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日常賛歌  作者: しろくろ
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第八十三話 終息、君がいた日々

 たまには、主人公らしく在ろう。


 たまには、我が儘を言おう。


 たまには、帰って来てもいいかな?



 騒動、完結。

 どうにもならないことを、それでもどうにかしたかった。


 不可能を知って、限界を刻まれて、それでも。


 だからこれは、そういう物語。訪れる筈の終焉を回避して、尽きる筈の幸福を引き延ばし、ある筈の限界を踏破する。


 そうやって続いてきた、つまらない物語。


 そうやって続いていく、くだらない日常。




「帰りましょう、姉さん。ここは貴女の居場所じゃない」


 風に揺れる緑髪、さだめに揺らぐ瞳。織崎紫音と仲間達に立ちはだかる壁が、ついに姿を現した。


 織崎久遠。凡才から怪物へと昇華し、姉を絶望させた弟。姉を気遣いながら、空回りし続けた少年。


「……久遠。どうしてこのアパートがわかったの?」


「調べました。姉さんがいなくなってから一年近く、本当にようやく見つかってくれた」


 少年は朗らかに笑いながら、それでも長きに渡って追い続けた姉を目の前にして、どこかほっとしているようだった。


「―――背、伸びたのね」


「姉さんも、ずいぶん元気になったみたいだ。いなくなる前は、ずっと塞ぎ込んでたから」


 互いに慈しむように、空白の日々の成長に想いを馳せた。向き合った二人は、笑っていた。


「後ろの人たちは、このアパートの?」


「……ええ、ほとんどは」


「そっか」


 話題と視線が奈央たちの方に及ぶと、ある者は戸惑いある者は俯いた。目をそらさずにいたのは、姉妹だけだった。


「姉が、お世話になりました。ありがとう」


 深く頭を下げる久遠に、何を言って良いやらわからない奈央。とりあえずは頭を下げ返す。


「いえ、こちらこそ何かとお世話に……」


「と、まあそんな挨拶はどうでも良いわけです」


 二人の間を遮ったのは真央。本題がいまいち明確にならない現状を危惧して、それを打破しようと言うのだ。


「どうでも良くはないよ。お世話になった人たちに礼を尽くすのは当然だ」


 久遠が少し困ったように真央を見据える。それは明らかに、何を言われるか分かっていての宣戦布告であった。


「決めつけたように言わないでください。あなたがどんなつもりでここに来たかは知りませんが、私たちはお別れのつもりでここに居るわけではありません」


 真央が精一杯に言葉を繋いで、その布告に反撃してみせる。


 しかし、少年は朗らかに微笑むだけだった。真央に歩み寄り、その頭に手を置く。


「って、ちょっと馴れ馴れし過ぎやしません!?」


 慌てた奈央が、その手を振りほどいて二人の間に割って入る。可愛い妹が初対面の男に触れられるのは、かなり抵抗があるらしかった。


「君たちがどんなつもりでここに居るかはしらないけど……僕は、姉さんを迎えに来た。それだけだよ」


 少年の宣言に、姉妹は完全に圧倒された。柔らかい物腰、柔らかい笑顔。それでいて曲がる気配のない、確固たる意志。


 織崎久遠の牙城が、気高くそびえ立つようだった。だからこそ、その発言を止めることが出来ない。


「父さんと母さんが心配してる。それに僕も、ずっと姉さんを探して来た。あの日からずっと、もう一度家族でやり直すために探して来た」


「……久遠、ちょっと待」


「待たないよ。ようやく見つけたんだ。生きてるかどうかも怪しい中で、それでも見つけてみせたんだ。やり直せるんだ。だから!」


