第八十六話 出逢った頃の話をしよう
久々更新は『本編』。あの日から後、彼と彼女の反省会。弟君の心境心情は後回しのもよう。
『すーぱーしおんたいむ』との宣伝も差し支えなく。
待てど暮らせど変わりなく。されどこのまま穏やかに。
朽ちていく普遍。忘れていく不変。風化した思いが繋ぐ、最後の望み。
どうか、もう一度。
『出逢った頃の話をしよう』
あの頃は良かった。良かったけど辛かった。辛かったし苦しかった。苦しかったのに―――ただ、楽しかった。
変わってしまった今。思いを馳せる過去。希望を探す未来。
「だから、あの頃の話をしようよ」
暗い空の下、彼がそんなことを呟いた。あの日から繋がる今。七月初頭、雨降りの午後。
「……なんの真似です?」
「強いて言うのなら、紫音さんの―――あの頃の貴女の、真似ですかね」
「……そう」
戻った日々と、戻らない時間。あの日確かに『事』は起きて、私と彼は未来を選んだ。
選んだから、もう逃げられない。
「……あの日は貴方が、学校帰りでしたね」
「そう、俺が雨に降られた放課後。紫音さんが迎えに来てくれた、あの日の真似事だよ」
出逢って数ヶ月の秋のことだったと思う。彼の心が私を変えて、外の世界へ導き出した。
私はあの雨の日、彼を迎えに行くことを選んだ。一つの傘に身を寄せ合って、歩幅を合わせて家路についた。
だからこそ、今。
「迎えに来ましたよ、紫音さん」
傘を差した彼が、バイト終わりの私の前に表れて。甘く淡く微笑んで、その手を差し伸べた。
「……ありがとう」
嬉しくて、温かくて、胸が苦しくて。私はそっと手を取って、傘の中へと身を寄せた。
吐息さえ聞こえる至近距離。あの日と違うのは、心の距離だけではないのだろう。
「お疲れ様。それじゃ帰ろうか、あのアパートに」
「……はい、すぐに」
彼は満足そうに頷いて、そっと腕を私の腰に回す。離さないって言われてるみたいで、それが嬉しくて、切なくて。
「店長さんには、ちゃんと話した?」
「……はい、全部。それから御礼を言いました」
「それなら、よかった」
互いに歩幅を狭くして、ゆるりゆらりと歩いていくけど。不思議と幸せを感じるのは、帰る場所があるからで。
「……遥人さんは、話しましたか?」
「久遠と?」
軽く頷いて、上目遣いに彼を見詰める。その顔があまりにも近くて、すぐに俯いてしまうのだけど。
「話したよ、たくさん。でも、まだまだ足りないや」
足りない。及ばない。空白を埋めるには、その時間は短か過ぎた。
「でも、待ってくれるらしいから。のんびりやってこうかなとは、思うよ」
「……それなら、よかったです」
「そうだね、よかったよ。本当に」
大丈夫。あの子は大丈夫。私なんかよりずっと聡明で、有能で、人の思いを汲めるから。
「……けど、貴方は違います」
「俺?」
貴方はあの子と似てるけど、似ているだけで違うから。全然違うから、無理してるんじゃないかって。
それだけがただ、不安で。
「大丈夫ですよ。俺はあいつと違うから」
違うからこそ大丈夫なんだと、彼は言った。少しも怯まず、俯かず、しっかりと前を向いて。
私はそれが理解できなかったけど、それでもいいと思って、頷いた。
「……それなら、私は信じています」
「うん。それでいいよ」
肩の荷を下ろしたみたいに、背負った重みを投げ捨てたみたいに、今の彼は悠然としていた。
正確には、あの日私を引き留めた時から、何かが変わり始めていた。彼は前よりずっと、良くも悪くも開き直っていた。
「それにしても、良かったです。予想外に雨が降ってくれて」
彼はしたり顔で微笑んでみせると、私の腰に回した腕を肩に移して、そっと引き寄せた。
「いつか、迎えに行かなきゃって思ってたから」
「……嬉しいです」
恥ずかしさに顔が赤らんでいく。そんな様子を見られるのがまた恥ずかしくて、更に頬が染まっていくジレンマ。
いいよ。もっと続いて、終わらないで。
「思い出すな、あの日。俺さ、紫音さんが迎えに来てくれるなんて、本当に夢にも思わなくて」
当然だ。引きこもりが雨の日に迎えに現れるだなんて、いっそ幻覚の可能性を疑うレベルの出来事なのだから。
「嬉しくて、舞い上がってて、後で本宮に脅されるはめになったけど」
「……そうでしたか?意外なくらい冷静で、少し張り合いが悪いくらいだった気がしますけど」
彼が取り乱していたのなんて、私が腕に抱きついたときくらいだったと思う。
……何をしてるんだ、あの日の私。いくら思い切って外に出たからって、何もそんな大胆に行動しなくても。
「いや、舞い上がりますよ普通。こんな綺麗な人と並んで歩いて、それも相合傘ですよ?」
「……私だって、たくさん舞い上がりました」
舞い上がり過ぎて、それから熱を出した記憶さえある。本当、そんな経験くらい小さいうちに済ませておけば良かったのに。
「お陰様で、クリスマスの時は発狂せずに済みましたけどね」
「……それは緊張し過ぎです。発狂する要素はどこにもありません」
「あるよ。クリスマスに男女が歩いてたら九分九厘カップルだと思われる。こんな綺麗な人とカップル扱いされてると思うと、むしろもう怖いから」
綺麗綺麗と言わないで欲しい。あの頃の私はちっとも綺麗じゃなかったし、今だって彼に見合う女にはなれていないから。
それに何より、恥ずかしいじゃない。
「……私だって、男の人と歩くのは初めてでしたし。それに、私なんかでいいのかなって、ずっと思ってたから」
「それは俺の台詞です。ずっと、それこそついこの前まで、思い続けてたくらいですから」
―――それなら、今は?
