声。大好きな人の声。ちょっとだけ安心して、ゆっくり、そっと顔を上げた。
「……茜ちゃん」
大好きな友達。きっと、親友って呼んでも笑ってくれる。いつも私を支えてくれて、いつも私が迷惑かけて。
「ごめん、私、寝てたみたいで」
「違うよ、気絶。だからここは、学校の保健室。倒れた保育園から搬送されてきたの」
倒れた?私が?今日は楽しみにしてた保育園実習の日で、いつもより気分も良くて。
それなのに、倒れたの?
「びっくりしたよ。実習終わって帰ろうとしたら、小夜ちゃんいないんだもん」
そっか、私、本当に倒れて。そのまま学校まで帰されて、保健室で寝ていたのね。
どうしてかな。あんなに楽しみにしてた保育園実習なのに、どうして倒れたりしちゃったのかな。
「現地解散って言われたけど、心配で戻って来ちゃったよ。さすがに気絶や卒倒は珍しいから」
確かに、具合悪いのはいつものことだし、茜ちゃんが知らない間に早退してることも少なくない。
「うん、ごめんね」
それでもまだ心配してくれるんだから、嬉しいな。優しいな、茜ちゃんは。
「私はいいけど、今日は」
「今日は俺がいたから、ちょっと気まずかったかもな」
ベッドを囲むベージュのカーテンを開いて、一人の男の子が顔を除かせた。
「お茶買ってきたから、まあ飲みなよ」
「ありがとうっ……疾風くん、久しぶりだね」
「そうだな。久しぶり」
私は本当に、なんてことを。ここに彼が、疾風くんがいる理由なんて一つしかない。
きっと今日は、二人でお出掛けする日だったんだ。学校帰りに、待ち合わせして。
「ごめんね茜ちゃん。私のせいで、その、でーと」
「気にしないで。そんなのいつでもできるんだから」
太陽みたいに、明るく笑って誤魔化して。綺麗で、眩しくて。私の大切な、大切な友達。
「俺も別に気にしちゃいないよ。ただお茶買ってこいとパシらされたのが不満なくらいで」
「それはごめん!小夜ちゃん一人にしたくなかったから」
「まあいいけど」
そんな茜ちゃんが選んだ人だもの。きっと、疾風くんも素敵な男の子で。
「それで、だ」
その疾風くんが壁に寄りかかり腕を組んだ。話を聞かせてもらおうか、と優しく語りながら。
「倒れた原因、何かあるんでしょう?聞くよ」
茜ちゃんも、私の手をぎゅっと握ってくれて。そんな風に微笑んでもらえたら、なんだかそれだけですごく安心して。
「あっ、ありがとう」
貰ったお茶を一口だけ飲んでから、頭の中を整理した。……嫌なこと、思い出しちゃったな。
「言われちゃったんだ。園児の子に」
「なんて?」
外遊び。元気いっぱいに駆け回る子供たち。可愛くて、嬉しくて、私も相手をしてあげるために精一杯走り回った。
くたくたで、走り疲れて膝をついた。園児も他のクラスメイトもまだまだ元気みたいで、私だけが取り残される形になってしまった。
寂しいなって。体力的にどうしたって劣る私は、それでも何とか立ち上がって輪の中に戻った。
戻ったけど、全然駄目みたいで。頭が痛くて、息が苦しくて。周りにいた子供たちに気を遣われる始末。
それでも子供と接するのが楽しくて、お話しするだけで安らいで。けど、思えばそれが良くなかった。
遊びたくて、走り回りたい子供たち。それを気遣わせて引き留めてしまっていた。
私の元から申し訳なさそうに離れていく子供たち。最後まで残ってくれた男の子も、最後はごめんねって呟いて。
「ごめんね。おねえちゃんと遊ぶの、楽しくないの」