 笑顔を絶やさなかった少年が、一瞬だけ辺りを睨め付けるような顔をした。唇を噛み、紫音の肩を掴む。


「だから帰ろう。姉さん。貴女の居場所は、ここじゃないでしょう」


 詰め寄るように、すがり着くように。この場にいた誰もが、その願いの深さに心を揺らした。


 そして、思ってしまった。本当に彼女を止めていいのだろうかと。彼女の居るべき場所は何処なのかと。


「けれど、帰るかどうかなんて、本人が決めることです!」


 真央が、奈央の背中に隠れながらも言った。すると奈央も、妹を庇うようにそれに続いた。


「人にはそれぞれの居場所があるはずです!それが家族のもとでなくちゃならないなんて、そうだとは限りません!」


 自身に重ねるようにして、そう言いきった。困り果てたかのような久遠が、溜め息をつく。


「なら……決めるのは姉さん自身だ、と?」


「そうです!」


 なんとかそこまで話を持ち込んだことで、姉妹の仕事は一旦終了。当然ながら、決断を下すのは紫音本人だ。


「そう言えば、僕もまだ姉さんの口から聞いてなかったもんね。帰るって」


 久遠も納得して、俯く姉を見据える。姉妹と久遠の間に立たされた紫音に、全員の視線が集まる。


「では、姉さん。改めて聞かせてもらいます」


 姉妹が息を飲み、久遠が一段強く微笑んだ。俯いたままの紫音に、ついにその手が伸びる。


「帰りましょう、姉さん。父さんと母さんの元に」


 久遠の右手が、恭しく差し出される。この手を取って、一緒に帰りましょう、と。


「私は……」


「紫音さん、ちゃんと言ってください!あなたがどうしたいのか!」


 私は。私は―――。





『姉さんは、凄いよね。なんでもできちゃうんだ』


『……そんなことないのよ、久遠。私は何もできないから、それを隠すのに精一杯なだけ』


『でも、父さんも母さんも嬉しそうだよ。僕も、あんな風に二人を笑顔にできるかな?』


『できるわよ、私の弟だもの。きっと、私たちで二人を幸せにしてあげましょうね』


『うん!じゃあ僕も頑張るよ。姉さんにも、負けないんだ!』




 私は、どうすれば良い。家出してきた私に、これ以上の我が儘が許されるわけがない。


 償わなくてはならないことも、たくさんある。私を生み育ててくれた人に、謝らなくてはならない。


 織崎家の人間として、私はここにいてはならない。


 ――そうだ、帰らなくちゃ。だって私は。



 手が、伸びる。差し出された久遠の右手に、その指先が、触れて。


「おいおい、ちょっと待てよ。それはまだ早いぞ、紫音さん」


 声が、聞こえた。


 聞きたくて、聞きたくなくて、いつでも私を包んでくれていた。その声が。


 左手に牛乳パックの二本入った買い物袋を持ち、欠伸をしながらゆるりと歩み寄るその影。


 姉妹が心底待ち望んだその影は、紫音と久遠の繋ぎかけた手を、指を断ち切るように、その右手を突き出した。


「だから、ちょっと待ちなさいっての。……聞けよ、俺の話を」


「うそ……?」


「微妙に格好つけたタイミングで現れやがりますね、この男」


「間に合った……良かった……」


 紫音が目を疑い、奈央が皮肉を口にし、後方で小夜が胸を撫で下ろした。


「役者は揃いましたね」


「揃えたんだよ、頑張って」


 日和が愉快げに微笑み、疾風が何故か息を切らして汗を拭う。役者を揃えた者として。


「もう……待ちましたよ、遥人さん!」


「うん、お待たせ」


 真央が喜びのあまり目の前の奈央を抱き締め、影こと遥人が笑顔で答える。


