第七十六話 消失の日々、日々の消失(後)
後編。
ついに放たれた彼女の一声は、全てを揺らす。
街の裏路地を抜けて行った先に、小さな店がある。
アンティーク調に作られた建物。そこはまるで、ドラマのヒロインでも働いていそうな、洒落た雰囲気を醸し出していた。
「なるほど。確かに、紫音さんが働くにはぴったりな店ですね」
「それはどうも。お褒めの言葉として受け取っていいのよね?」
「ええ、まあ」
本当は『ただし俺が来店するには願い下げな店だ』と皮肉ったつもりなのだが、婉曲しすぎてむしろ普通の褒め言葉になってしまった。
「しかしなんつーか……雰囲気のある店ですねえ」
またも婉曲表現。本音を言えば、俺はこのような雰囲気の店は苦手なのだ。
薄暗くて静かで、別世界に通じるような浮世離れした空間。
これが一応『喫茶店』だから良いけど、どちらかと言えばアンティーク調の占い師の屋敷という方がしっくりとくるような。
「紫音ちゃんが居るときは概ね明るいんだけど、私一人のときはどうもね」
「店員の人格の問題ですかね。それが店の雰囲気に直結するのかと」
しれっと失礼な発言をしてはみたものの、彼女はそれに気づくのか。
「やぁね、それじゃ私が根暗みたいじゃないの」
うふふっと淑やかに笑いながら、店主はそれを軽くいなしてみせた。
この女性を試す意味でしてみた発言だが、このような大人の反応をされるとどうも、人柄の面は認めざるおえないような。
「……などと考えていたんですけど、いやちょっと、めちゃめちゃ足踏んでますよねっ!?」
店に並ぶいくつかのテーブルの一つに、向かい合う形で座っていた二人。
和やかな会話の下で、遥人の右足はぐりぐりとしきりに踏みつけられる。
「ほんと、やぁね。何て言うのかしら?保護欲?紫音ちゃんが可愛いのはわかるけど、あの娘が働いてる店を品定めするように見回したり、店主の私を試すようにかまをかけたり。そういうの、良くないわよね?」
ぐりっぐりっ。
「あだだだだだ!店長さん落ち着いてっ!」
痛いッ、もの凄く痛いですよそれ!生足で踏まれてる痛さじゃないだろコレ。
絶対になんか仕込んでるよ、足の裏に。ハイヒールの尖り部分みたいなもの着いてるよ間違いなく。
「し・か・も。極めつけにはさっき、私の姿を見て値踏みするように鼻で笑ったじゃない?」
「せっかくの着物をだらしない着こなしして、挙げ句履き物が裸足にスリッパですからね。笑いますよね、そりゃ」
メリッ!ゴリッ!
「っっっだあぁぁぁぁ!」
い、今メリッて、メリッていったよ!メリッって踵をめり込ませた上にゴリッて回転加えやがったよ!?
顔だけ見ればめちゃめちゃ淑やかに笑ってるのに、テーブルの下の足がじゃじゃ馬ってレベルじゃない!
ああでも、スリッパ脱いで生足で踏まれてるのだけが救い。なんかこう、美人の生足に踏まれるというのは、男としての潜在的な何かをくすぐられるような。
体温を直に感じられるせいか、どことなく暖かい……?