ごめんね。気遣わせちゃってごめんね。そんなこと言わせちゃってごめんね。
私が駄目でごめんね。普通じゃなくてごめんね。当たり前もできなくてごめんね。ごめんね。ごめんね。
意識が、そっと、遠ざかって行った。私は、戻りたくないなって、思ってた。
「私がっ……こんな体だからっ……っ!」
話し終わる頃には、知らないうちに泣き始めていたようで。嗚咽が止まらないまま、私は二人を見つめていた。
「小夜ちゃん、泣かないでよ。そんな悲しそうにしないで」
ぎゅっと胸に抱き締められて、私は茜ちゃんの温もりに包まれた。柔らかくて、暖かくて、安心できて。
少しだけ嗚咽が止み始めたとき、茜ちゃんが耳元でぽつりと呟いた。
「許せない……酷いよ、小夜ちゃんにそんなこと言うなんて……」
「茜ちゃん?」
茜ちゃんは悔しそうに唇を噛んでいた。私なんかのために、心を痛めてくれていた。
「仕方ないだろ。子供の無邪気に悪意はねーよ」
「でもっ、小夜ちゃんだって何も悪くないもの!」
疾風くんが寂しそうに答えると、普段はでれでれの茜ちゃんがそれに食ってかかった。
茜ちゃんは無理をしていた。子供たちを責められる筈がない。そんなのわかってて、それでも私を不憫に思うから。
「だったら、周りの皆が酷い!小夜ちゃんがついてこれないのわかってて、それなのに自分たちのペースに子供たちを引き込んで!」
「子供たちのために実習に来てたんだ。子供たちより一人のクラスメイトを優先する道理はねえ」
「でもっ」
ごめんね。もういいの、いいから。わかってる。茜ちゃんだって、わかってるでしょう?
悪いのは、私。普通じゃなくて、当然ができなくて、当たり前になれない。私は、欠陥人間だもの。
「でもっ、だったら私はどうすればいいの!?悔しいじゃないっ!」
「……いいから、帰るぞ。できることがないのはわかってんだ。ここにいても仕方ねーよ」
疾風くんは茜ちゃんの手を握ると、私に背を向けて立ち去ろうとした。
私としては、有り難かった。これ以上、茜ちゃんが私のために苦しむのは見たくない。
それに、やっぱりこれはどうしようもないことだから。二人の大切な時間、これ以上空費させることのないように。
「それじゃ、小夜ちゃん。出来るなら早いことアパートに帰りな。その方がいいに決まってる」
疾風くんは茜ちゃんの手を引いた。けど、当の茜ちゃんはまだ迷ってるみたいで。本当に、優し過ぎるよ。
「行くよ、茜ちゃん」
「……でも」
「いいよ、茜ちゃん。行って」
離れまいと私の手を握る茜ちゃんを、そっと引き剥がした。精一杯に微笑んでみせて、努めて明るく振る舞った。
「いいの、気にしないで。それに私も、そろそろ帰ろうと思ってたから」
唇を噛んでいた茜ちゃんが、いっそう切なそうに瞳を伏せた。
「……わかった。それじゃあ、また」
「うん、また。ありがとうね」
小さく手を振って、目を切った。一度背を向けてしまえば、振り返ることはもうなくて。
二人は手を繋いで、そっと保健室を後にした。
―――私も、帰ろう。
「酷いよっ、疾風くん!あんなのないよ!」
「酷いって……別に俺たちにできることなんか何もなかったろ」
「だからって見捨てるの?何も出来なくたって、一緒にいてあげればいいだけじゃない!」
保健室を出た二人が、恐らく交際開始後始めてと思われる口論を繰り広げていた。
