第七十八話 春の眠りと黄金週間
GWにちょっと書いて放置した話を完成させて投稿。
また番外編?もう物語として成り立ってなくね?とかもし思っている人がいたとするなら
あなたは正しい。
黄金週間。
巷じゃそんな風に言われている、とある五月のささやかな話。
「あっはっはっはっは」
「うっふっふっふっふ」
春になると変な人が増えるらしい。
そんな話を聞いたことがある身としては、なんかもう明らかにそれっぽい二人組の高笑いに口元をひきつらざるおえないというか。
……こんにちは、紫音です。
バイト先のお店が普通ならば有り得ない『GW完全休業』という暴挙に出たため、退屈な日々を送っていたここ最近。
あの店長の怠惰極まりない性格は、そのうち絶対に矯正しよう。そんなことを思いながら、私は退屈しのぎと精神療養を兼ねて彼に会いに来てみたのだが。
「……ほしゅう?」
玄関より姿を現した奈央さんが答えていわく、私の目的の中心たる少年は今『ほしゅう』というよくわからない行事に出席を求められたため、学校にいるんだとか。
ほしゅう?なんでしょうそれ。日本の学校には良くわからないものがたくさんあるらしい。
「まぁ、織崎さんには縁のないどころか存在を知る必要すらない行事ですけど」
玄関先の少女、月島奈央は苦い顔で言った。そこには、担任教師の横暴で無理矢理補習に連れていかれた少年への侮蔑と、補習という言葉自体を知らない隣人へのちょっとした不満が含まれていた。
「そういうわけで、遥人さんはいません」
だからさっさと帰れ。とでも言いたげにきっぱりと答えたのは、玄関先から顔を出す奈央の後ろからひょっこりと顔を出した真央だった。
「ここであなたには選択肢が生まれました。ゴーホームorヘル。個人的には後者を推奨したいと思います」
『いつも通り』に黒紫色の禍々しいオーラを放ちながら、それでも透き通るような笑顔で真央は紫音を見据えた。
そこに、地獄が生まれた。
「……ヘルはあなたの帰るべき場所でしょう?なんていうかもう、その減らず口が如何にも地獄から生まれた生ゴミみたいで素敵ですね」
「うふふっ、織崎さんって本当に面白いですねー。ちょっと表出ろよ☆」
「真央ちゃんごめん。正直星とかつけてもまったく誤魔化せてないと思う」
間に挟まれた奈央が軽く涙目になりながらも、何とか大好きな妹と嫌いじゃない隣人の仲介役を果たそうと心に決める。
「まあまあ織崎さん。せっかく来たんですから、お茶でも飲んで行きましょうよ。ねっ?」
「のまれればいい。高さ8メートル強の高波にのまれればいい」
「真央ちゃぁぁん!隠してっ!その全身から出てる黒いのを隠してっ!」
姉って物凄く大変な職業だよなぁ。などと、最近思わなくもない。てか真央ちゃんお願い。早く普段の天使な笑顔に戻って。
今のソレはなんていうか、目が笑ってないもの。確かに概ね笑顔ではあるんだけど、天使どころか悪魔にしか見えないくらいだ。
(や、可愛いんだけどね)
それでも、どこか満足そうに奈央は頬を緩める。いい加減使い物にならないくらいにデレデレだった。
もう真央さんだったらなんでもOKなのかよ!と、ここに遥人がいたら確実に突っ込んでいたのだが。
生憎、彼は今いないわけで。故に生まれたこの争いも、絶える気配はない。
「……そうですね。奈央さんもこんな暗黒幼女と過ごす休暇はしんどいでしょうし、ここは私がお茶でも頂いていきましょう」
「よーしわかりましたよ神様。私がこの女を殴ればいいんですねっ?」
「真央ちゃん、戻って来てっ!お願いだからこっちの世界に戻って来てっ!」
なんかもう、面倒くさいよこれ。私仲介役とかやめますわもう。疲れますもん正味な話。
などと、板挟み状態の奈央がいい感じにスレてきたところで、ようやく二人の暗黒は正気を取り戻すのであった。
「何かないかなぁ。私たち三人が共通して楽しめることって」
ずずーっと緑茶をすすりながら、徐々に落ち着きを取り戻してきたアパートの古参三人娘。