いや、これ摩擦だわ。ぐりぐりやられて生まれた摩擦わ。なんにも嬉しいことねえよ。
「どんな着こなしするかなんて私の勝手でしょう?それに、初対面の大人の女性にする発言じゃないわ」
「俺の友人にもそうですけど、基本的に非現実な行為をあっさりやってのける化物に、初対面の礼儀とか遠慮とかいらねえかなって」
例えば本宮とかね。俺は初めて遭ったときからあいつには遠慮をした記憶があまりない。
や、あいつ自身が俺にまったく遠慮をしなかったせいだけど。
「とりあえず、店の扉を俺にしかくぐれないようにして秋隆さんを締め出すという意味不明な芸当が出来るような、そんなファンタジーな人間に遠慮をする必要はないですよね」
この店には秋隆さんといっしょに来た。しかし、彼は阻まれた。何故か通ることのできない扉に。
しかし、それを俺は簡単に通り抜けた。それは明らかに、何かしらの力が働いているようだった。
奈央さんと紫音さんの話す『店主・黒』の人物像を信ずるなら、それは俺が彼女に選ばれ、秋隆さんは拒絶されたということ。
店に入る客の取捨選択が出来る。それは純然たる異質で、現実としては到底受け入れられないもの。
故に、俺は彼女を、店主黒をこう称す。物語屈指にして、唯一であるべきファンタジー人間と。
「ファンタジーな人間って何よ。……ま、選択としては間違ってないけれど。こうやって遠慮なく話してくれるのも、私にとっては嬉しいものだから」
ぐりぐりと足を踏むのを止めて、彼女は惑わすように微笑んだ。
そして、足を組む。右手を伸ばして、俺の頬に触れた。
……あったかい。
「って、何を!?」
「あらあら、可愛い反応するのねぇ」
なんかこう、その人を惑わし魅了するような、要するに魅惑するようなその微笑みが、俺の脳を強く揺さぶったわけで。
真っ赤になった顔を隠すように少し俯くと、今度はテーブルの下で組まれた綺麗な足が見えてしまったりして。
うーん……やっぱりオトナはすごいや。
「それで、遥人くん?お姉さんに何か、聞きたいことがあるんじゃなかった?」
「あっ、忘れてた」
つーか初めて遥人くんとか呼ばれちゃったのが嬉しかったりするのだけど、いっきに子供扱いされたみたいで微妙に悲しかったり。
ま、ガキですけどね。ガキだから、大人のお姉さんに頼らせてもらいます。
「えと、実は紫音さんがですね……」
どう話を切り出したら良いものか。とにかくは、あったことを全部話して、それから解決のための方策を伺って……。
「大丈夫よ、鍵ならもう開けたから」
「はっ?」
いきなり何を言い出すんだ、この人は。鍵を開けたっても、秋隆さんはまだ入って来れないみたいだし。
じゃあ、何の鍵?
「あ、藤森秋隆なら店には入れないわよ。酔っぱらいはキライだから」
秋隆さん、前によっぽどここで騒いだのか。黒さんの目が明らかにつり上がってるあたり、憎しみさえ感じていそうな。
「つーか、かってに読心術まで使い始めないでください。いい加減物語から追い出しますよ?」
「いいじゃない。日和ちゃんならよくやることでしょう?」
だから、おまえら二人のせいで世界観とかパワーバランスみたいなもんがおかしくなってんだよ!
二人まとめて最終回にしてやろうかコノヤロー。
「……で、鍵って?」
そろそろ弄ばれるのが嫌になって、テーブルにうなだれた。そんな俺を、彼女は頬杖をつきながら見下ろして答える。
「鍵よ。あの娘の声の扉にかけた、鍵」
声の、扉?
