第七十二話 向上心さえ有り余る
「ふッ……ほッ……はッ……よッ」
雨の季節の到来を告げるかのような、そんな曇り空の日だった。それを俺たち日本人は梅雨と呼ぶのだけれど。
「ふッ………はッ……」
梅の味を思い浮かべたときに口内に湧き出る唾液を連想する。そんな訳で、俺にとっても今は確かに『梅雨』。
こんにちは、遥人です。水の滴り土香る、そんな六月初頭のおやつ時です。
何気ない空腹を覚えた俺は、腹ごしらえにお菓子を求めてリビングへとやって来ました。
すると……なんですかねえコレは。
「ふッ……ほッ……せいッ!」
何やら体育会系の音声がリズム良く漏れだしているではありませんか。
俺は座布団に横になり額に汗を浮かべる女の子に問いかけます。見下ろしながら、見下すように。
「……何してっとですか、奈央さん」
「それは……ふッ……何処で習った……はッ……古文ですか……ほッ……遥人さん」
ひでえ。バリバリの現代語を捕まえて古文とは。
「……てか、まず腹筋をやめろ。どこの体育会系だよおまえは」
顔を紅潮させながら、なおも彼女は上下運動を怠ることがない。
「嫌ですよ、私にはもう腹筋しか残ってないんです」
「なにその切迫感。腹筋しか残ってないってあれか?軽くバラバラな感じなのか奈央さんのボディは」
「ボディとか言わないでください。セクハラですよ」
じゃあ何だよ、肢体か?バラバラとかけてしたいにしろってか?よっぽどもセクハラ臭いだろうがっ!
「……ええい、とにかく止まれッ!」
ピタリと二本指で彼女の額に触れる。望み通りに、しきりに続いていた腹筋運動が停止する。
「きゃっ、なにっ?」
いきなり額に触れたのがいけなかったのか、奈央さんは運動により紅潮した顔をさらに深紅に染め上げて慌て出した。
「なんか、そのリズミカルな感じと漏れてる声が気に入らない」
「黙ってくださいっ」
俺と目を合わせながらむっと口を結んだ彼女は、返答に合わて勢い良く体を持上げる。
俺の二本指を振り切った奈央さんの額が、ちょうど俺の額を強襲しゴチンと鈍い音を立てた。
「ッてえ!なんでいきなり頭突き!?」
「乙女の努力に害なす男なんてゴミです」
「乙女のする頭突きじゃねえ!そして乙女の口のきき方ですらもねえ!」
涙が出るほど相変わらずな彼女を前にして、ようやく『相変わらずでない部分』に目をやった。
じっと、目を見つめる。
「な、何ですかっ?」
いつもの如く、一度目を逸らしてからあたふたとこちらに目をやる彼女。腹筋運動を停止したというのに、何故か顔は紅潮する一方である。
「いや、そういえば何で腹筋やってんの?(半引きこもりの反運動主義人間にしては珍しいよなぁ)」
「今さらそれを聞きますか?(つーか括弧の中でなんか言ってんのわかってんだぞ表に出ろ)」
「あっはっは、そんなに今さらかなぁ?(てかなんで意志疎通できてんの?これ何さ、テレパシー?俺たち実は物凄く仲良しじゃね?)」
「死ね(死ね)」
「括弧の意味なっ!復唱すんな!」
どうしてこの女はこうも俺に楯突いてくるのか。正直疲れない?と聞いてみたくなる程だ。
つーか俺は疲れた。
「で、何で腹筋?」
「……デリカシーのない男ですね。乙女にそれを言わせますか」
「もういいよ、だりーよ。乙女とかだりーよ、気持ち悪いんだよ、もう」
「遥人さん!?なんでいきなりそんな荒んでるんですかっ!?」
いや、だって、だりーもん。何だよ乙女って、どうせ俺は乙女心なんかわかんねえよ、期待すんなよ。
「……仕方ないですねぇ、教えますよ」
「ハイハイ、手短にね」
「人の話を聞く態度じゃないっ!?」
明後日の方向を向いて欠伸をしてみせた俺に、すかさず突っ込みを入れる奈央さん。そんなとこばかり妙に優秀だ。