その中でも『一応人間ができている』と評判の奈央は、一度投げ出した仲介役の責務を無意識のうちに再びまっとうしようとしていた。
この辺りのお節介をやめられないところが奈央の弱点であり、それこそが遥人の絶賛するところだったりするのだが。
それに気づかないからこその奈央であり、相変わらずのお節介だなぁと呆れているのが真央と紫音なのであった。
「不愉快だけど、奈央ちゃんをいじめることに関しては私と織崎さんの共通の趣味だと思うよ」
「…………」
ものっそい反応に困る返答ありがとう。てかちょっと待て紫音さん。さりげなく頷かないでくださいマジで。
「よーし。そうと決まれば奈央ちゃん、とりあえずこの首輪はめてもいいかな?」
「いろいろ言いたいことはあるけど、とりあえずは言わせて。首輪ってどんなプレイ?」
朗らかに笑った奈央は、ある種の諦観をもって真央に返答を求めることをやめた。
真央ちゃんは可愛いケド、やっぱりこういうときに頼りになるのは年上のお姉さんだよね!と、無理矢理に納得して紫音の方に目をやった。
『実際かなり優秀な女性』と遥人あたりが評価している紫音が、そのすがるような目線に気づく。
これが気づけるから紫音であり、そして空気を読むことができるから優秀なのだと、遥人あたりは絶賛するだろう。
「……ちょっと恥ずかしいですけど、やっぱり遥人さん絡みですよね。私たち三人の共通の趣味と言えば」
『……………』
痛い沈黙が訪れる。発言した紫音を中心に、三人が一斉に顔を真っ赤に染めてうつむいた。
「ええと、じゃあ、具体的に何をしましょうか?」
暗黙の了解とでも言える無言のうちに、遥人絡みの話題で攻めることが決定されていた。
密かにちょっとワクワクしてきた奈央が、咳払いの後に再び意見を募る。
すると、華奢な右腕をすっと挙げた真央。
「はーい!はーい!」
「どうぞ、真央ちゃん」
やっぱり真央ちゃんは可愛いなぁぐふふふ、てな具合に上機嫌な奈央。期待に満ちた様子で真央に意見を仰ぐのだが……。
「私、前々から思ってました!遥人さんのお部屋を物色したいです!」
真央の瞳が、キラキラと輝いていた。
紫音と奈央の間には、再び痛い沈黙が流れた。
真央の瞳は、ついにはギラギラと瞬き出した。
「あははっ。やるっきゃなさそうですねっ♪」
「……奈央さん。もう妹を甘やかし過ぎってレベルじゃないですよ、それは」
真央の要望ということですぐに乗り気になった奈央を横目に、紫音はそっとため息を吐いた。
結局、奈央さんも興味津々なくせに。……私も、興味がないと言えば嘘になるけど。
「……それにしたってですよ?やっぱり彼だって年頃の男の子なわけですし」
「『年頃の男の子』なんてガラじゃないですよ、遥人さんは。どーせ部屋にだって健全な小説か漫画しか転がってませんて」
良心と欲望との狭間に揺れる紫音と、妹への愛のみを護り生きる奈央。
当然、意志の強さに関しては奈央が群を抜く……というか、人間ってのは応用的には理性の生き物でも、基本的にはやっぱり本能に生きる獣なのだ。
そんなわけでこれ以上の反論は何処からも発生することはなく、この計画はしたたかに、それでいて大胆不敵に敢行される運びとなった。
「ねえねえ奈央ちゃん。トシゴロノオトコノコだと、お部屋になにか問題でもあるの?」
「ふぇ?」
いざ三人が彼の部屋の前に揃い踏みしたときだ。しばらく何やら考え込むようにして黙り込んでいた真央が、唐突に口を開いた。
「さっき話してたでしょ?年頃の男の子の部屋には何があるものなの?」
真央の瞳が、珍しく『頼りになるお姉ちゃん』を見る瞳になっていた。キラキラと、信頼と尊敬の眼差しが奈央にそそがれていた。
「あーいや、それはそのぉ……」
いっ、言えるかぁぁ!こんないたいけな瞳をした妹に『あんな本やこんな玩具がゴロゴロしてる』なんて言えるかぁぁぁぁぁ!!
織崎さんヘルプ!ヘルプみー!
