第八十話 歩くような速さで
某ゲームサブタイトルより引用の
『第八十話 歩くような速さで』
少年に芽生えた親心、または兄心の話。
とてもやっかいな思考回路に悩まされる、友人の話。
けれど。
もしもそれが、彼女にとっての全てだとしたら?
至福に至福を重ねたひとときの中で、彼は微かに未来を危惧した。
そして、腕の中に収まるいたいけな少女を見やり、強く慈しみ、丁寧にその額を撫でる。
柔らかい肌に抵抗の気概はなく、むしろ、触れた自分の手が彼女を汚しているかのような、そんな不安を覚えた。
けれど、少女は口元を緩めた。深い眠りの中にあって、それでも彼の存在を感じているみたいに。
微笑んだ。触れた掌を肯定するが如く。だから少年は、氷名御遥人は少しだけ安心して。
それから、もう一度、抱えた欠落を口にする。
「ああ、うん……やっぱり『このまま』じゃ、駄目だね」
それは、自分自身への確認事項らしかった。
「だいたい、最初からわかってはいたことなんだ」
「はあ?」
とある平日の昼飯時。一介の高校生である遥人が、当然の如く学校の教室で昼休みを迎えていたそのときだった。
「いや、なんか突然思い出したんだよ。大事なこと」
「……へえ?」
ふと脳裏に浮かんだ昨日の光景が、弁当に夢中だった遥人に一つの使命を与えたらしいのである。
そんなわけで、唐突な語り出しではあったものの、彼の一論は向かいの席の桐原疾風によって聞かれることになった。
「まあ話してみろよ。おまえのちんけな悩みくらい、俺が刹那の間に解決してやるからさ」
「いや、アホの疾風さん如きに解決されたら終わりだわ、マジで」
すかさず飛び交う拳。それを箸で受け止めてみせた遥人は、神妙な面持ちを象り話を始める。
「気づいたのはさ、昨日だったんだよ」
「ああおまえ、すげえな。人をアホの疾風さん呼ばわりしといて、反撃する間さえ与えずにてめーの話を始めちゃいますか、なあ」
「だってほら、ダルいし」
「……俺との漫談をダルいと一蹴するとは、おまえも随分冷たくなったな」
「他に構うもんができたからな」
何処か寂しそうに遠くの空を見つめる疾風をよそに、遥人が考えていたのは誰のことだったのか。
答えを、疾風は労することもなく、ただ最初からわかっていた。
「姉妹の……ことに今言いたいのは、真央ちゃんのことか?」
「気持ち悪っ」
なんかもう、意思疎通が磐石すぎて、いっそ気持ち悪い。
こんなに簡単に言い当てられては、疾風の前にプライベートを破壊されたような気にさえなるというものだ。
まあそれも、疾風が真央さんのことを相談するに値する人間であるという証なのかもしれない。
とにかく察しが良く頭が切れるのは確かだし、素直に相談してみよう。などと決意して、遥人は話を続ける。
「昨日も、真央さんと俺は同じベッドで寝てたわけなんだが」
「そっか死ね。それで?」
臆すことなく隠すことなく、極めて素直で実直な嫉妬の念に駆られたものの、話を中断するのは面倒なので先を促したようだ。
それも、お互いが解りあっていることの一つの証左なのかもしれない。
「俺の左腕は、そんなときいつも抱き枕になる」
「もがれろ。隻腕とかになれ、頼むから」
それから遥人は、どんどん険しくなる疾風の表情に気付きさえしないまま、異様に甘い真央との日々の馴れ初めを語り始める。
「朝は、エプロン姿で起こしてくれるし。味噌汁も作ってくれる」
おまえの家の習慣なんざ聞きたくもねえと、疾風は弁当の沢庵をぽりぽりかじりながら明後日の方向を見やる。
……日和と目があった。興味を示したらしい。そのうち近づいてくるだろう。
「学校に向かうときは玄関の外まで見送りしてくれるし……いってらっしゃいのアレとかせがまれるし」
とりあえず机を叩く、叩く、叩く。この不条理に溢れた世界の構造を憎み妬み叩く叩く叩く。
日和がこちらを凝視している。不可解な行動に警戒したのか、近づくのを躊躇っているようだ。
「学校では授業の合間合間に必ずメールが来るな。ほら、今も」
