第七十五話 雨とカレーと猫毛布
都合により、物語は間奏を挟みます。
番外編、雨とカレーと猫毛布。
お楽しみください。
騙している人は、騙されていることに気づかない。
偽っている君は、偽られていることに気づけない。
ならば、嘘つきは気づくことが出来るのだろうか?
誰かがついた、遠回しで温かくて優しい、そんな嘘に。
雨の季節の夕暮れに、傘をくるくると回し歩く少年の姿があった。
右手に提げた自前の買い物カゴが、少年の歩みに合わせて前後に揺れる。
その中には、ジャガイモやニンジンといったカレーの材料と思われる食材が詰められていた。
左手に持った傘を相変わらずくるくると回し、少年は家路につく。
いつもは隣にいるはずの買い物のお供、緑髪の彼女の不在に心を揺さぶられながら。
軽やかな足取りとくるくる回した傘で、嫌いな雨に曇る気持ちをなんとか誤魔化しながら。
「まったく。紫音さんも、こんな雨の日くらいバイトを休めばいいのに」
独り言だった。本当はただ、誰か隣にいて欲しいだけだった。
こんな不愉快な、雨の日くらいは。
「……早く帰ろ。ここは寒いや」
傘を回すことも止めて、少年は走り出した。
まったくもって、情緒不安定だ。たかだかこれくらいの雨で。
そう思うのに、走り出した足が止まることはなかった。
「―――ただいま」
そしてこんにちは。毎度お馴染み、みんなの遥人です。
え、いらない?俺いらない?そんな寂しいこと言わずに……。
「ほんと、いらないですよね。遥人さんとか」
「ただいま奈央さん。つーか俺が読者に語りかけたのを勝手に聞かないでね」
「ハイハイ、気をつけてますよ」
鼻で笑ってそう言い切った彼女は、何も言わずに買い物カゴを受けとって冷蔵庫へ向かう。
「無駄に気がきくクセに、どうしておかえりなさいくらい返せないかねぇ」
ため息を吐きつつ、彼女の後を追う。それにしても、相変わらず気立ての良いことで。
買い物帰りの人間に対する気遣いはしっかりわきまえているようだ。食材の片付けを率先してやるあたりがまさにそう。
あと……もう一つ。
「こうやってわざわざホットココアを用意して出迎えてくれるあたり、ほんと優秀なんだけどな。奈央さんって」
居間に向かった俺が最初に見たのは、いれたてホヤホヤで湯気をたてたホットココアだった。
ついでに、イスの上に雨で濡れた部分を拭くためと思われるタオルが一枚。
……ほんと、雨の日の帰宅者に対する気遣いまで完璧だよ。
「何を言いますか、それくらい普通のことですよ。変な勘違いはしないでください」
てきぱきと冷蔵庫に食材をしまいながら、奈央さんはさも当然のように俺の言葉を切り捨てた。
普通のこと、ねえ。
奈央さんが誰にでもこういった気遣いをするのはわかっている。よって、俺だから特別扱いしてくれるんだ、などと有頂天になったりはしない。
しかし、だ。これを普通と言える女の子ってのは、それはそれでかなり魅力的なんじゃないか?
あなたが相手だから、私は頑張っちゃいます。なんて人よりもずっと、それは美しい姿だと思った。
「こういうときだよな。奈央さんに感謝と敬意を示したくなるのは」
「……はっ?」
ほとんど無意識で出た台詞だった。ホットココアの甘さが、俺の口を滑らせたみたいに。
「どっ、どうしたんですか遥人さん!?いきなりそんな、私を褒めるなんて」
最初の言葉はあっさり切り捨てられたのに、二度目の台詞はやけに奈央さんを動揺させたらしかった。
なるほどなるほど。一度じゃ冗談だと思われても、重ねて繰り返せば本気にしてくれるのか、彼女は。
「おかしいです、絶対に変です!まさか、熱でもあるんじゃないですかっ!?」
「……いや、どんだけ信じられないんだよ。余計なお世話だっての」
奈央さんの反応は心外であるものの、成り行きで額に当てられた彼女の手が柔らかくて。
その柔らかさが俺を癒してくれるのは、言うまでもない。
「んー、熱はないみたいですね。でも少し顔が赤いかもしれません」
「……それは、奈央さんの顔が近いからだろ」
つーかこれ、結構本気で心配されてるのかっ!?俺は普段どんだけ奈央さんを褒めてないんだよ!
