第六十九話 明日、晴れますように
五月中旬。やがてやってくる雨の季節を思い起こさせるように、不愉快な雲が空を覆ったその日。
雨は、あまり好きになれない。少年がそう感じたのは、何故か。
一つの傘で並んで歩いたあの日も、虹に思いを馳せたあの日も、雨は温かかった。
でも、あの日。去年の梅雨明け直前の六月下旬。
大切な人の葬儀の日に降ったあの雨の冷たさを、いつまでも消せないでいた。
「……今日は、降らなきゃいいけど」
虚ろな瞳で呟いた少年は、いつまでも雲だらけの暗い空を眺めていた。
「遥人くん?」
不意に、優しく肩を叩かれる。はっとして、遥人は我に帰った。
「……っと、どしたの?」
取り繕うようにそう言った遥人だが、彼女が『それはこっちが聞きたい』と目で訴えかけているのがわかった。
「いや、その、ちょっと考えごとをね」
あげく、どしたの?と問うた自分からこのように答え始める始末。なんか、一人言みたいで痛いな……。
「考えごと、ですか?」
「まぁ、大したことじゃないけどね」
何を考えていたのか、なんて質問は避けて欲しいかな。そういう意図を込めて、はぐらかすように答えた。
一瞬、怪訝な顔をした彼女だったが―――彼女、空栄小夜は、その意図を見事に汲み取ってみせた。
「遥人くんには、ここはちょっと退屈だったかな?」
「や、そんなことないよ」
正直に言えば、少しだけ退屈していたところなのだが。なにせ、ここは大型デパートのぬいぐるみ売り場である。
女の子、とくにぬいぐるみ好きな小夜ちゃんなんかはともかく、俺にはあまり楽しみのない場所だ。
けど、今日はせっかく小夜ちゃんと出掛けてきたのだ。彼女に楽しんでもらえなければ、意味がない。
「ごめんなさい。何だか、無理に付き合ってもらっちゃって」
どうも浮かない顔をしている遥人に、小夜が申し訳ないくらい申し訳なさそうに頭を下げた。
まったく。この娘はどうも、他人に遠慮し過ぎなところがあるよなぁ。俺は、無理に一緒に来た訳じゃないのに。
「俺が来たくて来たんだから、そんな風に言わなくていいんだよ」
「でも」
でも、やっぱり元気が無いように見えたのだ。小夜の目に写る遥人の表情が、彼女を妙に不安にさせた。
「何か、嫌なことでもありましたか?」
「え?」
ふわふわした猫のぬいぐるみを抱いた小夜ちゃんが、心配そうに上目遣いで俺を見ている。
心配……されたのか。
俺はいつも、できるだけ笑顔でいるようにしている。誰かに心配されるのが嫌だから、気持ちを悟られないようにするためだ。
けれど、前より少し、隠すのが下手になったのかもしれない。それが、成長なのか退化なのかはわからないけど。
「……いや、ちょっと眠いだけだよ。なんかほら、こういう顔を見てるとね」
近くにあった間抜けな顔の犬のぬいぐるみを手に取って、大きく欠伸をしてみせた。
誤魔化しとはいえ、本当に眠くなってきそうだな。このぬいぐるみ。
「確かに、何だか眠くなりそうな顔ですね」
俺の答えに安心したのか、彼女は無邪気に笑ってみせた。その笑顔を見たら、俺も何だか気持ちが晴れた気がして。
そうだ。みんなにはこういう笑顔でいて欲しいから、俺は嘘だって吐くしいくらでも強がれる。
そう思ったらもう、嫌な空のことは忘れていた。自分が見なくちゃならないものも、理解した。
「それに、ほら。安心すると、何だか眠くなるものだよね。人間は」
その言葉に、小夜ちゃんはきょとんとして首を傾げた。そんなに意外な発言だったかな?
「そんなに安心するんですか?その……私といるだけなのに」
「するよ。こうやってぬいぐるみを選んでる小夜ちゃんを見てたら、よくわかんないけどすごく落ち着いたんだ」
こんな可愛らしい姿を眺めていたら、嫌なことなんて全部忘れられる。俺は見るべきは空じゃなく、彼女なのだ。
「でも、私ですよ?」
私なんかですよ?と彼女は繰り返した。それが俺にとって、妙に不服だったのは何故か。
「私なんて、あかの他人じゃないですか。それなのに」
「あのアパートに住む人はみんな家族だよ。俺は、そう思ってる」
嫌だった。自分たちはあかの他人だと、その事実を突き詰められるのが、どうしても。
「みんながどう思ってるかは、知らないけどね」
知らないけど、そう思っくれていると信じたい。そう思ってくれるように努力したい。
それが、あのアパートの管理人としての務め。そして、あの輪を壊さぬための務めなのだ。
「……私も、そう思いたいです」
小夜ちゃんは笑った。そして、ぎゅっとぬいぐるみを抱いて、はっきりと俺にそう答えたのだ。
良かった。こんな風に思ってるのが自分だけじゃなくて、本当に良かった。
ここでようやく、俺は本当の意味で安心できた。だから、湿っぽいのはここまでにしよう。
「てか小夜ちゃん。売り物を我が物顔で抱き締めるのはそれ、どうなんだろう」
「へ?……ああっ、そうでした!」
大切そうに抱いていたぬいぐるみを、そっと売り場に戻す。すると、心なしか寂しそうに俯く彼女。
や、そんなに気に入ったんなら買えばいいじゃん。
そう目で訴えかけた俺だが、小夜ちゃんはじっとぬいぐるみを見つめているだけで、結局買おうとはしていないようだった。
「気に入ったんでしょ?買えば?」
堪らず、俺は彼女に進言する。すると、間髪入れずに首を横に振られた。
どうして?