「つーか話から察するに、今回の件の主犯は貴女ですか」
「そうよ、驚いた?」
ニヤリと、悪戯っぽく微笑んだ黒さん。遊びじゃないんだけど、彼女を見てるとこの件がまるで遊びみたいに。
つまり、彼女は余裕そのものだったのだ。紫音さんの声を消すこと、それを元に戻すこと。
それは造作もないことで、赤子の手を捻るが如く容易なこと。それが、店主にとっての認識なのだ。
「全てのものには扉があるの。形あるものにも、ないものにも」
扉を開くことによって、それは存在し、有るべき姿と意味を持つ。
などと、出る作品違うんじゃね?と感じてしまうほど良くわからない話を始めた彼女。
……扉、ねぇ。
「つまり私は、あの娘の声そのものに鍵をかけたの。だから、声が出なくなったということ」
「それは、どうして?」
緊迫した状況。発射直前の弓の弦のように張りつめた空気。腹の探り合い。そして尋問。
……と、今は本来そのような状態であるべきなのだが。しかし、彼女の余裕な様子にほだされて、俺は怒る気さえ起きない。
どうしてそんな悪戯したんですか?という程度である。それは多分、紫音さんの惨状を思えば失礼極まりないのだが。
「あの娘に理解させるためよ。伝えなければならないこと、いつまでも躊躇っていたらどうなるのか。それを解らせるための、ちょっとした荒療治」
「荒療治ったって……」
黒さんの目は何処か冷たかった。それはまるで、いつまでも成長しない弟子に不満を募らせているかのよう。
無論、その中にはちゃんと温かさがあって。その瞳を見たとき、紫音さんがここで働けて良かったと思えた。
「いきなり声を消すとか、そんな魔女みたいなことしないで、なんとかその『伝えなければならないこと』を言えるように説得すれば良かったんじゃ」
「説得は無意味よ。……だって遥人くん、あの娘は強くなったでしょ?前よりずっと」
俺はその問いに自信を持って大きく頷いた。紫音さんが努力してきたこと、少しずつ成長してきたこと、わかってるつもりだから。
けど、それがどうして説得は無意味であるという結論に繋がるのか。それだけがわからない。
「そんな強い娘が、伝えなければならないとわかっていながら、どうしても踏ん切りがつかない。それほど厄介なことなのよ」
ああ、気づいたぞ、俺。
「そんなにも厄介なことに対して、他人の説得ごときは無意味。だから、声に鍵をかけた。紫音さんが踏ん切りをつけるきっかけをつくるために」
「そうよ。それが、真実」
そうしてようやく、会話は振り出しへと戻る。全てを理解した上での、新たな振り出しへと。
「そして……」
「そう。そして、鍵は解かれた。後はあの娘が、織崎紫音が扉を開けるだけ。自分の手で、ね」
そこまで話した黒さんは、役目を終えたかのようにふうっと息を吐いて立ち上がった。
そして、俺の頭を優しく撫でて、微笑んだ。
「行きなさい。あなたには義務があるわ。『伝えなければならないこと』を、聞いてあげる義務が」
「は、はいっ」
そう言われてのうのうとしているわけにはいかない。俺は立ち上がって、彼女に頭を下げた。
「……あの、ありがとうございます。次来たときは、ちゃんと挨拶します。客ですから、注文もします。なんなら、手伝いだってします。だから」
弾みで、本当にただの弾みで、俺は勢いに任せて彼女の手を握った。
「っ!?」
初めてだった。余裕を絵に書いたように微笑んでいた彼女が、慌てたようにして顔を真っ赤にした。
「だから、今回は」
「……いいわ、行きなさい。あの娘が待ってるわ」
何故か目を合わせてくれなかった。突然やって来て無礼を働き、さっさと帰ろうとする俺に怒っているのだろうか。
違った。黒さんは微笑んでくれた。
そうだな。今度、紫音さんといっしょにこの店に来よう。
綺麗な着物を調達して訪ねよう。
親父の貯金に手を出して、秋隆さんの車で良い着物の店に連れて行ってもらおう。
そしたら、着物を渡すのといっしょに名乗ろう。