「ですから、ダイエットですよダイエット。前にも言ったでしょう」
彼女は少し咳払いしてから、声のトーンを落としそう答えた。俺はテンションを二三段落として淡白に答える。
「……へぇ」
「や、へぇって……それは反応としてどうなんでしょう?」
「いや、あまりにも下らないと思って」
彼女の体を一通り見回して、やはりつまらない話であることを確認してからそう言った。
「また失礼な。それもこれも元はと言えば……」
「俺のせい、だっけ?」
「……そうですよ」
そっぽを向いてしまった奈央さんをよそに、俺はようやくある時の記憶を取り戻し一人納得した。
そうだ、前に弁当を作ったときにも彼女は同じことを言っていた。そして、その原因は……。
「遥人さんが『ちょっと太った?』なんて言うから、私はこうやって腹筋を繰り返す羽目になったんです」
頬を膨らませて答えた可愛らしい彼女の目的は、お腹を引っ込ませることであるらしい。
最近の奈央さんが食事制限などをしていることを思い出すと、確かに申し訳なく、デリカシーのないことを言ってしまったのかもしれない。
「でも、俺の一言くらいでそんな」
「女の子っていうのは、太ったなんて言われたらいてもたってもいられないんですよ!……言ったのが、誰であっても」
言ったのが、あなたなら尚更。そう言葉にすることのできない彼女の面倒なこと、どうも厄介である。
「そういうもんか」
「そういうもんなんです。勘違いししないでくださいね」
自分が言ってしまったことにより過剰に悩ませてしまった訳ではないらしく、俺はふっと息を吐いた。
安心したような、でもちょっとだけ物足りないような。そして、それ以上に感じた不思議な感覚。
「でもなんか、嬉しいな」
「はっ?」
首を傾げた奈央さん。俺はそっと彼女の頭を撫でると、自然に呟いた。
「まがいなりにも俺の言葉に奈央さんがそんなに反応してくれたからさ。なんか嬉しいなって」
俺の言葉を聞き取った奈央さん。その顔が、笑ってしまうほどにみるみると赤らんでいく。
「……だから、遥人さんが言ったとかは関係なくて……」
「えっ?」
いつもの反論とは違い、ぽつりと呟くように言った彼女。膝を抱えて座ったところに顔を埋めて、何やら自分に言い聞かせるように繰り返している。
「だから……遥人さんは関係なくて……私は」
その姿が何だか可愛くて、俺はニヤけた顔を隠せないまま奈央さんの頭を撫で続ける。
不意に、遊ばれていることに気づいた奈央さん。頭に乗せられた手を振りほどき、キッと上目遣いにこちらを睨んでくる。
「もうっ、遥人さんはくだらないことを言ってないで、暇なら私の足を抑えててください!」
まだ続けるんだなぁ、腹筋。半ば呆れつつも、自分でまいた種であると知ってしまった俺は手伝わないわけにもいかない。
「まったく……うるさい人ですよ……ほんとに」
呟くように愚痴をこぼす奈央さん。俺はその両足をいきなり抱え混んで、彼女を座布団に寝かせた。
「っきゃぁぁぁぁっ!ななななんですかいきなりっ」
「や、奈央さんが言ったんじゃん。暇なら足を抑えててろって」
「そりゃそうですけどー……」
あたふたと落ち着きのない彼女だったが、やがて疲れたようにため息を吐くと再び腹筋運動を開始した。
「じゃあ行きますよ。……あの、一緒に数えてくださいね」
寝そべったまましおらしく頼まれると、これはもう本能的に断れない。俺はすぐさま頷いて、彼女の折り曲げた足を抱えるように抑えつけた。
「……よいしょっ、いーち」
「おっけ、いーち」
「にーーいっ」
「頑張れ、にーい」
数を数える度に、近付いては遠ざかる奈央さんの顔を観察していた。
口元をキュッと結んで精一杯に状態を起こす表情。それでいて、俺の顔のすぐそばまで近付くとすぐさま目を逸らす。
