第八十一話 捨てたもの、拾ったもの
三ヶ月ぶり……でしょうか。スタンダードですね。実にスタンダードです。
そして内容は番外編ではなく本編となります。これは本当に何ヵ月ぶりやら。
さあ、読みましょうか、ね?
合わせた掌、交わした指先、願いの価値。産み出すのは誰か。産み落としたのは誰か。
閉ざした瞳、唱える唇。すがる想いで垂れた頭は、きっといつか前を向く。
だから、それまでは、どうか。
「珍しいな、おい」
背後から聞こえた声は予想に違わない。どこまでも想定通り。つまらない日々の一欠片。
「ああ、どうも」
アパートから飛び出した少年に行くあてはなく、ふらふらとさ迷う時間が続いていた。
そんなときに辿り着いた場所は、必然的にというべきか、あの墓場だった。
―――情けないな、俺。もう何度、そんなことを考えたかわからない。わからない癖に、ここに来た。
紫音さんがいなくなる。考えただけで、どうしようもなく苦しかった。
なのに俺は笑って、誤魔化して、姉妹の前でさえ仮面を被り続けた。
これで何度目だ。何度同じことを繰り返せば気が済むんだ、俺は。
家族になりたかったんだろうが。独りは嫌なんだろうが。偽りたくないんだろうが。このままじゃ駄目なんだろうが。
逃げ出して来て何が変わる?ここでこうやって手を合わせて、無様な姿を晒しながら父さんと母さんに祈ったところで、何も変わりはしないのに。
どうしてここに来た?慰めて欲しがったのか。怖かったのか。偽り続ける自分が怖かったのか。
現状に慢心し、逃げてばかりの自分を、無理矢理にでも肯定するつもりなのだろうか。
だとしたらそれは、あまりにも情けない。
『それを家族だって言うなら、上っ面だけの関係で満足すんじゃねえぞ』
ふと、初めてこの場所に墓参りに来た日のことを思い出す。
そうだ。あのとき俺は、確かに言った。あの男に向かって、確かに姉妹や紫音さんのことを『新しい家族』だと言った。
ああ、そうだ。あの男は絶体に来る。俺の惨めな逃走劇を見透かしたかのように、必ずこの場所にやって来る。
そして、こんな風に言うんだ。あの日と同じように、今も。
『珍しいな、おい』
『―――ああ、どうも』
「元気なさそうで何よりだよ、遥人」
「あんたもな、甲斐さん」
俺が心のどこかで待っていたその男は、当然のように背後に現れた。煙草の匂いが、鼻先を掠める。
「相変わらず、滅多に墓参りにも来ないようだな。この親不孝息子め」
「甲斐さんと遭わないだけですよ。ちゃんと毎週土曜日の午前中に通ってます」
あの元旦の日からできた新たな日課だった。それ以来半年が経ったが、一度も忘れたことはない。
「ん?今日は水曜日なんだが」
「……学校休みだったんですよ」
「へえ」
いちいち癪に障る言い方をするおっさんだった。いや、単に全部見透かされてるだけなのかもしれないけど。
「で、今日は何を祈ってたんだ?」
「当然、父さんと母さんが心安らかでありますように、って」
「へえ」
だから、なんで質問してきた癖に返答に対するリアクションが薄いんだよ!へえはねえだろ、へえは!二文字だぞ二文字!
「そんな顔して、心安らかに眠ってくださいってか?馬鹿にしてやがる」
「……顔、見えもしねえくせに」
一度も振り返ってないんだから、未だに顔を付き合わせていないのに。背を向けたままの俺の、何がわかるっていうんだ。
「わかるさ。背中が小せえんだよ。あいつもそうだった」
お前の親父も、思い悩んでるときはそうだった。しみじみとそんなことを言って、甲斐さんは側の石垣に腰を下ろした。
「いつまでそんな顔を墓前に晒しておくつもりだ?」
「構わないでしょう。子供が無様な姿を晒すのは、親の前だけであるのが自然です」
至極真っ当そうな反論をしてはみたけど、なんて言われるかは分かっていた。
それを言われたら自分は何も言い返せないって、分かっていた。それでもまだ、振り返れなかった。
「でもよ、あいつら悲しむぜ。息子のそんな顔見たらよ」
沈黙を保ったまま、口許を固く引き締める。そうしていなくては、何かが崩れ落ちてしまいそうだったから。
「……この馬鹿野郎が。分かってんだよ、俺は全部」
「全部って何です?まさか俺が落ち込んでるとでも?そんなの分かんないはずです。もし分かったとしたって、その原因たるや甲斐さんには皆目検討もつかないことで―――」
「織崎紫音のことは、諦めるのか?」
「………なんで」
なんでこうも、どいつもこいつも、隠し通させてくれないんだ。俺は、心配なんかされたくないのに。
「あの女をアパートにぶち込んだのは俺だぞ。後日退去する旨は、伝わって来てるよ」
もうそんなところまで話が進んでいるらしい。当然だろう。こればっかりは、『どうしようもないこと』なのだから。
「それで、退去の期日は?」
「わからん。迎えの者が現れ次第ってことらしい」
迎えが来るのか。そうだよな。あの人は帰るべきところに帰るんだから。あのアパートとの縁を断ち切るのだから。
そのために、彼女を迎える人がいていいはずだ。そうでなくてはならない。
「それで、てめえは言ったのかよ?」
「……何をです?」