はじめまして、って。ちゃんと、大人の女性に対する敬意と礼節をもって。
深々と一礼して、俺は店を飛び出した。今は黒さんの言う通り、一刻も速く紫音さんのところへ行くべきだから。
「秋隆さん、車を!」
「む?何やら、急ぎの様子だな」
突然店から飛び出して来た俺に驚きながらも、秋隆さんは先ほどまでの退屈を紛らわすように車を飛ばしてくれた。
助手席から外を見ると、いつの間にか夕暮れが近づいているようだった。
日が落ちる前に、全てを片付けよう。そう決意して、空を見上げた。茜色の、綺麗な空だった。
「次来たときは、だって」
「……嬉しそうですね、黒さん」
夕暮れの喫茶店。遥人の去ったその場所には、代わりを果たすように一人の少女が立っていた。
「嬉しいというより……そうね、ちょっと思い出していただけ」
遠い日を思い起こすように、黒は目を閉じた。隣に立つ少女は微笑んで、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます、黒さん。依頼通り、完璧な段取りでした」
その言葉に、現実に引き戻されたように瞳を開く店主。何処か悲しそうに、少女の肩に手を乗せた。
「本当に、これで良かったの?あなたの大切な彼は、きっと悲しむわ」
「……良いんです」
少女は強がって、ニコリと微笑んだ。彼を傷つけたくない、そう思っているはずなのに。
「だって、彼は幸せのために変わらなくちゃなりません。人が変わるには、出逢いが必要です」
「……そうね。だからあなたは、彼にたくさんの出逢いを与えた。そして、これからも」
全知なる少女と全能なる店主は、互いの欠落を慈しむように目を見合わせた。
「でも、出逢いだけじゃ駄目なんです。人が変わるには、別れもまた必要だから」
涙を堪えるみたいに、少女は歯を食いしばった。それは多分、決定的な一言を放つために。
「だから、別れてもらう。彼も彼女も深い傷を負うけど、それでも」
それでも、彼と彼の運命を変えるために。
そう呟いて少女は、本宮日和という名の歯車回しは、ゆるりと物語の裏舞台へと消えていくのだった。
ところ変わって、こちらは遥人が出て言った後のアパート二階、織崎紫音の部屋。
奈央が遥人に言い放った『実は私にも秘策があるんです!』の一言は、全面的に信用された結果二人をアパートに残すに至った。
そんな秘策を持った二人が、あれから二時間余り経った今まで何をしていたのかと言うと……。
にゃーごろごろごろにゃーごろにゃーにゃーごろごろごろごろごろにゃー!
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……織崎さん、そろそろこれ、やめにしましょうか」
息を切らせた奈央が、大の字に絨毯の上に寝そべった。その横には、やはり肩で息をする紫音が仰向けに寝転んでいる。
二人は疲れきっていた。それもそのはず、遥人が出て行った後の二人は、今の今まで暴れっぱなしだったのだから。
「……てかこれ、絶対アホですよね。何で二時間もこんなことしてんだか」
追って追われて、くすぐってくすぐられて。そんなことを、二人は延々と繰り返していた。
それはまるで、二匹の猫がじゃれあっているかのようだった。猫好きなら漏れなく頬を緩ませそうな、至福の光景。
実際には、可愛らしい少女がスキンシップがてらにじゃれ合っていたわけで、それは何とも和やかで心癒される情景だった。
『……そういえば、どうしてこんなこと始めたんでしたっけ?』
紫音の声なき声が、奈央に問いかける。それは既に筆談からの進化を遂げていて、奈央は紫音の唇の動きで言葉を理解するに至っていた。
「いやぁ、一応私の秘策だったんですけどね。ストレス発散で声も復活!みたいになるかと」
徐々に呼吸が安定してきた奈央は、ようやく先ほどまでの行動に恥ずかしさを覚えたらしい。
運動したためではなく、恥ずかしさ故の頬の紅潮。隣で同じように横になる紫音も、無表情がどことなくぎこちなかった。