そんな反応を何度も何度も繰り返し見ていた。彼女が回数を積んでいく度に。それでも、なかなか飽きないのは何故か。
この表情。そして仕草。僅かにこぼれる喘ぎ声。微かに感じる彼女の香りは、少しだけ汗が混じってしっとりとしている。
うん。これはなんだか……。
「なんか、シュールだな」
「しゅっ、シュール?」
突然力を吸い取られたように上体を力なく倒した奈央さんは、俺を見据えると足をばたつかせながら反論した。
「人が精一杯やってるのに、それを間近に見てシュールとはなんて言い方ですかっ、酷いですよぅ!」
もっと言えば、できる限り変な顔にならないように気を遣って上体を起こしていた努力を否定するのはあんまりだ、と言いたいのだが。
そして、遥人が言いたかったのも本当はそんなことでは無かったのだが。
どちらも恥ずかしいくて、本当のことを言えなかった。ただそれだけ。
「いや、冗談。ちょっと必死な顔が面白かったから」
「うぅ、失礼な男です……」
さりげなく気落ちする奈央。その様子をうっかり敏感に察してしまった遥人。
「あ、いやその、実は言いたかったのはそうじゃなくて……」
敏感に察してしまったからこそ。遥人は素直になれた。そういう男だからこそ、奈央は優しい言葉をかけて欲しかった。
「本当は、なんか可愛いなって思ってさ」
「か、可愛い?」
最初のシュール呼ばわりとはむしろ真逆。奈央にとっては、嬉しい恥ずかしの小さな逆転劇。
「うん。必死な感じとちょっと恥ずかしがってる感じがなんか……」
「ふぇ?……なんか?」
不思議そうな顔をしながらも、その瞳は次に発される言葉に溢れんばかりの期待をかけているようだった。
「なんか、そそる」
「……なんか、セクハラちっくですね」
あれ?微妙に期待を裏切ってしまったか?どうも淡白な反応の奈央さんを見ると、失敗した気がする。
「まったく、遥人さんはセクハラばっかりで困りますよ。……ふんっ」
いや、存外失敗という訳でもないらしい。彼女の反応からその事実を読み取ることができたせいか、俺はいつの間にか自然に笑えていた。
「何をニヤニヤしてるんですかっ!……もうっ、腹筋はこれで終わりにしますからね!」
真実は、嬉し恥ずかしに耐えられなくなってしまっただけなのだが。それは言わないまま、足を抑えていた手を振りほどき立ち上がる。
「ほら、何をぼけっとしてるんですか。おやつの時間です。私のどら焼きを持ってきてください」
「へいへい」
ダイエットしててもおやつは必ず食べてるよなぁとか、何で俺が召し使いと化してるんだよとか、あのどら焼き狙ってたのに奈央さんのだったのか、とかいろいろ思うところはあるものの、頑張って運動した彼女をいたわる意味も込めて素直に従ってやることにした。
「どうぞ、お嬢様。ご所望のどら焼きです」
「くるしゅうないです」
「お茶をいれて来ますので少々お待ちを」
「よい心掛けですね、褒美は弾みますよ」
一礼して、キッチンへと足を運ぶ。俺が茶をいれている間、奈央さんはどら焼きをかじりもせずにじっとこちらを見つめていた。
見つめられっぱなしも何やら間が悪いので、軽く会話をしてみることにした。
「そういえば、腹筋は毎日やってんの?」
お湯が沸くまでの、ちょっとした時間稼ぎ。……あと、できればどら焼きを食べる前に席について、少しおこぼれを頂きたいなぁ、なんて。
「ええまぁ。毎日ですね」
「ふうん……今日はともかく、晴れた日は外でランニングでもすればいいのに」
その方が余程効果的だろう、と付け加えておく。
「イヤですよ。ランニングする奴なんてクソです。インドア万歳です」
「なにその……なんつうか、織崎病?」
ごめんなさい紫音さん、悪気はないんです多分。ちょっ、叩かないで叩かないで!って、勝手に脳内に現れないでくれ!