ストラップなんぞ付けたこともない遥人の携帯が開かれ、メール画面が月島真央を表示している。
『それで、今日は早く帰って来れますか?』
うんざりしながら画面を見て、倍近くうんざりし直してから、右手で両目を覆う。
……何処の新妻だ、こりゃあ。
「それで、俺は出来る限りの早さで帰宅する」
「最近付き合いが悪いのはこのせいか」
「桐原さんと私、どっちが大切ですか?って真顔で聞かれたんだ」
まんざらでもなさそうに言ってるのがむかつくのだが、同じ質問をされて野郎を選ぶわけはない。
ただ問題は、最近氷名御家にお邪魔したときの真央ちゃんの態度があからさまに冷たかったりすることである。
……夫に付きまとう悪友扱いかよ、俺は。
「帰ると、つーか下校してると、アパートから結構離れたところで待っててくれる」
「そこから一緒に帰宅か」
献身的ってレベルじゃねえぞ!つーかこの分だと、奈央ちゃんは一緒にいても全く構ってもらえないのかもしれない。
俺が構ってやろうか……いやいや。
「そういえば、うちに帰ると奈央さんがものすげえ睨んでくるんだよな。なんか涙目で」
「案の定じゃねえか。構ったれよ」
「や、俺は全力で構ってあげてるけど」
帰宅後の遥人が奈央ちゃんを構う→真央ちゃんが不機嫌に→奈央ちゃんに冷たくする―――という方程式が成り立ってそうで、余計に不安な気がするが。
そういえば、日和は一向に近づいてこない。……良く見れば、遠くからこちらを窺っている。
イヤホンをつけているようだ。まあ、十中八九盗聴されているのだろう。遥人のワイシャツの襟元辺りが怪しい。
「日が落ちた頃になると、夕飯にしますか?お風呂にしますか?それとも……なんて聞かれたり」
「寝ろ」
「※ただし、どれに際しても私がついていきます―――とも言ってるな」
「風呂はまずいだろ、風呂は!」
つーか俺は知らねえぞ。こんな話を聞いた日和が後で何をしでかそうとも、俺は知らんぞ。ほら、なんか遠くで不敵に笑ってるし。
「風呂はねえよ、流石に。奈央さんが亡霊みてえな顔でこっちを覗き見てるし」
そりゃあ呪い殺したくて仕方ないんだろ。俺でさえそう思うんだから。
「で、夕飯は時間的にも余裕があるから……その、『あーん』とかしてもらえるし」
「奈央ちゃんに喉を潰されそうになったことは」
「毎日だよ。日課だな」
試しに喉を箸で射抜いてみる。……寸前で交わされた挙げ句、その隙に唐揚げを奪われた。
氷名御家の食卓は修羅場のようだ。
「最後に、真央さんと二人で食器を洗って、一緒に床につく」
「あくまで奈央ちゃんをのけ者にしてるあたり、徹底してるよな」
そんな感想を述べたところで、ちょうど互いの弁当が空になる。
どちらともなく手を合わせて、一礼。箸をしまい、弁当箱を包みに戻す。
不意に、遥人が問うた。
「それで、この一日についてどう思う?」
「ああ、もう良妻以外の何者でもないな」
素直に、半ば呆れ気味に、疾風は答える。問題があるとすれば、奈央ちゃんが『新婚生活に邪魔な義姉』みたいになってるのが気がかりなくらいか。
……本人、相当肩身の狭さを感じてんだろうなぁ。
「や、そういう感想じゃなくてさ」
「なんだ、もっと赤裸々な恨み妬みを聞きたかったのか、ああ?」
「……いや、えっと、ごめんなさい」
こっちは至福の昼休みに下らないのろけ話を聞かされて不愉快極まりない立場である。
いくら心の友の悩みとはいえ、話の導入部分でこんなことを聞かされてはフラストレーションも募るというものだ。
「で、聞きたいのはどんな感想なんだ?」
ここで見放さないのが友人としての義務であり、誇りなのである。それが、どれだけ面倒なことであっても。
「今の話の真央さんに焦点を当て、なにか重大な『危機感』を覚えないかと、聞きたい」
遥人は、思いの外神妙な様子だ。つまりそれは、あいつ自身が真央ちゃんの様子を危惧している証拠。
「俺は、強い依存性以外の不安は感じないな」
敢えての言い回しに、遥人の口元が引きつるのを視認する。この言葉の示す意味が、伝わり過ぎるくらいに伝わった証だ。