「……というか、そもそもどうしてそれくらいの知識がないんですか。読書家のクセに」
「真央ちゃんは健全で乙女なブックスしか読まないんですぅ!織崎さんみたいに汚れた世界を知らないんですぅ!知らないままキレイな乙女に育ってもらうんですぅ!」
「……これが戦時中に行われたという教育統制の名残ですか。激しく自分勝手ですね」
もうこの姉は駄目かもしれない。そう直感した紫音は、さすがにこの時ばかりは真央に同情する。
妹って、大変な職業なんですね、と。
「奈央ちゃん……教えてくれないの?」
その大変な妹という役職を、これでもかってくらいに完璧にこなしてしまう。そんな真央の潜在的な妹属性にも問題がないわけではないのだが。
ただ彼女の不幸は、行き過ぎた姉属性の姉と、あまりにも優秀な兄気取りの少年が側に居たこと。
結果、奈央の情報操作と遥人の情操教育の弊害により、真央の膨大な知識には部分的な空白が生まれてしまったりしているのだ。
本当に局地的過ぎて、本人にも気づけない程の小さな空白。それ故に彼女が年齢以上の幼さを醸し出したりと、あまりよろしくない結果を招いている。
「ごめんね真央ちゃん。こればっかりは……」
「むう……やっぱり奈央ちゃんって微妙に使えないよね」
「うっ」
ぐさっ、と何かが奈央の胸に突き刺さる。姉に対する信頼の眼差しが、一瞬で仕分け人の冷徹な視線に近いものへと変貌したせいだろう。
仕分けられる……このまま行くと私は確実に仕分けられる……姉から奴隷に降格される。
何か、何か姉らしいことをしなくては!
「安心して真央ちゃん!遥人さんのことなんか全く知らないケド、代わりに真央ちゃんのことならスリーサイズから睫毛の本数まで完璧に把握してるから!」
なにその気持ち悪い情報力!?つーかシスコンも大概にしないとそろそろ本気で嫌われますよ?
と、彼がここに居たのならばすかさず突っ込んでくれたに違いない場面なのだが。
生憎、彼は不在。よって奈央の暴走を止めたのは、真央の何かを諦めたようなため息と、紫音の完全無視による極寒の対応だった。
「うん、なんていうかキモチワルイよね、ほんと」
「……ええ、今回ばかりはあなたに賛同します。キモチワルイですね」
「ふ、二人とも!?あの、そういう『黒光りしてカサカサ動くテカテカした虫』を見るような目で私を見るのは止めて欲しいんだけど……」
あれはもう仕分け人の目ではない。強いて言うならば修羅。潔癖症の女性がアレに遭遇してしまった瞬間に放つであろう、確かな殺意。
……とまではいかないものの、普段仲の悪い二人が珍しく結託して放つ確かな嫌悪の視線に、私は野晒しにされているわけだ。
(うぅ……相変わらずみんなして私への対応がキビシイんですよねぇ。なんだか不公平です……)
まあ彼女の趣味趣向が社会常識に反しまくりなのが原因なのだが、もうその辺りは触れない方が良いのかもしれない。
「……とりあえず、入りましょうか。ここで『黒くてテカテカした昆虫』と会話してても仕方ないですし」
「ちょっっと待ってください!その『黒くてテカテカした昆虫』ってのは誰を表す固有名詞ですかっ!?」
紫音には最早、目の前の少女がとある昆虫にしか見えないようだった。今にも新聞紙を丸め始めそうな勢いである。
「奈央ちゃんは、そのしぶとさと図々しさが本当に素敵だと思うよ。だからもう私の前から消えてねっ」
「真央ちゃん!?お姉ちゃんは、お姉ちゃんなんだよっ!?」
真央が輝く笑顔で殺虫剤を構える。この際相手が本当にその昆虫なら良かったのに。と思えるほど、何故か対虫装備が充実していた。
「……ま、そんな冗談はさておき」
「冗談に聞こえませんっ!相手の心を半壊させるような行為を冗談だなんて私は認めませんっ!」
「奈央ちゃん、泣いてるの?」
「泣いてないですぅ!ぜんっぜん泣いてなんかないですぅ!」
もう無駄に忙しいなぁこの娘は。などと、表情や仕草が秒単位でコロコロ変わる奈央を見て、紫音は呆れ始めていた。
……こんなだから、みんなから面白がっていじられるのだ。
まったく。そういう可愛くて情けないところは、好いている男の子にだけ見せていれば良いものを。
……私としては、大変面白いので大歓迎だけど。
「……彼の部屋にアレが潜んでいないとも限りません。皆さん細心の注意を払いましょうね」
そう警告して気引き締めつつ、紫音はついに禁断の扉を開いた。
「いっそ本物と遭遇すればいいんです!そうすれば私をアレと混同しようなんて冗談でも思えなくなりますからね、ふーんだ!」
後ろで不貞腐れている女の子へのフォローは必要ないのか?