「それは織崎さんにあまりに失礼ですよ。いくら元ヒッキーとは言え」
「わかってるよ。じゃああれだろ、太陽の光を浴びると消えちゃうやつ」
お湯が沸いた。湯飲みに丁寧に注ぐ。雨の香りで支配された部屋に、淑やかな緑茶の香りが充満する。
「気をつけてください。今夜あたり血を吸いに行きますから」
「来たら来たで帰さないけどな」
そんな他愛のない会話も、ここで一旦お休み。俺は手際良く湯飲みを運ぶと、自分も奈央の正面に腰を下ろす。
「ありがとう。じゃ、いただきます」
「どーぞ」
ぱくり、と奈央の口がどら焼きに食いつく。どうやら緑茶がくるのを待っていたらしい。
合わせて食べると美味いもんね、緑茶と和菓子は。
本当に、美味しそう。
「……遥人さん?」
「ん?」
「あの、そんなにじーっとどら焼きを見詰められると食べにくいんですが」
それでか。はむっと噛みついたまま停止していたのは。俺を焦らす為かと勘違いした。
「いや、気にせず食べなよ」
「そうは言っても……」
と言いつつ、彼女は丸いどら焼きの一角を美味しそうに口に運んだ。じっと見つめる俺も、なんだかよだれが出そうな。
「はむはむ……ん、美味しいですねこれは」
「おー」
おっと、よだれが。しかし、ちょっと分けて貰おうと考えていた俺だが、奈央さんがあんまり美味しそうに食べてるもんだから言い出し難い。
……ま、いっか。こうやって奈央さんを眺めているだけでも、わりとおやつの役割を果たしてしまいそうだから。
そう、諦めようとしたときだった。奈央さんはおもむろにどら焼きを半分に割って見せたのだ。
「ねぇ……半分だけ、あげる」
「は?」
「なんですか、その目は。半分だけですからね」
どういう風の吹きまわしだ?奈央さんが俺におやつを分けてくれるなんて。
ああ、あれか。
半分こしたどら焼きを掲げ上げて、はいあげたーぱくっ。というパターンなのか。
「奈央さん、さすがにそれは姑息じゃね?」
「……?なんでもいいですから、さっさと受け取ってくださいよ」
いや、なんでもよくないよね?俺からしてみるとあまりの不自然さにいっそ幻覚の可能性を想定するレベルなんだけど。
「……なんですか?」
「いや、それ俺のセリフ。なんで分けてくれんの?」
一応、半分こになったどら焼きの片方を受け取りながら問いかける。案の定、彼女は目を逸らす。
「別に、遥人さんが欲しそうにしてたから」
やっぱりだ!やっぱり何か隠している!何かを企んでいる。この目の逸らし方だ、間違いない。
(うぅ、遥人さんは黙って受けとればいいんですよ!理由なんて聞かずに……)
奈央の陰謀を疑う遥人。遥人に勘違いもとい思いがばれてしまわないかと怯える奈央。
思いきりすれ違う二人だが、それがある意味いつも通りなのだから同情を誘うことこのうえない。
「……奈央さん、なんか俺に隠してない?」
「ぎくっ」
(やっぱりだ。あの反応、何かを企んでいる!)
(ちちち違うんですよ遥人さん!私は別に二人でおやつを楽しみたかったとか、お茶をいれてくれたお礼をしたかったとかそんなんじゃないんですよ!)