「真央ちゃんもっとくっついて!じゃなくて、どうして遥人さんがここに?」


 奈央が別ベクトルの喜びを爆発させながら、ついでに戸惑い答えを求める。答えたのは、息を切らした疾風だった。


「本宮に遥人の居場所を聞いて、秋隆さんが車で飛ばして一緒に迎えに行った」


 ずっと前を向いていた姉妹や紫音にとっては、驚くべき事実だった。先程からずっと、疾風と秋隆は席を外していたのだ。


「まったく気づきませんでした……。でも、秋隆がまだいないのは何故です?」


「車ぶっ飛ばしすぎて捕まってる」


 ああ、それで遥人さんは歩いて登場したのか。と、奈央は秋隆を心配することなく納得する。


「本宮はなんですぐに俺の居場所がわかったんだ?」


 遥人が小声で問いかけるが、まともな返答は期待していなかった。


「桐原さんの働きも大きいですよ。発見された氷名御さんを一瞬で車に引き摺り込み、車が警官に止められた瞬間に氷名御さんの手を引いて走ったんですから」


「つーかそもそも答えてすらくれねえし!大体お前はここに残ってたのに何で疾風の行動を知ってんだ!」


「やめとけ遥人。諦めろ」


 多くの不条理と矛盾に立ち向かう気持ちの遥人を、その疾風が制した。何を今更、とでも言いたげな様子だ。


「そ、それに、遥人くんに現状を説明したのも疾風くんなんですよ!」


 小夜が緊張気味に久々の台詞を口にした後、疾風が誇らしげに胸を張った。


「小夜ちゃんに状況を聞いて、二秒で要約して五秒で遥人に理解させました。七秒です。褒めろ」


「いや、五秒で理解した俺を褒めろ。そしてお前はその有能性を普段の生活に少しでもいいから活かしてくれ」


 遥人が呆れた様子で溜め息を吐いて、紫音と久遠に向き直る。


「つーことで、初めまして弟さん、氷名御遥人です」


「初めまして、久遠です。あと、君とはタメだよ」


「ああそう?じゃあよろしく、久遠」


「よろしく遥人。ああついでに、姉さんがお世話になったね。ありがとう」


「気にすんな、俺もお世話になったし。つーかなんでそんなに俺のこと知ってんの?」


「気にすんな、大したことじゃないよ」


「つーかお前ら、意気投合すんな!馴染むな!」


 あまりのすんなりっぷりに、疾風でさえ戸惑いを隠せない。何か?打ち合わせでもしたのか?と。


「でさ、本宮。お前今回、根回し良すぎじゃね?」


「さあ、なんのことでしょう?」


 打ち合わせがあったとするならば、こいつしかいないだろう。確信を持つ疾風だが、彼女を責める勇気はない。


「じゃあさ、久遠。俺と紫音さんの関係も知ってるのか?」


「関係?」


 遥人が悪戯っぽく言って見せると、久遠を始め周りの全員が動揺を見せる。


「えっ?ええっ?」


 まず紫音の混乱具合が激しい。何故か頬を赤らめているようだ。


「ちょっ、日和さん?」


「関係って!?私聞いてないです!」


 姉妹の、ことに真央の狼狽ぶりは凄まじい。こんな言い方をされれば、何やらメルヘンな関係を連想するのが当然である。


「私も知りませんよ!?どういうことですか、氷名御さん!」


 日和の金切り声とも怒号とも取れる追及に、遥人は余裕綽々でニヤリと口元を吊り上げる。


「俺と紫音さんは、ご飯を食べさせてあげて、一緒に花火して、相合い傘で下校して、クリスマスも二人で過ごしたりする、そんな関係なんだぜ!」


 …………。


 ああ、うん。まあ、そうだけど。


 一同の肩透かし感は激しい。それこそ何を今更、である。


「ええと、それはつまり……姉さんと遥人は付き合ってるってこと?」


「ああ、いや、そういうんではない」


「有り得ません!」


「くだらないことを言わないでくださいよね!」