そんな考えも頭の隅の隅をよぎったが、軽く面倒くさいので忘れることにした。
それもそうだろう。
目の前に広がる楽園の景色を前に、背後などを気にしている余裕はない。
それは、三人みな同じ。
「ついに入ってしまいましたね。ここが、遥人さんの部屋……」
「……とは言いましても、別に始めて入るわけでもありませんが」
そう。単純な話として、同じ屋根の下に住んでいる彼女らが、彼の部屋に入ったことがないなんてことはあり得ないのだ。
だから、三人の目的はそんなところにはない。もっと深く、もっと細かく。
彼の部屋の全てを、私たちは把握する。
そう高らかに宣言するかのように、三人は互いに顔を見合わせると、口元をつり上げほくそ笑んだ。
「さて……と」
「物色しますよ、物色!」
拡散弾のようにそれぞれに散らばった三人は、様々な思惑を胸に物色を開始する。
『赤信号、みんなで渡れば怖くない』とでも言うが如く、その行動には一切迷いがない。
この光景を男性陣が目撃しようものなら、確実にドン引きして女性不信に陥る可能性さえある。
それほどに彼女ら――主にそのうちの二人――の行動はタチが悪いのだ。とりあえず、手がつけられないレベルなのは確かである。
「……わかってますよね?奈央さん」
「織崎さんこそ。……私たちの探すものは、ただ一つですよ」
三人のうちの二人こと、紫音と奈央が積極的かつ大胆な物色を開始する。
ベッドの下、本棚の裏、タンスの中。間違いなく何か法則性を持って行われる物色に、とりあえず部屋をうろついていた真央が疑問を持つ。
「奈央ちゃんに織崎さん、何か探してるものでもあるの?」
二人の目が闇を集めたように黒く瞬いている。人間失格の烙印を押さんばかにり、真央はドン引きした。
「……おかしいですね」
紫音が質問に答えることなく首を傾げる。無視というよりは、集中しすぎていて声が聞こえていないようだった。
「ポピュラーなところでベッドの下や家具の裏。一通り探してはみたんですけどねー」
奈央が煮え切らない様子で頬を掻く。あるはずのものが見つからない。それが不服なのか。
「……今や携帯やパソコンの中にデータとして保存してあるのが当然。とは言え、筋金入りの文学少年気質の彼が『そういう本』を一冊も持っていないというのは」
「おかしいですね。絶対におかしいです」
紫音が珍しく話す長文の内容があまりにもくだらないだとか、奈央の気合いの入り具合が半端じゃないだとか、そんなことはもうどうだって良かった。
真央にはもう、そんなことを気にしている余裕なんて、なかった。
「おかしいのは奈央ちゃんの方だと思うよ」
「ふえっ?」
最愛の妹より突然突き付けられた言葉に、ゴミ箱の様子を調べていた奈央が間抜けな顔で振り向く。
鬼がいた。
「おかしいと思うの。どうして奈央ちゃんはいつも織崎さんと意識を共有して、挙げ句に協力したりしてるの?今だってそう、私の知らないところで二人だけで遥人さんのこと調べて」
艶やかに伸びた黒髪が、静電気にでも当てられたかのように部分的に逆立っている。
周りを覆う黒紫の暗黒は幻覚だとしても、笑顔の真央が最上級の怒っていることだけは、如実なまでに外観から表されていた。
「あの、真央ちゃ」
「だいたいからして、奈央ちゃんはいつも織崎さんに優し過ぎると思うの。この前だって『織崎さんが疲れてるみたいだから』とか言って、遥人さんをフォローに向かわせてたし」
「あのっ、ちょっと話を」
「この前だって!私が寝てる間に、わざわざ織崎さんを招いてお茶してた!」
「だからそれはっ……その……」
言い返す言葉が見つからなかった。突然怒り出した妹に手を焼きながらも、奈央は紫音に目で助けを求めた。
「…………はい?」
