第七十九話 もう、行かなくちゃ
残した傷痕は消えない。それぞれの場所まで。
その日は、少しだけ熱があった。そして、小さな約束もあった。
少年こと遥人は、そんなときでも極めて『いつも通り』に笑っていた。
だって彼には、最初から取捨選択なんて存在しなかったから。
最初から、約束を放り出そうだなんて、考えることさえできなかったから。
だから、いつも通りに笑って、いつも通りに彼女を欺いて、何事もなかったかのように約束を果たした。
結局、それが間違いだったのかもしれない。
「醤油は?」
「……買いました」
「キャベツは?」
「……ちょっと高かったので」
「じゃあ、卵は?」
「……お一人様ひとパック限りでしたので」
「ああ、そう」
スーパーからの帰り道、彼と彼女は肩を並べて歩みを進めていた。
「紫音さん、袋。片方持ちますよ?」
「……いいえ。お構い無く」
あっさりと断られ、少年は頬を掻いた。よく思い出してみれば、この人も随分変わったものだ。
「初めて会ったときは、部屋まで運ばせましたよね。レトルトカレー」
「……昔の話です」
「そうかなー」
「……そうです。第一、そんな真っ赤な顔をした人に荷物なんか渡せません」
「うっ」
気づかれはしないと思っていた。気づけやしないと思っていた。俺はこの人をなめていた。
織崎紫音をなめていた。そして同時に、自分の演技力なんかを過信していたのかもしれない。
「……帰ったらお粥作りますから、さっさと食べて寝てください」
「いや、それこそお構い無く……てか、もしかして卵を二パック買ったのって」
「……卵粥の方が、きっと美味しいです」
俺は彼女の根回しの良さに少しだけ驚いて、なんだか恥ずかしくて、俯いた。
いや、俯いたのは紫音さんが顔を赤らめていて、それを見られたくさそうな様子だったからだけど。
「顔赤いけど、紫音さんも熱?」
試すように、もてあそぶように問いかけると、彼女は一瞬歩みを止めて、それからまた何事もなかったかのように歩みを始めた。
「……熱なんかありません。けど、やっぱりこれは、あらゆる意味であなたのせいです」
「……?」
俺が熱を移してしまったのか?や、でも熱はないって言ってるし。ちょっと意味がわかんないな。
「……広義では、間違っていませんね。あなたに熱を移されたというのも」
「やっぱ調子悪いの?」
「……だから、そうではありませんが」
変な紫音さんだなあと思いながら、少しだけ視界が歪んで来ているのを感じた。
頭が熱い、体が重い。それになんだか、目の前の信号機が分身して三つくらいに見える。
「あれ、紫音さん阿修羅みたいになってません?」
「……幻覚です。私の顔は一つですし、腕だってたったの二本だけです」
そんなに呆れたような口調で答えないで欲しいのだが。あと、どう見ても紫音さんが阿修羅なのだが。
こりゃあ、想像以上に熱が高いのかもしれない。そう思って気が遠くなったところで、ついに視界が暗転した。
「おっと」
袋、持たなくて良かったな。親切のはずでも、こんな風に倒れてたんじゃ、卵を割ってしまうから。
「……大丈夫ですか?アパートまでもう少しですが」
「大丈夫です。そうでなくちゃ、最初からアパートで寝てましたよ」
紫音さんに支えられてようやく立ち上がるという無様な状態ながら、それでも俺は笑ってみせたのだと思う。
だから、彼女は言った。
「……それは、嘘です」
「は?」
「あなたは、こんな小さな約束でさえ破れなかった。それだけのことです」
見ると彼女は、下唇を噛んでこちらを見つめていた。悔しい、とでも感じているみたいだった。
「どうして、紫音さんがそんな顔するんですか」
「……悔しいからです」
ほぼ無表情なくせに、それでも本当に悔しさを噛み殺すようにして、彼女は視線を沈めた。
「俺が、嘘を吐くから?」
「……違います」
違うらしい。というか、おまえの嘘くらい慣れてんだよとでも言いたげな口調だったような気がするのだが。
「……野菜売り場でトマトを見るまで、あなたの体調に気付けなかったから」
気付くことができずに、約束通り買い物に付き合わせてしまったことが悔しいのだと、彼女は言った。
俺は、紫音さんを悲しませてしまった自分の演技力の低さを呪った。
「つーかちょっと待て。俺の顔は赤いとまるでトマトみたいだと、そう言いたいのかそれは」
「……そんな。トマトは変に強がりませんし、平気で嘘を吐いたりもしません」
やはり、彼女を欺いたこと自体は根に持っているらしかった。当然ながら、やはり嘘は吐かない方がいい。
けれども俺は、やっぱりそれが当たり前であるみたいに、嘘を吐いたことより嘘を見破られたことを反省した。