いつもなら茜が一方的に疾風を追い詰めていく二人のやり取りだが、今回は桐原疾風が違った。
「それが無駄だってんだ。なんのために彼女をあいつに引き合わせたと思ってやがる」
「……あっ」
「大事な親友に負担かけてまで、小夜ちゃんを支えてやれと頼んだんだ。その意味がわかるだろ?」
疾風にとって親友、もとい遥人に負担をかける行為はタブーとなっていた。
いつだって潰れそうなほど何かを背負って生きてる男だ。これ以上、あいつに負担をかけちゃならない。
そう思う疾風が、それでも彼と彼女を引き合わせたことの意味。それは一つの決断だった。
だから。
「信用してくれ、あいつのこと。アパートに帰るのが最善だった。間違っちゃいない筈だから」
「……ごめん。遥人くんは、私も認めて選んだ男の子だもん。信じなくちゃ、駄目だよね」
それは、彼女も同じで。大切な親友を彼に託した、そのことの意義。信じたから、きっと大丈夫。
「だからまあ、俺達はさ」
「うん。ゆっくり、その、でーとしようねっ」
羨ましいほど、妬ましいほど、幸せそうに。たった一人の男に全てを託して、二人の男女はそっと物語の舞台から降りていくのだった。
『小夜ちゃん頼むわ』
携帯を開き、新着メールを二三度読み返し、溜め息を吐く。いや頼むわじゃねーよクソが。
てめえ疾風こら。後でぜってー奢らせてやるちくしょうめ。まあでも、今はそれよりだ。
「おかえり、小夜ちゃん」
「えっ?あっ、その、たたただいまっ、遥人くん!」
アパートの前で待ち伏せという形に相成ったわけだが、これはこれで彼女としても違和感が強いだろう。
疾風から連絡来てるなんて思わないものな。きっちり細かい事情まで説明を受けてるわけだし。
「それじゃ、ゲームでもしようか。ゲーム」
「はいっ、えと、ゲーム……ですか」
「うん。マ◯カーしよう」
帰るなりいきなりゲームしようはねえだろとも思うのだが、彼女の事情を省みるならこうでもした方が良いのだろう。
彼女が今どんな傷を追っていて、何に悩んでいるのか。
疾風が相変わらずの有能性をもって的確に伝達してくれたこともあり、自分が何をしなければならないのかは良くわかる。
「ささっ、入って入って。カルピス出すよ」
「それじゃあ、うん、お邪魔しまーす……」
幸か不幸か、姉妹は外出中ときている。小夜ちゃんを構うのに専念できる環境はさぞ有り難いことで。
「それで、体の方は大丈夫なの?」
「えっ?」
ごめんね。突飛な質問になってるよね。さっきから強引さが目立ってしまうあたり、俺は下手くそなんだろうな。
「いや、実はその、いろいろと疾風から連絡を受けてるもので」
「……そうだったんだ。その、体はもう大丈夫。ありがとうね」
言わない方が良かったのかなとも思うが、また彼女に辛い事情を説明させるのは忍びない。
ただ、意識的な気遣いってちょっと重いんだよな。無意識に見せかけた気遣いと比べたら、怖いくらい。
それに多分、今彼女は少しだけがっかりしたんだと思う。知らずに優しくしてもらうのはいいけど、知ってて意図的に気遣われるってのはどうもね。
そこを巧くやるのが自分の仕事……なんだろうけどさ。しかし、俺もまた買い被られたもので。
「おいしいですね、カルピス」
「んー、おいしいね。それで小夜ちゃん、マリ◯ーはやったことある?」
カルピスを飲みつつゲームをセットしながら、俺は小夜ちゃんに問い掛けてみる。
彼女は一応首を縦に振ると、頬を掻きながらはにかんだ。確かに、体の方は大丈夫そうだ。