パソコンを立ち上げパスワード機能と死闘を繰り広げていた紫音が、ようやくそのアイコンタクトに気づく。
二秒で状況を理解。五秒で戦況を把握。そして、織崎紫音は重い腰を上げて彼女の前に立ちはだかる。
「……残念ですが、真央さん。あなたの姉である月島奈央は、もう半年も前に私と共同戦線を敷く口約を交わしているんですよ」
「えっ?」
「ちょっ、織崎さん!?」
その刹那、真央の瞳が大きく揺れたのを紫音は見逃さない。
体全体で動揺している奈央は、とりあえず見なかったことにしておいた。
「……あなたはただの妹ですから。お姉さんがそこまで面倒をみてあげる必要なんて、ありませんよね」
「ちっ、違うの!違うの真央ちゃん!確かにそんな口約束はしたかなーって記憶はあるけどっ、それは別に真央ちゃんと敵対するとかそういうんじゃなくて!」
涙ぐましい程に必死な奈央を見て、紫音が軽く方針転換を謀ろうとしたのだが、やめた。
真央が無言のまま布団に潜り込んで出てこなくなったから。自然、これ以上彼女を責める必要はなくなった。
「真央ちゃーん、お願いだから出て来てよー」
「嫌。私はもうこの布団で遥人さんの匂いに包まれながら眠るの。……お姉ちゃんなんてもういらないんだから」
「いっ、いらない!?」
直後、奈央がゴフッとかいった具合に血を吐いてその場に倒れる。彼女のショックは内臓の機能が狂う程に大きかったらしい。
というか、え?血を吐いたんですか?吐血?それはさすがにオーバーアクションといいますか、過剰演出では?
などと、紫音だけがやけに冷静なままそこに立っていた。目の前には、膨れた布団と死体が一つ。
「……春ですねぇ」
静まり返った部屋の中で、現実逃避気味に呟いてみる。答える声はなく、再び静寂が訪れた。
本当、変な姉妹。そんな風に思って、やっぱり春だなぁと結論に至りながら、紫音はゆるりとパソコンの前に戻っていく。
既に寝息をたててふて寝してしまった妹が起きた時には、姉妹の壮絶な喧嘩が始まるのだろうか。
……ちょっと面白そうだけど、多分ひたすら奈央が謝っているだけだろうから、いまいち盛り上がりには欠けるな。
そんな他人事な意見を述べつつ、その喧嘩が自分に飛び火してこないことだけを切に願う。
(……それにしても、大好きなお姉ちゃんを取られてしまったこと、そんなに悲しかったんでしょうか)
何処か微笑ましいものを感じながら、紫音はふとあることを思い出す。
―――あの子は、弟は元気だろうか。最愛の彼に良く似た、私の弟。
まあいい、それより今はパスワードだ。そんな風に素早く切り替えて、紫音は再びパソコンに相対した。
(……これでパスワードがshionとかだったら……さすがに気絶する)
淡い期待を寄せながら入力したパスワードは、見事にセキュリティにブロックされてしまった。
……やっぱり、期待はするものじゃない。
仕方ないから、姉妹喧嘩が始まったら彼と一緒に何処かへ遊びに行こう。避難がてらに。
ちょっとした漁夫の利が得られるかも。そう思うと自然と頬が緩んだ。
……よし。いろんなパスワードを入力してみよう。一つでも当たりがあれば、大儲け。
やっぱり、男性の趣味趣向を把握するにはこれが一番ですよね。と、気絶中の奈央に話かけてみたり。
とにかく、せっかくのゴールデンウィークだもの。この関係も、少しは進展させたいのだ。
「……早く、帰って来て」
無意識でそんなことを呟いてしまい、一人で赤面する羽目に。全く、私も随分彼にやられているらしい。
―――はっと気配に気づいて、部屋の入り口に目を遣る。多分心臓が三分の二くらい飛び出たと思う。
「……遥人さん?」
「ただいまー……って、俺の部屋で何してんの?」
は?