 姉妹の否定は本人以上。環を掛けて激しい。むしろ自分自身に言い聞かせるが如くだ。


 久遠がわけわからなそうに首を傾げる。紫音から見ても意味がわからない。完全に謎だ。


「それじゃ、どうしてわざわざそんなことを?」


 当然の問いかけを、遥人は待ちわびたように即答する。


「だから俺にも、紫音さんのこと、弟のお前と対等に話す権利があるだろって、そう言いたかったんだよ」


「……なるほど。納得」


 おお、遥人が、遥人が働いた!クララの起立とか目じゃねえ!と、疾風が親心満点で拳を握る。


 気づきませんでした?ここに来てからの彼、今までとは別人ですよ。と、日和がほくそ笑む。


 そう、彼は変わった。一つの殻を突き破った。だから、今なら言える。


 この状況を、織崎紫音の離別騒動を一様に終息に向かわせる言葉を、その頭で考え、その口から発することが、出来るのだ。


「それでは紫音さん。答えを」


「……答え?」


 唐突に話を戻されたが故に、即座の反応に失敗する紫音。構わず遥人が言葉を繋ぐ。


「あなたの答えですよ。今ここで、久遠の手を取って帰るのか、背を向けてみんなのところに戻るのか」


 それは全部、貴女が決めることです。貴女の選ぶ道です。


「けれど……私は、どうしたら良いのかわからないんです」


 紫音が唇を噛む。決断の下せない自分の情けなさ、無力さを悔いるしかなかったのだ。


 その頭に、大きな掌が置かれた。遥人の手が、優しく彼女の髪を撫でていたのだ。


「どうしたら良いかわからない、か」


「……はい……ごめんなさい」


 弟の目の前でこんな風に撫で撫でしてしまうのはどうなのか。久遠が然り気無く目を逸らしていた。


「いいかい、紫音さん。大切なのは『どうするのか』ではなく『どうしたいか』です。それがどんな我が儘でも、どんな身勝手でも、俺は貴女の意志を全力で尊重します」


「……例えばですよ?例えばそれが、あなたを裏切るものだとしても?」


 上目遣いに見詰められては、遥人になすすべはない。けれど、その答えだけは最初から何一つ変わらないでいた。


「紫音さんが選ぶことを、俺が否定したことがありますか?」


「……ありません。だから不安なんです。あなたは、自分の気持ちを一言だって言わないから」


 痛いところを痛いように突かれた気分だった。けれどそれは、さっきまでの自分にとっての傷跡。


 今の自分にとっては、もう。


「それなら紫音さん。一つだけ、言ってもいいですか?あなたの決断の、参考程度に」


「………?」


 まだ胸は痛む。そりゃそうだ。十六年も続けて来た行き方だから。姉妹やみんなと一緒に存在した行き方だから。


 捨てて行くのは、痛い。


 けれどもう。歯を喰いしばってでも、捨てなくちゃならない。我が儘を、言うんだ。


「ここに残ってください。俺は貴女と一緒にいたい。だから」


 甲斐さん。俺は言うよ。たったの一言だもん。言えるさ、きっと。だから


「行くな、紫音さん」


 彼女の肩を掴み、いっきに抱き寄せる。隣に弟が?周りにみんなが?知るか、そんなもん。


「クリスマスに、約束したじゃないですか。どんなに変わっていっても、一緒にいるって」


 忘れてないよ。今も。忘れられないよ。いつまでだって。


「さあ。ですから紫音さん。答えを」


「……そんな」


 そんな言葉、聞きたくなかった。聞きたくなかったよ、遥人さん。


 迷っちゃうじゃない。断ち切ろうとしたのに。何度も、何度も。何度も。


「……ごめんね、久遠」


「姉さん……泣いてるの?」


 織崎久遠は、きっと本当にいい弟なんだ。つい、また一緒に過ごしたくなるくらいに。