「一度、茜ちゃんとゲームセンターで」
怖いからその名前を出すなと言いたいところだが、それも今更か。まあ本宮と比べれば彼女も人間だ。
「助かるよ。とりあえず簡単に勝負しよう」
コントローラーを手渡すと、俺はすかさず髭の弟を選択する。この劣等感の塊のようなキャラ設定が堪らない。
「遥人くん、緑の弟さんに失礼な感情を抱いてませんか?」
小夜ちゃんが怪訝な様子でそう問うが、俺はなにくわぬ顔で穏やかに首を振った。
基本的に弟さんと呼ばれてる時点で、兄ありきの存在なのは明白。作中通して弟さんと呼ばれる某主人公も納得の扱いだ。
「小夜ちゃんはそれ、やっぱり食物連鎖に興味があるの?」
「そんなヨッ◯ーをおぞましい肉食獣みたいに言わないください!私は縫いぐるみ抱いて寝るくらいのファンなんです!」
「然り気無く恥ずかしいカミングアウト来た!?」
いい年こいてそりゃねーだろ。てかいい年頃なんだからその役目は俺が変わった方が……いや、少し落ち着こうか。
「よし、じゃあとりあえずキノコカップから埋めてこうか」
「キノコカップ……なんだか卑わ」
「さあ始めよう!すぐに始めよう!」
この娘ときどきナチュラルに下ネタ始めるんだよなあ。完全に無意識なんだろうけど、まるで俺の心が汚れてるみたいだ。
「そういえばキノコを連射できるアイテムとかありましたよねえ」
「うん。なんつーか、いやなんでもない」
なつかしー、とかにこやかに言ってるけどちょっとこれマジで狙ってんじゃないだろうな。いや有り得ないけど。
「っておおおおい小夜ちゃん逆っ、逆だから!何で開始数秒で逆走に転じてんのっ!?なんの様式美!?」
「はっ!?この係員さんが可愛かったからついっ」
「その係員さんは逆走の証だから!つーかさっさと落下したキャラを引き上げる仕事に戻してあげてっ!」
なんだっ!?経験ってなんだ!?名ばかりか!
さすがに素人でもこれは見たことないよっ!?
「遥人くんすごい!私の画面見ながらでも独走してるよ!」
「小夜ちゃんは自分の画面見よう!?壁に激突してるからっ、ヨッ◯ーの大きなお鼻が潰れそうだから!」
「きゃあっ、大丈夫なのヨッチー!」
「ヨッチー!?なんでものすげー舌ったらずなの!?そういうのは自分の脳内に留めとこうよってか鼻がやべえええええ!」
そういうゲームじゃなくてよかった!鼻血とか吐血とかリアル再現のゲームじゃなくて本当によかった!
「あっ、遥人くんの緑ぃおじさんが!」
「緑ぃおじさんとか言わないでっ!ていうか周回遅れだぞヨッチー!」
「わあ!そうやってぶつかって軌道修正させてくれるんですね!」
「なんか壁から前に向き直れないみたいだしね!仕方ないね!」
鼻ァ!今助けるぞ鼻ァ!おまえを真っ赤なお鼻のトナカイさんなんかには決してしないぞ!
「よしっ、行くぞ小夜ちゃん」
「再スタートですね!」
完全に手遅れも甚だしいけどねっ!しゃーないから後ろからついてったるか。なにも1位になる必要はないし。
「よし小夜ちゃん、そのキノコを連射だぁ!ってこれ大丈夫だよねセクハラと違うよね!?」
「セクハラ?」
突っ込み不在かあああ!そしてなんなのその純潔な瞳は!ナチュラルに下ネタ振ってくる癖になんなの!
「ってキノコ連射で壁に頭突きすんなっ、そして鼻がああああ!我が子ならぬ我が鼻のように痛いぃぃぃいいい!」
軌道修正っ、軌道修正を早急に!