どんどん明後日の方向に飛んでいく二人の会話。分が悪いのはどちらか……。
「奈央さん。実は俺だっていつも同じようなことをしようとタイミングを計ってたんだ(俺だって何度飲食物に悪戯を仕掛けようとしたか)」
「お、同じことをですか?(気づかれてる!完全に気づかれてる!でも、遥人さんも私のことをそんなに気にかけてくれてたんだ……)」
「でも俺はしなかった。何故だがわかるか?(なんとか説得して自首してもらいたいな)」
「それは……(やっぱり恥ずかしいから?でも、私だって恥ずかしいのは同じなんですよ!)」
二人のすれ違いは、思わぬ展開を迎える。余談だが、今回の序盤は互いに伝わっていた括弧中の会話も今は伝わらないようである。
「それはね、(食べ物は)大切だからさ。(食べ物は)自分が汚してはならないと思ったんだ」
「た、大切!?(それって……それって……)」
「だから、こんなこと(食べ物を使った悪戯)はもう止めよう。俺たちの関係を壊すだけだよ」
「遥人さん……(このままの関係でいる方が幸せだってことですか?そんなの私は……)」
被害妄想を膨らます遥人と、純然たる妄想を繰り広げる奈央。このまま進んでいくと何か大変なことになりそうな。
そんなことは露知らずの遥人だが、そこは持ち前のフラグクラッシャーぶりを無意識で発揮するのがこの男。
「よし、じゃあとりあえず、どんな毒物を混入したか教えてもらおうか」
「遥人さん、私は今のままじゃ……え?」
「下剤か?プロテインか?それともまさかアコニチ……え?」
―――ただいまの会話に大変お見苦しい点がございましたことを深くお詫びいたします。暫くお待ちください。
「ダイエットのためですからね!勘違いしないでくださいよ!」
そそくさと半分のどら焼きを手渡した奈央は、恥ずかしさをまぎらわすようにすぐにどら焼きに噛みついた。
はむっ。もきゅもきゅもきゅもきゅ。
深読みのしすぎに反省しきりの遥人が、どら焼きを申し訳なさそうに受け取った。
さて自分も一口。そう思ったところで、自然と手が止まってしまった。
ただの一瞬で、目の前ではむはむとどら焼きを貪っている女の子に目を奪われてしまったから。
赤らんだ頬。どこか落ち着かない仕草。チラチラとこちらの様子を窺ってくる綺麗な瞳。
目の次に奪われたのは心か、遥人は自分でも気づかないうちに彼女に問いかけていた。
「ねえ、まだダイエット続けるの?」
その問いは、奈央からしてみればあまりにも唐突なものだった。そのせいか、頭の中が整理できないままに答えた。
「ふぇ?もちろん続けますよ、誰かさんに太ったなんて言われたくないですから」
失言をしてしまったように思った奈央だが、これはこれであらゆる意味で受け取れる都合の良い言葉であることに気づく。
「はぁ、そっか」
うまくやり過ごした……はずなんだけど、遥人の反応は芳しくない。何やら落ち込んでいる様子だ。
「奈央さんはさ、綺麗だよね」
「!?」
お茶を一口。そう思って湯飲みを傾けていた奈央は、遥人の突然の発言に恥ずかしげもなく吹き出してしまった。
「……あの、遥人さん?」
「俺はさ」
いきなり何なんだと言いたかった奈央の言葉は、すぐに遥人に遮られた。その静かなる勢いに、奈央は息を飲んだ。
「俺は、今のままの奈央さんがいいよ」
「何を言って……」
「人間として少しくらい肉付きがある方が、俺はいいと思うよ」
「だから、何を」
「俺はっていうか、みんなそう思ってるよ。ぶっちゃけた話、奈央さんに太ったって言ったアレ、からかおうとしてついた完全な嘘だし」
「なぁんだ嘘なんだ……って、はぁぁぁぁ?」
嘘なの!?じゃあ何?私がここ数週間食べ損ねたお肉は?いっぱしに乙女の悩みを抱えちゃった日々は?