や、褒めてるだろ普段から。だってこの娘が気立てが良くて役に立つのは事実だから。
「……顔だけじゃなくていろいろ近いんですけどね。あっゴメンなさい。シャイボーイな遥人さんには刺激が強すぎましたねー。失敗失敗☆」
……ナニコレ、腹立つんだけどこの娘。殴っていいの?殴っていいよね?
「もう、本当に顔が赤いですよぅ?いったい何をイヤラシイこと考えてるんですか、遥人さんってばほんとにおばかさんですねー☆」
誰かっ、誰かそいつのセリフにくっついてる星を燃やせェェ!イヤラシイのはおまえの根性だっ!
まぁいい。その手の誘惑行為には真央さんで耐性が付きつつある俺だ。妹より誘惑技術の数段落ちる姉に屈するほどやわじゃない。
「どうして目を合わせてくれないんですか?ねえねえ」
うっせえええ!おまえが人をおちょくって弄んでることはわかってんだよ!んな可愛い目で見つめられたくらいで俺が落ちると思うなよっ!
「……ふーんだ、別に私は構いませんよー。どうせ遥人さんは真央ちゃんで間に合ってますもんね、だから私なんて興味ないんですよね」
拗ねたっ!?ガキか、ガキなのかおまえは!つーかこれ扱い面倒くせえええ!
とは言ったものの、やはりどうにも、頬を膨らまして拗ねる彼女の表情には勝てないのが俺の性であるらしい。
「や、その」
「別にいいですよーだ。こんなのいつものこどですからね、ふんっ」
プイッとそっぽを向いてしまった奈央さんだが、その瞬間に潤んだ瞳が俺の視界にちらついてしまった。
まったくもう。姉妹揃って意味もなく誘惑するのも厄介だが、それ以上に姉妹揃って反則的な表情ばかり見せるのは本当に迷惑だ。
くっそ。その表情が俺のドストライクだとわかってやってんじゃねーだろな、この女。
「なに言ってやがる」
「いだっ」
いつまでもこちらを向こうとしない彼女の額に向かってデコピンを決めてやった。
すると、俺の大好きな涙目で頬を膨らます表情がさらにグレードアップする。
「何するんですかっ!」
「奈央さんが変なこと言うから悪い。俺が奈央さんに誘惑されて嬉しくないわけねえだろが、アホ」
「あっ、アホって言いましたねぇ!アホって言った奴が一番アホだって前に真央ちゃんが教えてくれましたよ!」
「多分真央さんは『こんな屁理屈を真に受ける奴がいたらそいつが一番アホ』って思ってたろうな」
真央さんがテキトーなことを言っているのに、聞いている奈央さんの方は目を輝かせてそれに頷いているのだ。
それは良くある光景なのだが、そんな時は必ず後から『奈央ちゃんで遊ぶのは楽しいですねー』と真央さんが報告してくれたりする。
なんと憐れな姉だろう。そういうところは痛々しいほどにアホな彼女だが、まあそれが意外にも可愛く見えたりするものである。
つくづく自分の好みに疑問が生まれるのだが、せっかく十六余年もの歳月をかけて形成してきた趣味趣向を否定するのは宜しくないだろう。
「むぅ、なんて失礼な奴でしょうか。人様をアホ呼ばわりした挙げ句に開き直るだなんて」
「まーだそんな顔をしますか、おまえは。……まったく、可愛い顔が台無しだろが」
そっと彼女の髪に触れながら呟くと、案の定、例によって例の如く、奈央さんは大袈裟に赤面する。
「なっ、なぬを言ってるんれすかっ!」
おうおう、戸惑ってる戸惑ってる。ほんとこの娘は単純ってか……根は純粋なんだよなぁ。そこが良いんだけど。
「私はあなたのそういうところがいけ好かないんですよ!放っておくとすぐに口説こうとしてくるなんて、不潔ですっ!」