約束を破るのは、良くない。だから、嘘を吐いて欺いて、約束を果たすために彼女と歩いた。
けれど、嘘が嘘だとばれたなら、それは約束を破るよりも悪いことなんだと思う。
俺が隠し通せれば、紫音さんは悲しまずに済んだのに。
「紫音さん、ごめん」
「……何がです?」
彼女は……間違いなく、キッと俺を睨み付けた。あの紫音さんが、奈央さんみたいに、蔑むように俺を一瞥したのだ。
「……嘘を吐いたことですか?いいえ、あなたはそう思っていないはずです」
ばれてしまったから、私が悲しんだから、ごめんなさいと言ったはずです。そう、彼女は問い詰めた。
そして、最も言われたくないことを、多分確信の上で、口にした。
「あなたは、嘘に悪意を感じられないのでしょう?」
「……そんなわけ」
「ありますよ。だってあなたは、いつもそうですから」
見透かしたように、そう言った。まるで日和みたいに、全部知ってるかのように。
まるで奈央さんみたいに、ある種の軽蔑を持ってして、彼女は俺を見据えていた。
それから、何一つも答えられないまま、俺は彼女とアパートに戻って来た。
歩いている間、紫音さんはずっと、俺の手を握っていた。温かい掌が、俺をアパートまで歩き抜かせてくれた。
生まれたのは、激しい罪悪感だけだった。
俺は彼女に嘘を吐いた。今までずっと、それが当たり前みたいに思って生きて来た。
それは、彼と彼女に刻まれた、大きな傷痕。
「……お粥、美味しいですか?」
「うん、美味しい」
朦朧とする意識の中で、既に味なんかわかりやしないのに、迷うことなくそう答えた。
また、嘘を吐いてしまった。早く、意識が飛んでくれたら良かったのに。
何も考えられない。考えたくない。胸が、熱い。
「……遥人さん。辛いですか」
「大丈夫。大丈夫です」
ああ、もう。本当に俺はなんて。
「……なんて、馬鹿なんでしょうね」
そんな声と一緒に、俺の体は温かい何かに包まれた。視界が揺れているせいで、彼女に抱きしめられたのだとはしばらく気づけずにいたのだ。
「紫音さん……風邪が、移っちゃいますよ」
腰に回された彼女の腕をやんわりと引き剥がそうとして、逆にぎゅっと抱きしめられるはめになる。
伝わる体温が不思議なほど温かくて、気づけば俺は、いつの間にか彼女に体重を預けていた。
「……遥人さん、約束してくれますか?」
「……うん」
いつかの聖夜みたいに、彼女は約束を申し立てる。あのときと違うのは、彼女が俺の胸に顔を埋めていること。
「……恨んでてもいいから、憎んでてもいいから。だから、そういう素直な気持ちを隠すための嘘は、吐かないでください」
「私はそれを受け止めますから、ちゃんと教えてください。あなたがどんな気持ちなのか。どんな風に感じているのか」
それは、難しいことだと思った。だって俺は、今まで嘘ばかり吐いて生きてきたから。
自分の好きな人を嫌な気持ちにさせたくはないから、それだけのために嘘吐きとして生きてきたから。
今さら、そんのは無理だって。そう思ったのに。
「紫音さんが、それを望むなら」
「……約束ですよ?」
「約束です。嘘じゃありません」
そう。これは嘘なんかじゃない。実現させてやるという、一つの決意。
「……では、あなたは今、どうしたいのですか?」
「そうだなぁ。できるなら……このままで一眠りしたいかな」
そんなの、紫音さんに風邪が移るかもしれないのを考えたら、望んで良いはずがないのだけど。
「……では、そのように致しましょう」
彼女は何処か嬉しそうに笑って、再び俺の胸に顔を埋めた。その体温が、俺を眠りに誘うのだ。
「約束、寝て起きたら忘れてるかもね」
「……それは、駄目です」
軽口を叩く余裕はなかったはずが、いつの間にやらそんなことを言っていた。
忘れられるわけがないだろうに。それでも、紫音さんは少しだけ不安そうに瞳を揺らしていた。
「いや、冗談ですって」
「……本当に?」
「嘘は吐かない約束でしょう。だから、冗談です」
彼女の頬を丁寧に撫でて、それから髪に触れる。紫音さんは少しだけ安心したように微笑んで、それから何かを思いついたようだった。
「……では、証を残しておきましょう。忘れられないように」
いつの間にか、その表情からは憂いが消えていた。そして、まるで真央さんみたいに悪戯っぽく微笑んでみせた。
そして、意識は少しずつ遠退いていった。途中、何やら額に柔らかい感触があったものの、それがなんだったのかはわからない。
……嘘です。それがなんだったのかは、考えないようにしている。
けれどきっと、約束はもう大丈夫。証は、温かく柔らかく、この額に刻まれたのだから。
残した――は消えない。それぞれの場所まで。
もう、行かなくちゃ。
そう呟いて、彼はそっと筆を置くのであった。