「あっ、今回は自力で修正できました」
「良かったね。お陰で緑の弟くんは顔面ぐちゃぐちゃかと思うけどね。良かったね」
うん……もう、普通に走ろうか。
「はぁ。面白かったね、遥人くん」
「うん、特に緑の恐竜の走行スタイルが面白かった」
ちょっぴり顔を赤らめて俺をバシバシと叩く小夜ちゃん。かれこれ一時間のレースの効果は上々といったところか。
「ゲームって久々にやったよ。こんなに楽しいかったっけ」
「いっしょにやる人さえいれば大概は楽しいよ」
それに、小夜ちゃんみたいな人にとっては特に。俺の意図というのはお察しの通りだが、彼女に思い切り体を動かしてもらうことにある。
ゲームという擬似的な運動にはなってしまうが、体の弱い彼女にとっては十分にストレス発散の役割を担ってくれるだろう。
でも本当は、外の世界で思い切りはしゃぎ回ることができたなら。
気持ちがモヤモヤしてるとき、体を動かして発散すること。彼女にはその選択肢がなかった。
だから多分、気持ちのモヤモヤを抱えたままの日々が続いていただろう。そういう意味での、俺なりの配慮だった。
「でも、気持ち良いんだろうな。ゲームでも車でもなくて、自分の足で走って、風を受けて」
ぽつりと、彼女が呟いた。それを聞き逃すことはないけど、聞きたくなかったなって思うくらい、悲しい言葉だった。
「私は、走るくらいは出来るけど。すぐに苦しくなって、目眩がして。気持ち良いなんて、思えたことなかったから」
気持ち良いよ。体だけじゃなくて、心も。それを感じる余裕さえないその身体こそが、彼女の足枷なんだろう。
「外、出てみようか」
「ふえっ?」
気抜けに間抜けな反応を見せた小夜ちゃんが、小首を傾げて上目遣いに俺を見つめた。
俺は、彼女の頭にぽんと手を置くと、なるたけ朗らかに語りかける。連れ出すのだ、彼女を。
「外だよ。何かしたいことある?」
彼女は中空を見詰めて思い悩むと、突然に何かを思い出したようにぽんと手を叩いた。
「キャッチボール、してみたいかな」
遠慮気味ながら、それでもちゃんと意志を伝えてくれた小夜ちゃん。その気持ちには、必ず答える。
「昔、小さいころ、一度だけしたことがあるんです。お父さんと、一度だけ」
お父さんってーとやっぱりアレか。あのメイド服プレゼントしたアレか。キャッチボールとかやるんだなあ。
「よし、グローブ出して来る。うちの父さんもキャッチボール信者だったから、昔はよくやったんだ」
夕焼けの公園。作りかけの砂の山。赤黒く錆びた鉄棒。思い出す、あの人との時間。
しょっちゅうキャッチボールに誘われて、他愛もない話をしながら、何度も何度もボールを投げた。
それはきっと、楽しかったんだと思う。だから、キャッチボールは続いてて。今も。
「さあ、これ嵌めて」
二つの古びたグローブ。いつの間にかぴったりになっていた、父さんのグローブを嵌めた俺。
二人でアパートの前に出ると、その影が並んでアスファルトに写った。
ふと影を眺めて考えてみると、俺と小夜ちゃんにはこんなにも身長差がある。影とはいえ、ちょっと驚くくらいに。
でももっと驚いたのは、当時の俺のグローブが小夜ちゃんにぴったりだったこと。汗臭くてごめんよ。
「いや、小夜ちゃんなんで匂い嗅いでるの?」
「はっ!?すみません無意識に!」
汗フェチ?いや、まさかな。怖いもの見たさならぬ臭いもの嗅ぎたさだろう。
それにしても。
「手、小さいんだね」
俺は無意識に彼女の右手を拾い上げて、まじまじと見詰めながら呟いた。
華奢で白い手。触れれば壊れてしまいそうなその手をそっと撫でて、今度は彼女の顔を見詰めた。
「はっ、遥人くん!?」
白い肌。大きな瞳は戸惑いに揺れて、張りのある唇が言葉を紡ぐ。真っ赤に染まった頬に、そっと手を伸ばしてみる。
「あのっ、そのっ、恥ずかしいのですが」
泣き出しそうな程に瞳が潤んで、体が小刻みに震えていた。触れた頬は予想以上に熱くて、彼女の生を発散しているようだった。