不潔って。てか待てや。俺がいつ女の子を口説こうとしただろうか?俺は女性を慰めたり弄ったりすることはあれど、口説こうとしたことは一度たりともないはずだ。
「そういうことを無意識にやってるから始末が悪いんですよっ!例えばほらっ、気安く女性の髪に触れないでください!」
あまりにも理不尽な話じゃないか、これは。しかしながら、今さら髪に触れるくらいで『口説こうとしている』などと思われているとは予想もしなかった。
「んと、ゴメン奈央さん。でもほら、あんまりプンスカしてると微妙に醜いぞ」
「ほんっっとにデリカシーゼロですねあなたは!醜いとか普通言いませんよ?」
すごく冷たい目で見られている気がするのだけど、何だろうこの視線は。そろそろ取り繕わないと本気で嫌われちゃいそうだな。
「もういいです。あなたに醜いと思われるなら私はむしろ嬉しいくらいですからね。なのでずっとプンスカしててやります」
嫌な極論に達した奴がいます。嫌な奴です、物凄く嫌な奴です。
「あっはっは、残念だったな奈央さん。本心を言えば俺はそっちの顔の方がすげえ好みなんだよ!ざまーみろ」
そう言って、勝ち誇ったように笑ってやる。勝ったな。これはもう勝ったな。
「なんですとっ!?今の方がこっ、好み!?」
「うん。可愛いね、もっと拗ねてよ」
「うっ」
これはまずい。今のままでは私の敗北は必至。なんとか……なんとか表情を変えなくては!
「むむむぅぅぅぅ。こうなったら無理にでも笑ってやるまでです!」
ひきつった笑顔を見せてやる。完璧だ、完璧過ぎるぞ私!あの顔が好みならばその真逆にすれば良いだけではないか。
さあこれで、私なんかに興味をなくしてしまえ!私なんか嫌いになってしまえばいいんだっ!
「うんうん。やっぱり奈央さんの笑顔はいいなぁ」
って、そんなのアリ!?ま、まぁ仕方ない。笑顔が不愉快な場合なんて思ってみればめったにないことではないか。
「そんなっ!ならば……ものすごーく暗い顔で勝負です!」
ドンヨリと全身から暗い影を落とす様にため息でも吐いてみせる。これならばどうだっ!
「元気ないなぁ。よしよし、俺が慰めてやるからこっちにおいで」
「これも駄目!?」
むむむむむ。こうなれば片っ端から表情を作って行くしかないみたいですね。
見せてやります!奥義、奈央百面相!
「ニヤニヤ顔!」
「ニヤニヤ」
「いじけた顔!」
「そそるなぁ」
「鉄仮面無表情!」
「心情を妄想すると逆に夢が広がるぜ」
「すっぱい顔!」
「眠い顔!」
「腹黒な顔!」
「営業スマァァァイル!」
「……はぁ……はぁはぁ……全然、効かない?」
「効かないってか、むしろいろんな姿を見れて嬉しいよ俺は」
息が上がるほどに頑張ってみた私だが、もう限界だ。正直なところ、途中から何をやっても無駄なのはわかっていたけど。
「遥人さんの……変態!」
うわぁぁぁぁん!もうこんな子供みたいな悪口でしか対抗できないぃぃぃぃ!悔しいよぉぉぉおお!
「つーか、そもそも俺は奈央さん自体が好きだから、表情が変わるくらいで嫌いになるわけないよね」
「にゃぁぁぁぁぁああ!」
ちょっ、何この娘!なんかめちゃめちゃ引っ掻いてくるぅぅぅ!てか恥ずかしさのあまり獣化しとるぅぅぅ!
っにしても、ほんとに面白いなぁこの娘は。つい虐めたくなっちゃうもん、真央さんの気持ちも良く分かる。
まぁ本人には悪いことをしたかもしれないけど、嘘を見抜けずに騙される方が悪いんだから仕方ない。
「にゃぁぁぁぁぁああ!」
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。
「引っ掻くな引っ掻くな!そしてじゃれるな!まったく奈央さ」
ガリッ!