ハァ、と呆れたように溜め息を吐いた甲斐さんが、突然立ち上がって近づいてくる。
「おい、こっち向けよ馬鹿野郎」
墓石と向き合ったたままの俺の肩を掴むと、乱暴に自分の方へと向き合わせる。そして、胸ぐらを掴み捻り上げる。
「行くなって、ちゃんと言ったのかよ!お前は!」
初めて見る表情だった。甲斐さんは今、おそらく本気で怒っていた。俺に向かって、本気で怒声を飛ばしていた。
久しぶりだった。俺に本気で怒ってくれる大人なんて、この先現れないと思っていたのに。
「てめえはいつもそうだ!言いたいことがある癖に、どうしても譲れないもんがある癖に、それが相手のためなら平気で捨てやがる!てめえ自身を捨ててんだよ、お前は!」
初めてだった。こんなに悲しそうに、辛そうに怒ってくれる人を見るのは。俺はその瞳を、逸らさぬように見つめていた。
「どうしてだ!?てめえに幸せになって欲しい奴は山ほどいるのに、てめえがてめえを棄てるから、そいつらの願いはいつまで経っても叶わねえ!」
「どうしてだ!てめえが本音を言わねえから、てめえの願いを叶えてやりたい奴らが、何もできねえ!」
「てめえが仮面を捨てられねえから、いつまで経っても家族になれねえ!」
それはもう、ほとんど叫びだった。みんなが俺に言えないことを、代わりに全部言うつもりなのか。
「お前は考えたことがあるのか?お前が自分を棄てるってことは、同時にお前の幸せを願う奴の気持ちも棄ててるってことを」
「考えたことがあるのか。てめえが本音を偽る度に、傷を負ってる奴がいることを」
それは懐かしい経験だった。幼い頃は、こうやって俺を全力で叱ってくれる人が何人もいた。
父さんや母さん。それだけじゃない。草壁冬介や、ときには疾風でさえも。
みんなが間違いを正してくれたから、俺は曲がらずに生きて来られた。それがいつからだ?
「昔のお前は、凡人の癖に優秀だった。何処までも普通のガキだった癖に、物分かりだけは異常に良い変な奴だった」
「物分かりだけは良いから、てめえが凡人なのもすぐに理解して、そのためにしなくちゃならないことをちゃんと見据えていた」
「そのためにしなくちゃならない努力をすぐに実行して、決して向上心を捨てない真っ直ぐなガキだった」
それが、いつからだ。いつから俺は、こんな風になってしまった。
努力しても届かないものがあると知って、悟ったふりして諦めて、何度も自分を捨てて来た。
大切な人の幸せだけは諦めたくないから、代りにに自分を犠牲にすることにした。それが凡人に残された唯一の方法だと勘違いしていた。
何が、自分より想ってくれる人がいるばず……自分より幸せにできる人がいるはず……そうやって何度諦めて来た。
それで俺を認めてくれた人がいる。だけどそれは間違ってるんだ。
考えろ。俺が今、やらなきゃならないことは、何だ。考えろ。
「我が儘を、言えよ」
「……え?」
今まで怒声を飛ばしていたのが嘘のように、甲斐さんはそっと呟いた。
胸ぐらを掴んでいた手を離して、俺に背を向けた。煙草に火を着けて、歩き去りながら、言った。
「我が儘を言えよ。ずっと言えなかったことを……ずっと捨ててきたもんを、拾えよ」
ふう、と息を吐くと、白煙が中を舞う。鼻先に蔓延る煙草の匂いが、徐々に剥がれて行く。
「お前らガキには、その権利があんだよ」
そう言い残して、甲斐さんは去って言った。遠ざかる背中は小さくなっていくはずなのに、その日の俺にはいつまでも大きく見えていた。
「我が儘……か」
物分かりが良すぎる子供だった。親を困らせることさえできないガキだった。
ずっと封印してきた我が儘を、今更言えるだろうか。親にさえ言えなかったものを、他人である彼女に。
いや、違う。
「紫音さんは、家族だ」
だから、言わなくちゃ。その一言を、言わなくちゃ。
「父さん、母さん、情けないところを見せてごめんなさい。けど俺、もうあんな顔見せねえから」
今度こそ、本当の意味で墓前に向き合った。強い気持ちで、目を閉じた。
いっぱい泣いたし、弱音も吐いた。あの世に逝ってもなお、父さんや母さんにはたくさん迷惑をかけた。
「だから、これからは親孝行をさせてください。自分なりの、親孝行を」
俺は必ず、幸せになるから。だからどうか、待っていてください。
もう、俺の幸せを願ってくれる人達を、自分の願いと一緒に捨てたりはしません。
気づくことが、できたので。
『今日は、泣かないのね』
声が聞こえた気がした。それはどこか懐かしい、俺を抱き締めてくれた人の声だったと思う。
「泣かないよ。もうあの日とは、違うから」
『そう』
「うん。だから―――ありがとう」
背を向ける。もう振り返らない。今度こそ、俺はやるから。
「一度、もう一度だけ、言ってみたかったんだよね」
一人言を、呟く。けれどそれは、決して独りの言葉じゃなかった。
「行ってきます」
『―――行ってらっしゃい、遥人』
雲一つない空が、少しだけ微笑んだ気がした。
こんな一日
そんな日常
『迎えに来たよ』
『貴女の居場所はここじゃないでしょう』
『終わりにしましょう。全部』
『帰ろう?―――姉さん』
次回に、続く!?