「……そうだよな。正味な話、真央さんの強い依存癖については、今に始まったことじゃない」
「だからといって、今更語るべきではない、なんて単純な話ではないんだろうけどな」
「いちいちのフォロー、ご苦労さん」
「まあな」
ただ、今更それに危機感を覚えたことは、やはり大きな疑問だ。
もっと言うなら、それを今感じるのはおかしいとさえ思う。二人が出会った当時なら、いざ知らずであっても。
「真央ちゃんは、良い娘なよな」
「ああ。人懐っこいし、純粋だし、何より毎日成長しているのが見て取れる。本当に、自分の娘か妹かを見てるようで、幸せだよ」
こんなにあっさりと、素直過ぎるくらいに幸せだと言えてしまうこと。それは多分、この凡人が何故か人を引き寄せてしまうことの遠因だろう。
羨ましい。けれど、実はそれすらも、人にとっては大きな欠陥に成りえてしまうのだ。
「真央さんは、本当に成長したよ。気が利くようになったし、立ち振舞いも幼いだけのものから変化している」
「それなら、どうして甘えんぼなのを『ご愛嬌』くらいに思えないのかねぇ。完璧なのは、むしろ可愛かないと思うが」
もちろん、出会って間もなかったころの穴だらけの彼女なら、依存癖を治すべきと思うのも当然。
ただ、今の彼女は、その依存癖以外の穴をことごとく塞いできているのだ。
その努力を、成果を、認められない遥人ではないだろう。むしろ、誉めて称えて、溺愛するのがらしい行動である。
だって、遥人という男の好みは、何を隠そう『努力する人』なのだから。
辛いことに耐え、目的の為に欲を禁じ、日々努力を惜しまない。そんな姿は、遥人にとって惚れるに値するもの。
そんなことは、長く深い付き合いを自負する者として、わからないはずがない。
「だから、おかしいだろ。おまえが彼女の努力を否定して、今更たった一つの欠陥を掘り返すなんて、らしくねえよ」
「そんなこと、わかってるさ。こんな考え方は、俺らしくなんかない」
なら、どうして?そう問いかけるより先に、遥人は口を開いていた。そうせずにはいられなかったのだろう。
「けどな、あの娘は俺のもんじゃないって、俺のとこに留めておいちゃいけないって。そう思うんだよ、最近は」
アホか、とうっかり叫びそうになる。悪い癖が治らないのは、欠落がいつまでも埋まらないのは、この男の方だと確信した。
「そんなわけ、あるかよ」
「あるよ。最近気づいた、あの娘は本当にいい娘だ。才能もあるし努力も出来る。だから絶対に幸せになれるし、その権利がある」
だから、俺なんかのところにいちゃいけない。
「いつか、彼女を本気で想ってくれる人に出会う。本気で幸せにしてくれる人に出逢う」
それは、おまえじゃないのかよ?
「そのためには、現状で満足しても仕方ない。今のままでも、俺は本当にあの娘が大好きだ。けど、あの娘はもっと成長できるはずだし、もっと幸せになれるはずだ」
だからか?
うん、だからだ。
「だから、おまえに聞きたい。彼女に残されたただ一つの欠陥は、排除するべきものじゃないかと、そう聞きたいんだ」
捲し立てるように言い切って、遥人はようやく肩の力を抜いた。そして、こちらを不安げに見つめた。
不安なら、聞くなよ。こんなこと。
「それは、下らないな。あまりに下らない『親心』だよ」
「……親心?」
首を傾げた遥人。その首根っこを掴んで、少し乱暴に左右に揺らしながら、俺は答えた。
「ああ、親心だ。自分の娘が本当に優秀だって気づいて、だったら誰よりも幸せになって欲しいから、甘えさえ捨てさせて完璧に育てようって。そんな風に考えるごく自然な親心だ」
親の気持ちなんて一度だってわかってやれずに、迷惑ばかりかけている。そんな平凡なくそガキの自分が、こんなことを言っていいのかはわからないけど。
それでも、間違ってると思ったから、言おう。
「お父さん大好き。私お父さんと結婚するの!なんて言われて、甘えられて、本気で嬉しいくせに、それさえも否定する、馬鹿な親心だよ、そりゃあ」
自分より幸せにできる人がいるはず?自分より彼女を想ってくれる人がいるはず?