『……安直』
「うっ」
ぼそっと呟いた紫音。もちろん未だに声はでないものの、奈央はその唇の動きをしっかり読み解いてみせる。
「仕方ないじゃないですかぁ!何だか最近織崎さんの元気がなかったから、それで『もしかして原因はストレスかも!』って思ったんですよぅ」
『うっ』
奈央の意外な健気さを知り、恥ずかしさから無意識に目を逸らす紫音。うっかりこぼしてしまう喘ぎが声に出ないのは、ちょっと有難かった。
「それにっ」
『……それに?』
奈央が少し不機嫌な様子で口を尖らせた。彼女が不満を漏らすときの癖、紫音はそれを知っていた。
「それに、最近のあなたは絶対に何か隠してますもんっ」
頬を膨らませ、プイッとそっぽを向いてしまう。互いに横になっているため、今まで見えていた奈央の顔が見えなくなる。
ちょっと寂しくなった紫音は、目の前にある奈央の後頭部にぐりぐりと額を押し付ける。
彼女なりの甘え。しかし相手は奈央で、その性分は片意地乙女。一度へそを曲げると、なかなか機嫌が直らない。
「そんなことしたって駄目ですよぅ。ちゃんと隠してることを言ってくれなくちゃイヤです」
『……意地っ張り』
紫音がそう言ってみるのだが、唇の動きが見れない方向を向いた奈央には伝わらない。
途端に悲しくなった紫音は、なんとかこちらに向いてもらおうと奈央の後ろ姿をいじり始める。
つんつん。
「やっ、やぁです、やめてください!」
ふー、ふー。
「吹いてどうするつもりなんですか、もう」
だきっ。
「やっ……その、腰に腕を回して思い切り抱きつかれましても……」
『……むぅ、遥人さんならイチコロなのに』
どんな発言をしても伝わることがないせいか、紫音は歯に衣を着せることをしない。
そして、遠慮もしない。だって、寂しいから。
ぎゅー。
「そ、そんなに抱き閉めないでくださいっ」
はむっ。
「はにゃっ!?」
はむはむはむ。
「み、耳を、耳をはむはむしないでくらはいよぅ!」
やっ、ちょっ、それはなんと言いますかこう、物凄くエキゾチックな感じで不味いというか!
「や……やぁ……」
はむはむされ続けることによって全身の力を抜かれた奈央は、ぐったりとして動かなくなった。
『……勝った』
そう呟いた紫音の唇など見ていないはずの奈央であったが、不思議と勝ち誇られたことには気づいたらしかった。
「なーにーがー『……勝った』ですかぁ!このセクハラ緑!」
ぐったりとしていた奈央は、弾かれたように起き上がり反撃とばかりに紫音に襲いかかる。
『……うっ、馬乗りでくすぐるなんて卑怯です!意地っ張りぴんくは黙って弄られていればいいのに』
「い、意地っ張りぴんく!?……紫音さん、言いましたねっ」
歯に衣着せぬ紫音の発言を、ついに奈央が唇を通して視認する。それが第二ラウンド開始の合図だった。
にゃーごろにゃーごろごろごろごろごろにゃーごろにゃーにゃーごろごろ。
『「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ』」
「も、もう動けない」
『……私も……無理……』
互いの体力が同時に底をついたとき、二人は元のように向かい合って寝転んだ。
そんな折、何やらタイミングを計るようにしていた奈央が、少し躊躇いがちに口を開く。
「それで、紫音さん。いい加減、言ったらどうですか?私に隠してること」
『……私が、ずっとあなたみたいになりたいって、そう思ってたコト?』
誤魔化すように、紫音は無表情を崩さないままで答えた。しかし、それもまた真実。
「ちっ、違いますよ!誤魔化さないでください!」
確かに誤魔化したけど、それは嘘ではなかった。紫音はあのクリスマス以来ずっと、奈央の姿を目指していたのだから。
自分の幸福や未来の全てを捨ててでも、大切なもののために生きられる。そういう奈央の姿が、紫音には堪らなく羨ましかった。
隠し事。本当ならしたくない。奈央にも、もちろん遥人にも。
