第八十二話 迎え人は久しく遠く
繋ぎの意味しか持たない話。区切りの価値しか持たない話。
真央の計略はそっと始まり、一瞬にして終わりを向かえるのであった。
いつでも素直で
時にはわがままで
案外しぶとくて
それでもまっすぐで
ただ、美しく。
悲しいときには涙を流し
寂しいときには誰かを求め
みんなに未熟者と呼ばれ
気にもされず
理解すらされず
それでも曲がらず
それでも折れず
ただ、まっすぐに生きて行く
私は、そういうものでありたい。
「そういうもので、ありたかったんですけどね」
「半ばで潰えることもまた、夢の一つの在り方というものよ」
氷名御遥人があの墓へと逃げ出したように、織崎紫音はこの喫茶へと逃げ仰せて来た。
ただ一言を聞きたいだけだった。ただ一言を言いたいだけだった。
そうすれば、それだけで私の未練はなくなったかもしれないのに。容易くこの場所を、離れられたかもしれないのに。
「……けれど、店長。私の夢はいつだって、半ばで潰えるばかりです」
「良いじゃない。叶わなければ、夢はいつまでも夢のままであれるもの」
エプロンドレスを見に纏う紫音は、箒を片手に掃除に励みながら俯いた。
悠然と座す女、店主の黒はじっと彼女を見つめている。見納めであるとさえ、思っているから。
「紫音ちゃん。貴女が来てくれて、短い間だったけれど、私は楽しかったわよ」
「……私もです。店長は私に、いろんなことを教えてくれたから」
今度は、互いに俯いた。未来に希望が満ちているわけではない。不安に苛まれないわけがない。
けれど、もしもそんなときにさえ、前を向いていられたら。それだけできっと、強く生きて行けるのに。
「紫音ちゃん。未練だけはね、残したら駄目よ」
未練だらけの気持ちを抱えたまま、紫音は頷いた。いろんなことを教えてもらったけど、それを何一つ活かすことができなんだ。
「未練は、この場所に置いて行きます。心に残しては行きません」
「出来るかしら」
「やります。無理矢理にでも貫いて、押し通します。私は私自身に、嘘を吐いたまま生きて行きます」
「それは幸せかしら」
「幸せですよ。私には、こんなに素晴らしい想い出があるのですから」
箒の柄をぎゅっと握りしめて、どこまでも自分に嘘を吐き続けた。そうやって生きている男の子を知っているから、自分にだってできると思っていた。
知らなかった。嘘を吐き続けて生きることが、こんなにも辛いことだなんて。
知らなかった。あの人はいつだって、こんな苦しみを背負って生きていた。私はあの人のことを、何一つわかってあげられなかった。
わかってあげられないまま、私はここを離れて行く。未練がないわけがなかった。本当はずっと、いつまでもここにいたかった。
「けれどね、それが運命なのよ」
「……わかっています」
「違うわ。それは理解ではない。諦めよ」
私にどうしろと言うのだ。いつだって、流れに抗えもせずに生きてきた。それを運命だと、諦めたまま生きてきた。
「私はただ、流れに身を任せるだけです。今までも、これからも」
例えそれが、どんなに惨めな生き方でも。どんなに愚かな生き方でも。それが諦めるということだから。
「ならば、任せてみせなさい。その身を、この愉快な運命に」
来るわよ。黒が呟いた。
紫音が握った箒を取り落とし、その扉を見つめる。
開くはずのない扉は、しかし必然的に開かれた。大きな流れへと、全てを引き摺り込むために。
「こんにちは、紫音さん」
桃色の髪の少女が、微笑みとともに現れた。黒の喫茶に射し込んだ日差しが、後光のように少女を照らしていた。
「……奈央?」
初めたばかりの呼び捨てで、紫音はその名を口にした。断ち切らねばならない糸の、その太さを思い知った。
「迎えに来ましたよ。みんなでね」
奈央の言葉と共に、見慣れた面々が次々に姿を現す。それはさながら、彼女にとっての走馬灯のようでさえあった。
「秋隆さん、日和ちゃん……真央さん。あなたまで」
秋隆が強張る表情を緩め、日和がニコリと微笑んで呼び掛けに答える。真央だけが、ぷいっとそっぽを向いたままだ。
「俺もいるぞ、おい」
「わっ、私もいます!その、ごめんなさい……」
疾風が忘れるなとばかりに前に出て、小夜が何故か頭を下げている。先程まではたった二人だけだった喫茶店に、総勢六人の客人が押し寄せた形だ。
「店長さん。この女、貰って行きますけど大丈夫ですか?」
真央が小首を傾げて問いかけると、黒は親指をぐっと立てて二つ返事だ。
「待ってたわ。早く連れてきなさい」
「て、店長!?」
ひたすら戸惑うばかりの紫音が、助けを求めるように黒を見つめる。
「せっかく迎えが来たじゃない。行ってきなさい、紫音ちゃん」
「……でも」
「でももだってもないわ。あなた言ったじゃない。自分は流れに身を任せるだけだって」
これは駄目だと悟った紫音は、助けを求める相手が見つからずに、仕方なく奈央の方へと向き合う。
「これはいったい、どういうつもりなんです?」
困った様に目線を泳がせる紫音に、姉妹がはっきりと答えを口にする。
「どうもこうも、ね。奈央ちゃん」
「ね、真央ちゃん」
迷わず、躊躇わず、遠慮さえせずに、その言葉を口にした。
「行かせませんよ、織崎さん」
「……帰りましょう、私たちのアパートに」
ずっと、言って欲しかった言葉があった。あの人に、ただ一言、行くなって言って欲しがった。