そんな、だって彼は帰って来たら必ず玄関でただいまって言うはずだし、私がそれに気づかないはずはないし。
第一、奈央さんの話によれば彼は少なくとも昼までは帰って来れないはずで、だからこそ私もこんなに余裕を持って物色をしていたわけで。
「……どうして?」
混乱する私を見据えた彼は、優しく弱く微笑んで、すぐ横の壁に体を預けたまま答えた。
「補習があまりにも拷問じみてたんで、逃げてきちゃいました」
てへっとお茶目に笑う彼の顔は、良く見るとかなりやつれていた。目がどこか虚ろで、体もエネルギーを持っていないようだった。
……なにこれ、補習って怖い。
と、そんなことよりも何か言い訳をしないと!このままでは本当に嫌われてしまっても不思議じゃない。
「で、俺のベッドで丸まって寝てるアレは真央さん?」
「……そうです。実はこれには深い事情がありまして」
彼が思ったより冷静なので、これなら出来合いの言い訳で押し通せそうな雰囲気だ。
頑張れ、私。
「てか、いーや」
「……は?」
「だから、事情があるなら仕方ないし、まあいーや。とりあえずね、俺は今物凄く眠いの」
どこかなげやりな彼の態度に一抹の不安を覚えたものの、すぐにそれが疲れによるものだと確信することができた。
目が死んでる。剥製のビー玉でできた瞳の方がまだ生気を感じ取れるくらいだった。
「……でも、ベッドは真央さんが」
「うん。もうなんか面倒だし、奈央さんのベッド借りることにする。おやすみー」
ヒラヒラと手を降ってフラフラと部屋を出ていく遥人。隣の奈央の部屋に迷わず侵入すると、ベッドに倒れ込んだ。
余程疲れていたのだろうか。寝息が部屋に響き渡るのに、一分はかからなかった。
「なーんか、妙な発言を聞いた気がするんですケド」
「……起きましたか」
タイミング良く、というよりは、おそらく最悪に近いタイミングで奈央が目を覚ました。
真央の『お姉ちゃんなんてもういらない』発言が未だに脳を焼くように響いているが、今はそれどころではなかった。
「あの男、マジで私の部屋に?」
「……ええ」
ぷっつんと、何かが切れた音がした。奈央の最終防衛ラインが犯された今、彼女は心を銃にする他なかったのだ。
「あっはっはっはっは!知ってますか、織崎さん。かつてのベルリンの壁を越えようとした者たちは、容赦なく射殺されたんだとか」
真っ赤に燃えた瞳は、その火薬に灯す火元。真っ赤に染まった頬は……自分の普段寝ているベッドに彼が寝ている、という異常事態を想像してしまっただけ。
「鉄のカーテンで足りないなら……いいでしょう。乙女の聖域に土足で踏み込むアホは、私がけちょんけちょんにしてやりますっ!」
どかどかと派手な足音を立てて、奈央が遥人を追い自室へと向かう。
第一ラウンド開始、ですか。本当に、春爛漫もいいところですね。
そんな皮肉を呟きながら、紫音はふと窓の外に目を遣った。
青空にたなびく雲が、馬鹿みたいに白く優雅に流れている。
両手を組んで、背伸びをしてみた。パスワードは諦めて、パソコンをシャットダウンする。
さて。
「……私も、一寝入りしますかね」
清々しい空の色に心を晴らして、私はゆるりと彼の部屋を後にした。
次はどうか、招き入れてもらいたいところだ。それもまぁ、自分次第だけど。
「……おやすみなさい。楽しい喧嘩になると良いですね」
寝息を立てる真央に一言だけ呟いて、織崎紫音は黄金の日々に見切りをつけるのであった。
第七十八話『番外編 春の眠りと黄金週間』END
その後、寝ぼけた遥人が奈央を布団に引き摺り込んだりとか、真央が起きがけに敷き布団の下から何やら怪しい本を発見したりだとか。
そんな、この素晴らしき日々の蛇足。
こんな一日
そんな日常
微妙にオチ弱くね?いやそんなことなくね?
などと、自分の書いてるものをいまいち信用できないでいるここ最近。
しかしながら、そんなことには関係なく物語はゆるりゆらりと進んでいきます。
まあその……気長にお待ち下さい。ささやかなささやかな応援を、どうか宜しくお願い致します。