「今は、違います。例え俺では力不足でも、なんとかして紫音さんに相応しくなってやろうって、そう思っています」
「……私も、そう在れるようにって、ずっと思ってます」
繋がってる。通じてる。わかった。理解した。私たちの歩んだ日々は、少しも無駄ではなかった。
「……遥人さん。雨宿り、しませんか?」
目線の先の小さなバス停を指差して、私は彼の腕を引き寄せた。あの日に負けないくらい、大胆に。
「うん、しようか。雨宿り」
戸惑い気味の彼が頬を掻きながら答えた。もう戻れない。どうするつもりだ、私。
「……静かですね」
バス停の屋根の下、聞こえるのは雨音だけ。そんな時間が数秒続くと、雑音が混じった。
私の、心臓の鼓動。忙しく脈打っては焦らせて、ドキドキして、落ち着かせてくれなくて。
「雨の音、俺は嫌いだったんだけどね」
隣で彼が、ポツリと呟いた。中空を見据えて、穏やかな表情のまま、言葉を紡いだ。
「でも今は、好きかもしれないよ。楽しい思い出、たくさんできたから」
「……それは」
それはもしかして、私との時間だったりしてくれたら、こんなに嬉しいことはないのだけど。
「あの日の紫音さんは、傘を投げ捨てて俺の腕を抱き締めてくれたね」
「……みなまで言わないでください。それはもう、若気の至りです」
言葉にするだけで、どうしようもなく恥ずかしいことなのに。あの日の私は、やっぱり舞い上がっていたのだろう。
「ここなら、傘もいらないから」
「……え?」
「本宮に盗撮される心配も多分、きっと、ない気がしないでもないから」
いったい何を?そう聞くより先に、彼が私の目の前に立ちはだかる。
その両腕が素早く伸びて私の腰に回される。ぐっと引き寄せられて、ぎゅっと抱き締められた私。
彼の胸に押し当てられた顔は一瞬で紅潮し、身体中が熱と彼の匂いに満たされていく。
全身の力が抜けて、それから先は全てを彼の体に委ねることとなった。そんな時間が、無限と思える程に続いて、夢幻と思える程に終わりを告げた。
あんなに長かった抱擁も、終わった途端に物足りなくなってしまう。だから私は人らしく、永遠を求める気持ちで彼を見詰めた。
「やっぱり、温かいや」
彼は満たされたように目尻を下げて、それから手放していた傘を握り直した。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
「……あの、今のは」
答える気概さえもなく、彼は私に背を向けた。私が隣に身を寄せる前に、伝えたいことがあったらしい。
「ありがとう」
「……遥人さん?」
呟いて、頬を掻いて、笑って。
「ここに居てくれて、ありがとう」
瞬間、視界が歪んでいた。止めどなく溢れてくる熱いものに邪魔されて、彼の姿も見えやしない。
やめて。こんな時に、泣いてる場合じゃないの。
「私はっ……居なくなろうとしてっ……貴方をっ……傷付けてっ」
しまっていたものが、涙と一緒に溢れ出して。留めることさえ出来ずに、情けなく流れ出して。
「わがままでっ……身勝手でっ……そんなのっ……許しちゃ……っ」
許しちゃ駄目なんです。私なんかを、貴方は許さないでいて。ずっとずっと、恨んでいて。
「わかったよ。それなら俺は」
それなら、貴方は。それなら私は。過去は。未来は、現在は。流れていくものの、その意味は。
「俺は、貴方を許さない」
大きな背中に寄りかかって、流れる日々を俯瞰していた。そんな私を、それでも貴方は。
「それじゃ、帰りましょうか。俺たちの家に」
それでも貴方は、こんな風に。私の頭上に傘を差して、いつでも隣にいてくれる。護られている、私。
「……待って」
上着の裾を摘まんで、引き留めてしまう。引き留めてしまったからには、もう戻れない。
「……好きです。ずっと、許さないでいてください」
雨音が響いて、アスファルトを穿つように。私の思いが、貴方の心を打てばいい。そうすれば、いつか。
「俺もずっと、これからもずっと、好きでいます」
わかってる。彼の想いは恋心なんかじゃない。ないのに、こんなにも温かい。
わかってる。その想いがどんなものなのか。私が求める『恋しい』という気持ちさえ凌駕する、貴方の想い。
愛しい、という想い。それがあるから、私は満たされていられる。
恋じゃなくても。それはまごうことなき愛だから。
ぎゅっと、抱き締めていこう。いつか結ばれるその日まで、この恋を抱えたままでいよう。
愛に溺れながら、少しずつ穿っていこう。愛に風穴を開けて、そこに私の恋しさを詰め込んでやろう。
時間が必要だ。果てしない時間、それこそ永遠が。
けれど、貴方は許さないでいてくれるから。その永遠を手に入れて、私は世界で一番幸せな女になる。
「さて、帰ろうか」
数分の抱擁の後に、彼が再びそう言った。今度は私の手を握って、外の世界へ連れ出すように。
そう。それは本当に、あの日と今の走馬灯のように。
「……帰りは、どんな話をしましょう?」
彼の腕にしがみつきながら、答えの出ている問いかけをする。声、もっと聞かせて欲しいから。
ねえ久遠、私ね―――ここに残って、良かったよ。
「それじゃあ―――」
『出逢った頃の話をしよう』
こんな一日
そんな日常
恋愛小説なのかと勘違いしそうな内容と文章ですから、『※コメディです』くらいには書いておかねばなりません。
騒動は終わるも、後片付けが山積みですね。ちなみに、『許さない』のルビは転用の転用ですのであしからず。