 だって、ごめんねの意味をわかっていながら、それでも何も言わずに涙を拭いてあげられるのだから。


「……ごめんね、久遠。私ね、この人と一緒にいたいの。もっともっと、近づいてみたいの。そうすれば、変われる気がするの」


「そっか、姉さん」


 このタイミングでポケットからハンカチが出てくるというのは、ある意味男のステータスだ。


 遥人は、心中で久遠を讃えて、そっとポケットから手を出した。何も掴まぬままで。


「でも、姉さんはもう、変われてるんじゃないかな」


「……え?」


 だって俺に我が儘を言えたじゃない。そう言って、久遠は彼女の頭を撫でた。俺がしたのと同じように。


「父さんや母さんに迷惑かけないようにって、いつも良い娘でいようとして。あの頃とはもう、違うんだよね」


 そうだ。みんな変わって行くんだ。だからこそ、もう過ぎた日には戻れない。何もかもが、違うから。


「遥人。姉さんはこう言ってる」


「俺もこう言ってるぞ」


「わかってるよ」


 会ってみて、話してみてわかったことがある。こいつはちっとも、特別なんかじゃない。ただ、優しいだけの男だ。


 だから、気持ちは分かる気がした。


「納得、できないんだろ?不安なんだろ?ここに紫音さんを置いてくことが」


「まあ、ね」


 分かるよ。大切な家族だもんな。見ず知らずの場所に一人置いていくなんて、納得できる訳がない。


「時間を、くれないか?」


「……時間?」


「お前も、このアパートに住むんだよ。そんで俺達の生活を知れば、安心して紫音さんを任せてくれると思うんだ」


 突然ぶち上げられた遥人のプランに、空気と化していた住人たちも一様に驚きを見せる。


「真央ちゃん。これ、どう思う?」


「もう勝手にすれば良いと思うな、私は」


 案外投げやりだった。激しく蚊帳の外にされているせいか不機嫌らしい。


「そうだ、ついでに学校も一緒に通おうぜ。出来るよな、本宮」


「出来ますけど……都合の良いときだけ私に頼るその姿勢はいただけません」


 こちらも姉妹以上の蚊帳の外ぶりに不機嫌を隠せない様子。ただ、まさか反撃があるとは予想もしていなかった。


「ほう、いいのかよ、そんなこと言って」


「へ?」


 普段はここで下手に出る遥人の様子がおかしい。日和が自分で言ったことだ。今の遥人は、もう別人だって。


「今回のこと、お前が裏であれこれやってたろ?頼みを聞いてくれないんなら、俺はアレ、一生許さねえから」


「そっ、そんなあ!」


「それが嫌なら頼むよ。久遠も良いだろ?」


 何だか、今日の遥人は強引だ。何かがとり憑きでもしたのかもしれない。なんて、疾風が思っていた。


「けどなあ……期間は?」


「今日が七月一日だから、一ヶ月半後の八月十五日。ちょうど一年前、紫音さんがアパートに来た日だよ」


 この野郎、どうやら最初からこの展開に持ち込むつもりだったらしい。と、疾風は勘繰った。


 最善の策が、こんなにぽんぽんと口をつくはずがない。こいつは最初から、全部考えてからここに来た。


「ほんと、別人みてーだ、あいつ」


「そうでしょう?あの氷名御さんが私に反抗するだなんて……」


 お前は少し反省しろよ、とは言いたくても言えない疾風。何だか遥人に大敗した気分だ。


「けど、それで僕が、君達には任せられないと判断したら?」


「そんときは無理矢理にでも連れて帰れ。あり得ないけどな」


 ヒラヒラと手を横に振る遥人。昨日まで何かにつけて『自分より優秀な奴がいくらでもいるから』とか言ってた人間とは思えない。


(織崎さんは残るみたいですが……結果的には大成功でしたね)