「っっってえええ!ちょっと待て奈央さん!何で本気で顔を引っ掻いてんだよおまえは!」
「にゃーー」
ガリッ!
「だああああああ!ちょっ、ゴメン、ほんとゴメン!謝るから止めろォォ!」
その声に反応してくれたのか、猫奈央のみだれ引っ掻きは一旦の終焉を迎える。
しかし、俺がほっと一息ついたのもつかの間。背後に気配を感じた瞬間、首筋に白くて華奢な指が食い込んでくる。
「にゃー♪」
「っ、いつの間に背中に」
俺の正面から姿を消した彼女は、気づいた時には背後から両腕を俺の首に回していた。
そして恐ろしいことに、可愛らしくにゃーなどと鳴く彼女の指は爪ごと俺の首筋に食い込んでいた。
「いだだだだだだだだ!痛いっ、痛いからっ!ギブギブ、奈央さんギブ!」
「にゃーー」
ガリッ。
「ぎゃぁぁぁあ!ちょっ、そこ頸動脈ぅぅぅぅ!」
血はっ!血は出ていないのか?俺は助かったのか?
奈央さんの様子は……って、なんか瞳を渦巻き状にして頭上にひよこを飛行させてるぞ!
混乱だっ、明らかに混乱しているっ!こんなときは一度他のポ○モンを前に出して……。
いや、良く考えたら奈央さんはポケ○ンじゃねえや。とりあえず説得を試みよう。
「はいはい奈央さん。こっちを見て。俺がわかる?」
「にゃー?」
徐々に瞳が光を取り戻し、ようやく焦点もこちらに合わさったようだ。
にゃーとか言って首を傾げる奈央さんも可愛いけど、はっきり言ってこれじゃ使い物にならない。
俺が求めるのは可愛いくて労働力になってあと人語を話せる奈央さんなのだ。
ということで、いざ説得開始。
「良く聞けよ奈央さん。今夜はカレー。今夜のメニューはカレー」
「にゃー……かれー?」
「そう、カレー。そして俺や真央さんは、奈央さんの作ったとびきり美味しいカレーが食べたい」
「わたしの……おいしい……かれー?」
「うん。だからさ、手伝ってくれるかな?夕飯の支度を」
「おてつだい……おゆうはん……」
そんな風に言葉を復唱しながら、猫奈央は少しずつ在りし日の記憶を取り戻していった。
にゃーにゃーにゃーにゃーにゃーにゃーかれーかれーかれーかれーカレーカレーカレーカレーカレー。
「……………」
ぱたり。
「え、気絶?」
倒れた奈央さんに近づいて、閉じたまぶたを開いてみる。
うわぁ、意識ねえでやんの。こんなに反動がでかいのかよ、猫化。
また今度……とも思ったけど、どうやら猫奈央も今回限りで見納めかな。
「……おやすみ。起きたときにはホットココアでも用意するよ」
お姫様抱っこでソファーに身を移し、猫柄が可愛らしい薄手の毛布をかけてやる。
さて、じゃあ。
「カレー、作りますかね」
その後目覚めた奈央は、毛布に包まれながら料理に勤しむ彼の後ろ姿を眺めていた。
それでもしばらくは寝たままのフリをして、ホカホカのカレーとホットココアが用意されるのを待つ。
夕飯が出来上がり彼が揺り起こすまで、奈央は妙に満たされた気分で毛布に包まれていたのであった。
『第七十五話 間奏 雨とカレーと猫毛布』END
次回『第七十六話 消失の日々、日々の消失(後)』に続く。
こんな一日
そんな日常
後編を掲載できるまでに、おそらく長い期間の空白ができてしまう状況。
そのため、前に大部分を書き終えてそのまま放置していた話を、加筆修正の上間奏として掲載。
では、引き続きの愛読(?)と感想お気に入りの支援をお願いいたします。