だから、そんな人に出逢うためなら、自分ごときで満足はさせられないと。自分を好いてくれる気持ちさえ、それを甘えだと。
「そんなのは、間違ってんだよ馬鹿野郎」
自分でも思う。なんでこんなに熱くなってんだって思う。けど、止めるわけにはいかなかった。
真央ちゃんの気持ちを知ってるから。遥人が真央ちゃんを大切に想ってるのだって知ってるから。
止まるわけには、いかない。
「真央ちゃんが、おまえを好いてくれてんなら、いいじゃねえか。おまえが誰よりもあの娘を幸せにしてみせろよ」
「おまえが真央ちゃんの甘えんぼなとこも大好きなら、いいじゃねえか。そのままの彼女を幸せにしてやれよ」
こいつの悪い癖だ。自分のことを過小評価し過ぎるから、簡単に自分を捨てる。
自分の好きな人には誰よりも幸せになって欲しいから、自分より有能な人間を探す。
馬鹿だ。本当に馬鹿なんだ、こいつ。
「あの娘のおまえを想う気持ちを、踏みにじるな。おまえに好いてもらおうって、そのための必死の努力を否定するな」
いい娘じゃないか。純粋で、一途で。おまえみたいなひねくれ者だって、彼女と一緒にいれたらきっと、幸せだろ。
「……とまあ、捲し立ててはみたものの」
「ちょっと熱くなりすぎましたってか?」
「まあ、がらにもなくな」
恥ずかし!なんだこれ、こんなの俺じゃねえ。俺はこう、もっとクールなキャラだったろうが!
えっ、それはない?
少なくとも、こんなキャラではなかっただろ。
「でも、流石と言うべきかな。参考にはなったよ」
「参考じゃなくて指針にしやがれ。真央ちゃんが可哀想だろうが、マジで」
「……そうだよなぁ」
いくらこいつがアホとは言え、真央ちゃんにどう思われてるかくらいは気づいてるはずだ。
だから、それに答える術だって、ちゃんとわかってるはず。
「まあ、そうだよな。ここまで家族として依存されてる以上、最早嫁にやらない勢いで溺愛するべきか」
「はっ?」
雲行きが、怪しくないか?
「いやさ、いつかは嫁に出さなくちゃいけないから、あんまり甘えさせるのも良くないと思ったんだけど」
「本気で父親気取りだったのかよ!?」
「いや、気分的には兄気取りだな」
「どっちでもいいわ!」
ああ、なんかこう、忘れてたわ。お約束というべきか、こいつは物凄く鈍感なんだ。
つーか、ずれてるんだよな。感性が。
「お父さん大好き、結婚する!って気持ちでいてくれるんなら、嫁に出さなきゃいいんだよな。単純に」
「単純か、それ」
「まあ世の中にシスコンの兄くらい五万といるし(現にシスコンの姉が身近にいるし)問題ないよな!」
「いや、問題だらけだからな!真央ちゃんの気持ち的に問題だらけだからな!」
はいっ、こいつ、馬鹿!
恋心を家族愛と勘違いして離さない馬鹿なの、こいつは!
見ろ、盗聴中の日和さんも呆れとるわ!……いや、なんか逆に、ほっとしてないか、あいつ。
ごめんよ、真央ちゃん。俺にはこいつ、変えられそうにないわ。
「よし、そうと決まれば、今日から風呂も一緒だな、うん!」
「ってアホかああああ!」
「いやでも、家族だし……?」
「そうであってもだ、考えろ!」
「むぅ……難しいなぁ、家族愛も」
もっと難しいものが俺の目の前に転がってるのだが。こいつの脳は本当にどうなってやがるんだか。
しかしまあ、仕方ねえよな、こりゃあ。
どいつもこいつも、こんなアホに惚れちゃった時点で苦労しないわけがねえもん。
「ま、頑張ってくれよ。俺も見てるからさ。遠くから」
「……なんでそれを、わざわざ私に言いますかね?」
遥人の元からそっと離れると、傍観者を演じる日和の肩を叩く。
そして、さりげなく真の傍観者としての立場を確固たるものとしながら、自販機へと向かう。
背後で顔を真っ赤にした日和がギャーギャー喚いているものの、気にはならない。
気になることと言えば。
「俺も、妹は嫁に出さないようにしなきゃな」
もちろん、ギャ○ゲーの話なのは言うまでもなく。
傍観者の少年は、それでもなお不可侵のまま、歩みを進めた。
きっと、こんな風に、物語も変わって行く。
例えば、そんな風に。ゆるり、ゆるりと。
『第八十話 歩くような速さで』完
こんな一日
そんな日常