 などと、やはりほくそ笑む日和をよそに、久遠は長い間考え込んでいた。


 決断は、いつだって辛いことだった。けれどいつだって、背中を押してくれる人がいた。


「……お願い、久遠。私の我が儘を聞いて」


 最後の一押しは、いつだって大切な誰かだった。


「―――わかりました。乗ろう、その話」


「よし、そうこなくちゃ」


 指を鳴らして喜んだ遥人が、紫音と久遠を伴って空気たち(もとい住人たち)の方を向いた。


「それじゃ、織崎姉弟。互いに挨拶があるだろ?」


 織崎姉弟と略された二人は目くばせをし、先に紫音が前に出た。まだ少し、瞳が赤らんでいた。けれど、視線は確かに真っ直ぐだ。


「……その、今回の件は本当に、みんなに大きな心配と迷惑をかけました。ごめんなさい」


「謝って済むなら切腹はいらないよね、奈央ちゃん」


「や、そこは許してあげようよ、ね?」


 姉妹がいつものやり取りで対応すると、紫音はほっと一息を吐いた。そのお陰で、言えたことがある。


「私のために、こんなに熱心に動いてくれて、嬉しかった。本当にありがとう。これからも末長く、よろしくお願いします」


 深く頭を下げた紫音。しばらくしてようやく顔を上げたとき、そこには数日ぶりの快心の笑顔があった。


 この瞬間、アパートを騒然とさせた大事件、織崎紫音の離別騒動は幕を降ろした。


 そして。


「織崎久遠です。変な言い方になりますが、しばらくは皆さんを充分に観察させてもらいますので……どうぞよろしくお願いします」


 ニヤリと不敵に微笑んで、久遠がアパートの一員としての第一歩を踏み出した。


 ここから先は、最高級の観察眼に見張られる日々が始まるわけだ。一様に、気を引き締めた。


「それじゃみなさん、ぱーっとやりますか!」


 遥人が買い物袋を掲げ上げ、高らかに宣言する。紫音の残留記念、久遠の入居記念。口実はいくらでもあるのだから。


「ぱーっといこうぜ!……っと、その前に」


「ん?どうした疾風」


 一番乗りでアパートに駆けようとした疾風が、思い出したようにその足を止める。


「二人に挨拶があったように、遥人。お前にも言うべきことがあるんじゃないのか?」


「はっ?」


 疾風が、今季一番の嫌な笑みを浮かべて遥人に追及する。嫌な予感しかしなかった。


「そうですよ。みんなの前で織崎さんをぎゅーっと抱き締めた件について、まだ説明が為されていません」


 すかさず日和が、導火線に火を着ける。すると、不穏な空気を察した小夜が慌て出す。


「あの、えっと、そこはもう水に流してあげましょうよ、ね?」


「そうだそうだ!大体、あの状況じゃ仕方なかっただろ!何を細かいことを言って」


「遥人さん、黙れ」


「はうっ!?」


 真央の快心の一撃が炸裂した。小夜の消火活動も虚しく、導火線の火は爆弾にまで及んでしまったのだ。


「あらあら真央ちゃん。こーんな汚い下衆に人間の言葉はわからないよ。教育には痛みが伴わなくちゃ」


「奈央さん!?ねえちょっと奈央さん!?目がヤバイよ?殺す目だよ?つーかそれ教育じゃなくて調教だろうが!」


 紫音さんだ!もうこの場に置いての味方は紫音さんしかいない!


「早く言ってやってください、遥人さん。俺たちの関係は富士の樹海より深いんだって」


「樹海!?混迷し過ぎだろってかそういう深さは違くねっ!?」


「では素直に婚前の二人であることを公表しましょうか」


「冗談キツいわ!」


「おらおら、謝罪だ謝罪!土下座じゃ土下座ぁ!」


「てめえ疾風!」


「土下座は柔らかすぎですよぅ。私が剣山地獄を用意しますからそれで」


「日和さん!?君はソレ、剣山とかどうやって調達するの?ねえ!」


「同情の余地なしですね」


「奈央ちゃん、私チェーンソーとか使ってみたいな」


「あっ私も使ってみたいです!」


「奈央さんと真央さんはともかくとして、小夜ちゃんはもう落ち着いて!」


 今更人語が通じる相手はこの場所にはいなかった。


 その後、古今東西の拷問機具を携えた女性陣に袋にされたとかされないとか。


 真相は、久遠の観察日記だけが克明に記録していたという。


『七月一日。姉さんと愉快な仲間たち。その中心たる男、氷名御遥人はいかなるものか。明後日あたりから徐々に理解していきたいと思う。……明日は無理だ。彼はズタ袋と化している』


 そしてここに、物語に忘れられた男が一人。


「だからだなあ、人にはどうしても規則を破らねばならないときがあるのだよ!スピード違反?免停?待て待て、私の話を聞いてくれよ、な?」


 いつだって肝心なときには席を外す。そんな悲運の星の元に産まれた、憐れな男についての追記である。


 こんな一日

 そんな日常




 長い騒動が終息し、アパートには新たな住民がやって来ました。


 日々は続きます。その形を少しずつ変えながら。




※作者が二年ぶりくらいのやる気を見せています。今がチャンス!感想、お気に入り登録で責め立てよう!

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