それでも、これだけは言えなかった。言うのが怖かった。だって、全てが終わってしまうから。
言わなきゃならないのはわかってる。自分の声が消えた原因だって、本当は薄々気づいてる。
ホントウノコトを、私が言えずにいるから。だから店長が、きっかけを作ろうとしてくれている。
わかっているんだ。遥人が言った『伝えたいことを伝えられるように』という言葉を聞いた瞬間から、気づいてた。
それでも……黒さん、ごめんなさい。私は怖い。言うのが怖い。
「……そんな顔、しないでください」
深く沈む紫音を救い出そうとしたのは、へそを曲げていた奈央だった。
「ごめんなさい、わかりました。そこまで言い難いことだとは思わなかったから」
紫音は首を振る。違う、あなたが悪いんじゃない。悪いのは、皆が助けてくれるのにいつまでも強くなれない、自分なんです。
そう伝えたいのに、その言葉さえ声に出すことが出来ない。
次第に涙を堪えられなくなってきて、嗚咽を漏らそうとしても、それさえ喉をつっかえる。
こんなの……こんなの、私は。
「だからね、私考えたんです。今からもっと、フレンドリーになってやろうって」
『……え?』
泣き出しそうな紫音の涙を食い止めるかのように、奈央は精一杯笑って手を握った。
握られた手から伝わる温もりに、紫音はこぼしかけた涙を堪えた。それくらい、その行動が嬉しかった。
「とりあえず、今から『紫音さん』って呼ぼうと思うんですよ。遥人さんみたいに」
何かの聞き間違えかと思った。だって、隠し事ばかりの自分は嫌われてしまうとばかり思ったから。
それなのに、この娘は。
「嫌とは言わせません。だから今、あなたがしゃべれないうちに勝手に呼び初めます」
今まで彼にしか見せなかった本気の笑顔を、この女の子にも見せたくなった。
親愛と敬意と感謝を込めて、ただ一言、ありがとうと言いたくなった。
「え?自分は私を何て呼べばいいのかって?そうですねぇ、紫音さんは二つも年上なんですから、いっそ遥人さんより仲良しに『奈央』って呼んでみたらどうですか?」
男の子なら一瞬で虜にされるどころか、一瞬で溶けて消えかねないな。奈央の笑顔に、紫音はそんな評価を下した。
「ほら、呼んでみてくださいよぅ」
本当に、良いのかな?遥人さんすらできない呼び捨てを、私なんかがしてしまって。
でも……私は言いたい。呼びたい。あなたや彼の名前を、声が枯れるくらいたくさん呼びたい。
だって……早くしなくちゃ、名前さえも呼べなくなってしまうから。
『……奈央』
「ん。良くできましたね、紫音さん」
『……奈央』
「うんうん。これから毎回そう呼ぶんですよ?」
『……奈央、奈央、奈央』
「もういいですよ……って紫音さん、どうして今、泣き出すんですか?」
呼びたい。声に出して呼びたい。私のことを見てなくても、遠くにいても、それでも聞こえるように。
……呼びたい。言いたい。声が欲しい。私の涙を止めて、彼女の恩に報いる、ありがとうの一言を言いたい。
『……ああ、店長、ようやくわかりました。伝えられないことが、すごく辛くて悲しいんだって』
ようやく気付きました。伝えることより、伝えられないまま終わることの方が、よっぽど怖いことなんだって。
だから、私は伝えます。
伝えたいことを、ちゃんと声に出して言いたいから。
『聞いてください、奈央さ……いえ、奈央』
「言ってくれるなら、もちろん聞きますよ。少しも目を離したりしません」
奈央が優しく微笑んで、紫音の唇に目をやる。あなたが話す全てを受け取ってやろうと、そう宣言するかのように。
そしてそこで、運命は繋がった。それは、玄関先から放たれた一声だった。
「紫音さん、奈央さん、今帰りましたよー!」
遥人だった。その姿を見て、紫音は一瞬本当のことを言うのを躊躇った。
けど、すぐに決意した。
「……どうせ、皆に話さなくちゃならないことです。遥人さんも、聞いてください」
「……へっ?紫音さん今」
あ……れ?