「どういうことか説明してもらいましょうか?」
「だから、ダイエットを止めろ」
「いやだから、説明責任をですね」
「いいから!」
良くないですよ!良くないけど!……なんでしょうか、彼のこの熱っぽい感じは。
私のことを、なんだかすごく必死で。人の話さえ聞かないくらいに必死で。こんなに熱く。
……悪い気は、しないかも。
「いいから、ダイエットなんてもう止めろ。慣れないことすんな。我慢ばっかりを当たり前にするな」
悪い気はしない。むしろ嬉しいのだ。無理やりに束縛されるくらいが、私には心地よい。
逃げ道も進む道も閉ざして、私をこの日常にがんじがらめにしてくれるなら。
それなら私は、本当はそれを望みたい。本当は、だけど。
「勝手ですね。私は別に、遥人さんの意思でやってるわけじゃない。私がやるのは私のためです」
相変わらず、妙なほどに向上心の高い奴だ。遥人は奈央をそう評価している。
だから好き。誰にも止められないくらいどんどん進んで行こうとするその飽くなき向上心が羨ましい。
誰よりも早く最善を予測して走り出せる。それは怖いくらい優秀な人間にしかできないこと。
そして悲しいくらい、強い人にしかできないこと。それを当たり前にやれることが、妬ましいほどに羨ましいのだ。
例えるならそう。
本当に、ずるい女。
「それでも、止めて。俺が好きなのは今の奈央さんだから」
そんなことを言われてしまっては、逃げ道なんてないのに。
進む道も逃げる道も閉ざされて、それでも自分はこのままでいたいと思わされてしまう。
そう思わせてしまうことこそ遥人の怖いところだと、奈央は評している。
だから嫌い。嫌いになっておかなければならない。
「……私は、そういうあなたが嫌いですけどね」
そう吐き捨てることしかできなかった。だって、卑怯じゃないか。
本当はただ『無理をするな』って言いたいだけのはずなのに、そのうちに私を口説き落としにかかってくるのだから。
本当に、大嫌い。
そして、どうしようもないくらいに。
ずるい男。
「仕方ないですね、ここは遥人さんを立てて止めましょうか。ダイエット」
「……止めてくれるなら、わざわざ嫌いとか言う必要なくね?」
「あれ?さっきのこと気にしてたんですか?」
せっかく私が自ら縛られてやったというのに、この男は何をしょぼくれているのやら。
「いや、気にしてないよ。いつものことだし、今さらだし」
どう見ても落ち込んでいるのだけど、別に慰めなくてもいいかなと思った。
いつもいじめられてる分、今ここでいじめ返してやるのだ。
「さて、じゃあもう減食の必要はないですね。……これ、返してもらいますよ」
落ち込む遥人の手からひょいっとどら焼きを盗み取ると、すぐに一口頬張ってみせた。
「はい、これで私のものになりました」
唖然としている遥人。落ち込んでるなぁ。その表情が悪戯心をそそるとは知らずに。
「あー、奈央さん?あの、俺がすでに一口食べてたの知ってた?」
「……うい?」
「ちょうど、奈央さんが食べちゃったとこ」
私が彼から奪ったどら焼きが指さされ、同時に私は自分の過ちを理解した。
「あ……これって……まさか」
「間接的なアレだね」
徐々に青ざめていく奈央。その姿を見た遥人が、やはりいじめ慣れてない人間がやることには限界があるのだと悟った。
「まぁ気にするな。一緒に住んでればいくらでもあることだから」
そう言った遥人は、奈央から食べ掛けのどら焼きを奪った。奈央がはっと手を伸ばしたときはすでに遅く、どら焼きは遥人の中に消えて言った。
「ほらよ、これでおあいこだろ」
「うー!うぅーー!」
「鳴くな、慣れろ」
とは言っても、涙目に顔を爆発せんばかりに紅潮させた奈央には到底無理な話だろうが。
そして、その夜奈央が歯磨きをしようかしまいか迷ったのはまた別の話。
雨の季節の午後。やがて二人の間に降る雨を和らげるかのように、少しだけ歩み寄ったその日。
それさえもやはり、雨水とともに流されて行く、その程度の日々。
こんな一日
そんな日常
今回は頑張ったな!無駄に頑張ったな!うん!