「実はその……さっき財布を落としまして」
「っておい!早く言おうよそれを!」
大変じゃねえか。早く探さないと。
「いえ、あの、失くしたではなく落としたという言葉を使ったのがミソでして」
や、クイズやってる場合違うから。てか、いったいどういうことだ?
「道中に、湖がありましたよね?」
「いや、あったけど。まさかだろ?」
今日の俺たちは、珍しく電車を使って遠出してきた。初めて来たその場所には綺麗な湖があった。
そこで小夜ちゃんは、泳いでいる鴨にエサをあげたのだ。可愛いものはぬいぐるみから動物まで大好きらしく、随分とはしゃいでいたと記憶している。
「あはは、ちょっと鴨さんが可愛い過ぎましたね」
「ましたねじゃないから!本当にあそこに落としたのかよ!?」
「はい。何故かお財布が都合よく跳ねて転がって、最後にポシャンと」
「どんな財布!?スーパーボールかよ!」
アホォォ!小夜ちゃんにこんなこと言いたかないけど、アホォォ!
「そういえば、すごくはしゃいでたのに、途中から妙に静かになったよね」
「あんまり間抜け過ぎて、言うに言えなかったので……」
まぁ、確かに言い難いけどね。てか、『鴨さん連れて帰りましょうよ!』とか言ってたのに財布連れてかれちゃったのかこの娘。
「えと……ごめんなさい」
何で謝るのか。そして、何でそんなにも運が悪いのか。まだまだ出会って二ヶ月だ。空栄小夜という少女の謎は、当分解けそうにない。
「しゃーない。ここは俺が、男を見せますかね」
「何だか、深く考えると卑猥な言葉ですね」
「黙らっしゃい」
微妙に空気が読めないのも、この娘の特徴の一つかもしれないな。
そう思いながら、俺は彼女が見つめていた猫のぬいぐるみを手に取った。
「えっ、遥人くん?」
戸惑う小夜ちゃんを無視して、一直線にレジに向かう。店員さんが微笑ましげに、ぬいぐるみを包装してくれた。
って、怖いくらい気がきく店員さんだな。小夜ちゃんの百倍は空気読めるよこの人。
敬服を込めて丁寧に頭を下げると、俺は戸惑い固まる小夜ちゃんの元に小走りで戻った。
「はい、どーぞ」
有無を言わさぬ態度で、彼女にぬいぐるみの入った紙袋をつきつける。ちょっと、恥ずかしいな。
「これ、私にですか?」
あんぐりと口を開けて、唖然としながら彼女はそれを受け取った。
「ん。プレゼントね」
恥ずかしさを紛らわすために、短く答えて明後日の方向を向いた。小夜ちゃん、あんまり俺を凝視しないでくれ。
しばらくの沈黙の後、彼女はついに紙袋を胸に抱いた。すごく、大切そうに。
「ありがとうございます。……宝物にしますね!」
「や、別にそこまでする必要はないけどね」
やっぱり、なんか恥ずかしいなこれ。上目遣いにこちらを見つめる小夜ちゃんの顔を、正面から見ることができない。
小夜はと言えば、嬉しさに笑い、耳まで真っ赤な遥人に笑い、密かに忙しい精神状態だったりする。
「んじゃ、そろそろ次行きますか」
「はいっ。次はどこへいきましょ……きゃっ!」
後ろで小さな悲鳴をあげた彼女。何事かと振り返ると、そこには見事に転倒した小夜ちゃんがいた。
いや、なんでコケた?
ものっそ平なのになぁ。ここで転倒できるのは、正面結構な高等技術なんじゃないか?
とまぁ、失礼な感想はさておき。助け起こさない訳にもいかないからね。
「うぅ、痛いです……」
「そらね。痛いっしょ」
「うぅ、なんか対応が冷たいです」
微妙に落ち込んでいる様子だ。自分が情けなく思えてくるのも、十分わかる状態だしね。
俺は、力なく床に座ったままでいる彼女の前に、そっと手を差し出した。
「さ、お手を」
「あっ、はい」
不思議なことに、小夜ちゃんは手を取った瞬間に顔を真っ赤に染めた。同時に、何かを隠すように俯く。
手、あったかいなぁ。
俺はもう一度しっかりと彼女の手を握って、そのまま歩き出した。
なんか、手を離すタイミングを逸してしまったのだ。どちらともなく、二人は手を繋ぎながら歩くことを選択した。
「今度は、本物の猫でも見に行ってみようか?」
「はい、行きたいです!」
「了解」
あっさりと進路を決めて、二人は歩き始めた。繋がれた手が、二人の関係をどこかぎこちないものにしていた何かを取っ払ったようだ。
『みんな家族だよ。俺はそう思ってる』
彼の言葉が、その意味が、いつまでも小夜の中で巡っていた。
遥人くんだけだよ。そんな嬉しいことを言ってくれたのは。
久しぶりだよ。こんなに嬉しいプレゼントをもらったのは。
初めてだよ。こんなに、あたたかい手は。
そう心で呟いて、小夜は真っ赤に染まった顔を気にしながら、その手に全てを委ねた。
遥人は、手から伝わる家族の温もりに、曇り空の憂鬱を忘れた。
雨の季節は近い。心を深く濡らす、冷たい雨。
けど、その前に、こんな温もりを知れて良かった。寂しがりやな二人は、同じようにもう一度、ぎゅっと手を握り直した。
『明日、晴れますように』
空が、そう呟いた。
こんな一日
そんな日常
久々の空栄嬢ということで、他にもやりたいことがあったのですが。
まぁ、それは雨の季節にやることにしますかね。
さて、次はついに70話です。個人的には、感慨深かったりします。
とりあえず、感想等々、受け付けております。