夢は叶わなかった。半ばにして潰えた。だけど、それでも。
私には、こんなにも温かい、帰る場所があった。
「みんな……どうして、どうして私なんかに、こんな」
答えたのは秋隆だった。それはもう、何やら申し訳なさそうに頭をかきながらの返答だった。
「困るんですよ、織崎さん。私はまだ、あなたとの協定を果たしてはいない。助けてもらいっぱなしなんですよ」
秋隆が持ち出したのは、以前二人が交わしたあの協定のことだった。
遥人との恋路を手助けする約束をしながら、助けてもらうばかりで何も返せていない。
「このままいなくなられては、私の義に反します。どうか思い留まっていただきたい」
それぞれにそれぞれの理由があることを、紫音は気づいてさえいなかった。自分の中で全て解決して、事が済んだ気になっていた。
「あっ、私はまだバイト先を紹介した分の報酬を貰ってません!」
「わ、私はまだ、ちゃとお話できてすらいません!」
日和と小夜が互いに身勝手な理由をぶち上げる。姉妹は苦笑して、困り果てる紫音を眺めていた。
「おお、そういや俺にも、止める理由があったわ」
「「えっ」」
ぽつりと呟いた疾風に対して、一瞬で視線が集まった。いや、お前はないだろう。適当言うな。といったような視線である。
「ああそうだよ。俺自身としちゃあ、正直どっちだっていい。実家に帰ろうが、ここに残ろうが」
だったらもうお前は黙っとけ!ってえか何でついてきたんだよ!帰れ、お前が実家に帰れ!というような心の声が響き渡る。
「だけどな、めんどくせえ奴がいる」
「……めんどくせえ奴?」
「そう。そいつはさ、言いたいことも言えなくて、すぐに物事を諦めて、そのくせ実はいつまでだって後悔し続けてる、そういう面倒くせえ奴なんだよ」
紫音の戸惑いが、止まった。ただ一人の少年の笑顔が、いつまでも頭の中を巡っている。出逢った日からずっとだ。
「あいつが、遥人の野郎が立ち上がるまで、俺はあんたを行かせるわけにはいかないんだよ。みんなもそうだろう?」
しばらく訪れた沈黙の後に、真央が一歩前に出て口を開く。この場にいるのが不思議とも思える彼女は、しかしこのメンバーをかき集めてきた張本人だ。
「私も同じです。あなたのことは、心底どうでも良いんです。けれど、あの人は優しいから。ミジンコ一匹捨てられないような、そういう人だから」
だから、そうだ。言いたいことは一つなんだ。
「帰りましょう。あのアパートに。みんなといた日々に」
エプロンドレスが、ヒラリと揺れた。
ある晴れた日の午後、アパートに向かい歩く七人の足が地面を鳴らしていた。
思い思いの理由から、ただ一つの目的のもとに集った者たちだった。
彼らはもう、勝ったつもりでいた。少女に『ここにいたい』と言わせもしないまま、目的が果たされたと勘違いしていた。
だから、運命だった。その場所に、彼はいた。
「さあさあ、見えて来ましたよ。我らが我らのアパートが」
日和が陽気に声を上げ、いや俺達は住人じゃねえだろ、と疾風が突っ込みを入れる。そんな光景。
けれど、日和は知っていた。ほんとは全部しっていた。当然だ。彼女は本宮日和なのだから。
そこに、彼が待っていることを、ずっとずっと前から、ただ知っていた。
「あれ?誰かが、アパートの前に……」
鮮やかな緑が揺れる。心と共に、揺れる、揺れる。
『迎えに行きます』と、約束したから。彼の人は謀ったかのようにその場所に現れ、わかったかのように微笑んでいた。
「……あれは、誰です?」
奈央がみんなを見回して答えを探すが、誰しも首を傾げるばかり。ただ一人を除いては、みんな。
不意に、隣を歩いていたはずの紫音が走り出した。奈央は反射的に止めようとして手を伸ばすが、紫音の背中を指先が掠めただけだった。
「紫音さん?ねえ、どうして?」
どうしてあなたは、アパートに向かって走り出しているのに。
どうして、まるでどこか遠くへ行ってしまうようなの?
ねえ。その人は誰?アパートの前に佇む、その緑髪の男の子は、いったい。
どうして彼が、あなたに微笑みかけたの?どうしてあなたが、彼の前に立ち止まるの?
ねえ、君は、誰?
「久しぶりだね。姉さん」
空気を通して、少年の澄んだ声が響き渡る。六人がアパートの前に辿り着いたそのときに、もう終わりは始まっていたのだ。
「紫音さん!その人は、まさか……」
「―――久しぶりね、久遠」
流れるような緑髪。端正な顔立ちに、柔らかい微笑み。少年は辺りをゆるりと見渡して、それから躊躇いもせずに、口を開いた。
「こんにちは、そして初めまして」
ペコリと下げられた頭が上がる前に、秋隆が問いかけた。いつかの記憶と照らし合わせながら、一つの確信を持って。
「君は、あのときの……」
「ええ、あのときの。僕は織崎久遠。織崎紫音の弟です」
澄み切った瞳で秋隆を見据え、それから他の一人一人に一瞥を与えていく。あくまで柔らかく、気品に満ちた視線が巡る。
「何をしに来たんです?」
日和が、予定調和よろしく悠然と問いかける。答えはもう、みんな知っていた。
けれど、誰もそれを、聞きたいとは思えなかった。
「姉を、迎えに上がりました」
それだけでもう、野望は潰えていた。
こんな一日
そんな日常
次回、ようやく騒動は一端の終わりを向かえます。
人はそれを、決断の先伸ばしと呼ぶ!