「今、声が出ましたよね?遥人さんも、聞きましたよね!?」
奈央が、飛び上がって遥人に詰め寄る。遥人が大きく頷くと、二人は喜びのあまり抱き合ってとび跳ねた。
「黒さんの言う通りだ!紫音さんが自分で扉を開けたから、声が戻ったんだ!」
「……私の……声」
やがて抱き合っていた二人が、左右から紫音を包みこむ。遥人に頭を撫でられて、奈央には腕にしがみつかれた。
ああ、やっぱりそうだったんだ。私がこれを言おうと決意すれば、それだけで良かったんだ。
……ありがとう、店長。おかげで、私は決意することができました。
この口で全てを伝えて、皆といた日々に終わりを告げる、その決意です。
「……遥人さん、奈央。二人とも、聞いてください」
「聞くっ、聞くよ!」
「もう隠し事は駄目です!話すなら全部ですからね」
喜ぶ二人は、紫音の深刻な様子には気づかない。どちらも紫音に抱きついたまま、ここからいつもの日々が戻ってくるのだと思っていた。
紫音が、顔をぐしゃぐしゃにして大粒の涙を流す。そうして膝から崩れ落ちるその瞬間、二人はようやく異変に気づいた。
そして、聞いてしまったのだ。
「……ごめんなさい、二人とも」
誰もが聞きたくなくて、誰もが知りたくなくて、誰もが嘘であれと願う、そんな言葉を。
「……先日、電話が来たんです。実家から」
止まった時の中で、ただ彼女の言葉と嗚咽だけが響く。
「『迎えに行くから』って、そう言われたんです」
動き出した運命は、もう止まらない。全てを飲み込んで……何かを終わらせるまで。
「だからっ……だからっ……お別れなんですっ」
おんなじものを見られたら、それだけで良かった。
おんなじ気持ちじゃなくても、それだけで。
二人でいられたのなら、それだけで良かった。
いっしょにいられて、いっしょじゃないのに。
――きっと、それは、夢のような日々で。
第七十六話『消失の日々、日々の消失(後)』END
「ふぅ……すっかり遅くなってしまったな」
藤森秋隆は、すっかり暗くなったアパートへの帰路を車で走っていた。
遥人をアパートに送り終わってすぐ、醤油を切らしていたことに気づいた。
律儀で空気の読めない秋隆は、アパートで繰り広げられる修羅場のことなど知るよしもなく、車をスーパーへと向かわせた。
その帰り。ようやくアパートにたどり着き、ガレージに車を入れて外に出たそのときだった。
「ねえ、ここのアパートの人?」
見ると、そこには高校生くらいの見知らぬ少年が立っていた。すぐ横に、原付が止めてある。
「そうだが、それが何か?」
暗闇のせいで相手の顔さえ見えないまま、秋隆はそっけなく答えた。
おおかた、原付でここまでやってきた遥人くんのクラスメイトか何かだろう。そうとしか思わなかった。
「伝えておいて欲しいんだ、姉さんに」
「は?それはいったい誰の……」
暗闇の中、それでも凛と立つ少年。秋隆が聞き返す間もなく、彼は続けた。
「『来たよ』って、伝えておいて欲しい」
「だから、おまえは誰だっ!?」
少年は、確かにニコリと微笑んだ。そして、ヒラリと原付に飛び乗り、エンジンをかける。
鳴り始めた機械音。それに掻き消されることのないはっきりとした声で、少年は名乗る。
「『クオン』って。そう言えば、わかるから」
「おい、待て!」
それだけ言って、少年は走り去った。
後にはただ、雨の季節の終わりを知らせるような乾いた風が吹いているだけだった。
そんな一日
こんな日常
物語としては、一種の山場です。当然気合いを入れて書きますが、故に空回っているかもしれません。
いや、断定します。空回っていると。
でも、見捨てないであげてぐださいね。(他人事)