こうやって見たら、ちょっと気弱な普通の女の子にしか見えなくて。不健康な要素なんか、少しも見当たらなかった。
けど。細い腕とか、か弱い息遣いとか。俺が抱いた感情は、そんな部分に起因するもので。
誰かが、護ってあげなくちゃならない。このグローブを嵌めていたあの日の俺が、父さんや母さんに護られていたように。
それが、俺の役目か。このグローブを嵌めた、あの日の父さんと同じように。
「それじゃ、投げるよ。さあ離れて離れて」
「えぇっ!?今の思わせ振りな行動はっ!?」
「や、別に」
「別にって!」
思わせ振りってなんやねん。俺は無言で手を握って熱っぽい眼差しで見詰めた挙げ句に頬を撫でただけだっての。
「それがまずいってんですよ、この色ボケ男」
「はっ……奈央さん?」
「ただいま」
そういえばもうすっかり夕方だ。当然のように姉妹も帰って来ましたようで。奈央さんがジト目で俺を見つめている。
「遥人さん浮気なんて酷いです!私とあんなに熱い夜を過ごしたというのに!」
「真央さんもお帰り。あと明らかに本宮テイストな発言だね。あいつと関わっちゃ駄目だと言っただろ」
順調に毒されていく真央さんも、当たり前のように姉と一緒で。仲良しはいいけど、二人して俺を攻撃しないで欲しい。
「さーちゃんもだね。ただいま」
「珍しいですね。遥人さんと外で何してるんです?」
相変わらず小夜ちゃんには物腰が柔らかい二人。多分ここにいたのが紫音さんなら俺は真央さんに圧殺されていただろう。
「うん、二人ともお帰り。今からキャッチボールするところなの」
「邪魔すんなよ。さっさと部屋に入れ」
とは言っても、あまり小夜ちゃんとばかり仲良くしていると二人の機嫌も傾くわけで。
「別に、見てるくらいはいいじゃないですか」
「私も、遥人さんが浮気しないように見張らないと」
「ああ、そう」
キャッチボールを観戦してどうするんですかね。あと真央さんが新妻気取りですよ。ちょっとくすぐったいね。
「それじゃ、今度こそ投げるよ」
「ばっちこーい」
「ばっちこーい」
「ば、ばっち、こーいっ」
なんで姉妹が反応するかな。あと小夜ちゃんは無理して真似しなくていいと思うな。悪影響だし。
緩く、自然に腕を振って。夕焼けの空に、あの日と同じように弧を描いた。違うのは、相手が彼女だということ。
当時は精一杯に投げてこんなボールだったな。今は精一杯に投げちゃうとまずいくらいなんだけど。
ぱすっ。
「と、捕れましたっ」
「ひゅーぅ」
「良かったですねー」
姉妹がヤジ将軍と化しているわけだが、そんなことは気にもとめないくらい、彼女は喜んでいた。
「あの時は、全然捕れなかったから。捕れてればきっと、お父さんだってまた誘ってくれたのに」
たったの一度きり。そのキャッチボールに失敗してしまったことは、その後の彼女をどれ程後悔させただろう。
「えいっ」
意を決したように放たれた彼女のボール。それは俺から大きく逸れて、明後日の方向へと飛んで行った。
「ああっ、そんなっ」
「でも捕って差し上げなさい、色ボケ!」
「遥人さん、男の見せ所ですよ!」
「無茶言うな!」
姉妹の野次に呆れながらも、山なりに弧を描くボールの落下点に必死で滑り込む。
「っ……捕った!捕ったぞほら!ノーバン!」
「おお!」
「すごいです!」
これを捕れるなんて、俺も成長したんだなあ。父さんの嫌がらせで走り回らされてた頃が懐かしいや。
姉妹もご満悦のようだ。見たかこのやろう。そしてさっき色ボケ扱いした奈央さんは額擦り付けて謝りやがれ。
「あっ、ありがとう遥人くん!なんだか嬉しいよ!」
小夜ちゃんまでもが飛び跳ねて喜んでいた。そして思い出したように疲れ果てて肩で息をしている。
いや、自滅すんなよ。なんのために運動量の少ないキャッチボールをやってると思ってんだ。
「そんなに喜ぶことでも」
「喜ぶよっ。私、あの時もコントロール悪くて、お父さんがイライラしながら拾いに行くの、すごく申し訳なくてっ」
嫌な思い出じゃねーか。それでもキャッチボールは大切なお父さんとの思い出だからってか。
娘の鏡じゃねーか。どうしてこんな可愛い娘を愛してやれないんだ。どうしてそのボールを捕ってやれなかったんだ。ふざけるな。
「俺はどんなボールでも捕るし、嫌な顔なんかしないよ。小夜ちゃんが捕れるように良いボール投げるし、好きなだけ付き合ってあげるよ」
悔しいじゃないか。こんなに献身的で、可愛らしくて。そういう女の子にくらい、幸せになってもらわなくちゃ困る。
「だからさ、そんな顔しないで。もっと楽しまなくちゃ駄目だよ。大切な思い出なんだろ?」
「……うん。そうだよね」
驚いたように、耳を疑うように。そんな様子で聞いていた小夜ちゃんが、言葉を噛み締めてくれたこと。
「ありがとう、遥人くん。こんなわがまま、聞いてくれて」
「気にしない気にしない。俺もキャッチボールは大好きなんだから」
久々にできて、俺も嬉しいんだから。そう言いながら、俺はボールを投げ返した。緩やかな、放物線。
「まったく、相変わらず息をするように女を口説くのですねえ、あの色ボケは」
「ね。あれが小夜ちゃんじゃなかったらきっと、私は邪魔をしてたんだろうな」
「おいそこ、強迫めいたこと言わない!」
姉妹がちょっぴり毒を吐く間に、ボールは再び彼女のグラブに収まった。今度は、確信に満ちたキャッチだった。
「キャッチボール、できそうです!」
嬉しそうにはにかんで、今度はすぐに投に転じた。典型的な女の子投げ。まず目線がバラバラだし、まっすぐ飛ぶわけがない。
「まあ、捕るけどね」
逸れるのがわかっていた分、今度は余裕を持ってのキャッチだった。いいぞ俺、上出来だ。
「小夜ちゃん、投げ方教えようか?」
「あっ、いいんですか?」
俺も彼女も、性格の割にやけに積極的だった。それが体を動かすってことの価値なんだと、どうか小夜ちゃんに知って欲しくて。
「だっ、駄目です!」
「遥人さんなんかにやらせたらセクハラボディータッチの応酬になるに決まってます!」
「なっ」
この迷惑姉妹め!特にそこの姉は俺をなんだと思ってんだ!そんなこと考えるおまえの頭がセクハラだっての!
「じゃあ二人が教えてやれよ。まあ骨格的に女の子には女の子の投げ方があるしな」
「任せてください」
これみよがしにボディータッチしながら、丁寧に小夜ちゃんの投球フォームを固めていく二人。
……ちょっともったいなかったかな。あっおい!女の子同士だからってそんなところを!
「これでいいでしょう。さあ投げてみようか、さーちゃん」
「ありがとう。じゃあ行きますね」
ぽーい。と、案外投げやりな様子で放たれたボールだった。しかし、良い意味で体の力が抜けていたのだろう。
ボールは、俺の胸元を確かについた。
「ストライク、だな」
「やった!やったよ二人とも!」
飲み込み早いでやんの。誰かが側にいてやりゃあ、この娘はもっとうまい具合に生きられるんじゃないだろうか。
(それも、俺の役目か?)
なんてね。いやでも、そうであれたなら。
「違いますね」
「勘違いだね」
「いや、おまえら俺の心境を解読するのやめろ」
いいじゃないか。自分が誰かの役に立てるかもしれない。俺だって、周りと等しくそんな自負を持ちたいよ。
いいじゃないか。頑張ってる人が、頑張ってるだけ報われるように。その手助けをしてあげたいと思うことくらい。
「よし、投げるぞ」
「「「ばっちこーい」」」
三人の声が俺の耳に届いて、ボールは再び美しい弧を描いた。夕焼け空を彩る、一つの放物線。
あの日と今とを微かに繋ぐ、夏の夕暮れの一時。
彼と彼女とを繋ぐ、細い糸のような時間。
こんな一日
そんな日常
作中に漂う暗い雰囲気を払拭したくてゲームとかやらせてみました。が、キャラのテンションが妙なことになってしまいましたね。
失敗も学習。そんな第八十九話でした。