第六十八話 扉一枚の攻防
彼には、いくつもの世界があった。
彼女には、ただ一つしかなかった。
彼が信じることのできた世界は、ただの一つだけだった。
―――彼女に信じられるものは、一つもなかった。
寂しがりやは、誰だ。
「ねえ、真央ちゃん?」
「どうかしたの?お姉ちゃん」
ただ一言ずつを交わしただけのこの会話に、多くの人は違和感を覚えたかもしれない。
当の本人である月島奈央もまた、その一人だった。
「いや……な、なーんか、いつもと雰囲気違うなぁって。その、お姉ちゃんとか久々に聞いたし」
「嫌?」
「そんなわけないでしょ!物凄く嬉しいよ!」
「……鼻血は引くなぁ、流石に」
ああ不覚!あんまり嬉しいものだから、うっかり鼻血が!
そこ!うっかりで鼻血は出ねえよとか、冷静なツッコミはしない!デコピンものですよ、まったく。
「こ、これは違うの!別にやましいことがあるわけじゃなくて!」
「やましいこともなく、こんな涼しげな季節に鼻血出すんだ。病院ものだよ奈央ちゃん」
うっ。いつものことかもしれないけど、何だか今日は真央ちゃんの視線が物凄く冷たい。
私が『いつもと違う』と感じた理由の、最たる原因でもあるのだが……どうも、今は機嫌が悪いようだ。
「や、実はコレ、鼻血じゃないんだよね!」
「へえ、じゃあ何?体液とか?雨漏りみたいなことになってるし、リフォームした方がいいよねぇ、頭」
頭のリフォームって、具体的に何?とりあえず『おまえの頭は使えない』ということなの?
これは……もう間違いなく、ちょっとどころじゃない不機嫌状態である。
ああ、普段なら泣いて喜ぶ真央ちゃんと二人だけの時間なのに、今はちょっと別の意味で泣きたい。
(とりあえず、これ以上機嫌を損ねないように話題を変えないと!)
「そ、そういえば、遥人さんはどこに行ったのかなぁ?」
ピキッ。
その瞬間、何故だろう?わかりやす過ぎるくらいに真央ちゃんの表情は変わった。いや……暗転したと言うべきかも。
「さぁぁ?どこへ行ったんでしょうねぇ?」
ちょっ、真央ちゃん!?なんか余計に不機嫌になってない?ピキッとかいったよね?
それはある漫画で『相手の発言が堪に障ったときの効果音』として使われていた音であるせいか、やはり機嫌は悪くなったように思える。
実際は、真央が持っていたティーカップにヒビを入れた音であるのだが、それだと余計に恐ろしいのは言うまでもない。
とにかく、真央の綺麗な顔には青筋か浮かび、口元も引きつっている。
極めつけに、笑顔でありながら瞳だけだ笑っていないという、危険レベル8くらいの状態である。
私がちょっとトイレに行きたくなってしまった理由と気持ちは、さりげなく察していただけると有難い。
「ごめん真央ちゃん、ちょっと私トイレに……」
「どうして謝るの?奈央ちゃんがわざわざ私の前から消えるって言ってくれたんだよ?むしろ感謝したいな、私は」
「真央ちゃん、その笑顔こわい……」
そんなわけで、トイレに逃げてきた私なのだが。
いや、ちょっと待て。何故にあんなに不機嫌?私と二人きりが嫌だから?
いやいやいやいや、それはないそれはない。それだと私は『遥人さんの仲介がないと妹と共存できない姉』みたいになってしまう。
そんなの嫌だ。こともあろうに、あの男のお蔭で真央ちゃんと仲良くしていられるだなんて、そんなの屈辱以外の何物でもない。
……今、あんたは妹に嫌われて当たり前、とか思ったでしょう?便座の敷物にしてやりましょうかコノヤロー。
ん?レベルの高い変態には喜ばれる?ああ、遥人さんとか、だらしなくニヤけて飛び付きそうですよね。
というか、もうあの男のことはいいから。私には今考えなくちゃならないことがあるんだから、頭の中から消えてもらいたい。
……や、ちょっと待て。そういえばさっき、あの男の話題を出したら機嫌が更に悪くなったような。
こちとら、悔しいけど遥人さんの名前をだせば真央ちゃんも機嫌が良くなるだろうと計算していたのだ。
それが逆に、あんな結果になった。遥人さんが嫌われてないことを前提に考えるなら、そうなったのは……。
「あんの男!また真央ちゃんに何かしやがったってこと!?」
あんのアホォォ!毎度毎度、苦労するのは私だってのに!
そういえば今日は、誰かと出かけて行ったらしい。また、新しい女でも引っ張って来たに違いない。
これなら真央ちゃんが不機嫌なのもわかる。むしろ私もムカつく!や、単に真央ちゃんを傷つけるのが許せないだけですよ!
本当ですよ!?何ですかその目は!トイレのスリッパにしますよコノヤロー!
え、マニアックな変態にはむしろ喜ばれる……って、それはもういいから!
「てか、そろそろ出ないとね……」
あまりトイレが長引いたら怪しまれる。それに、あらぬ誤解を持たれてもいけないし。
そう思い、便座に腰掛け項垂れていた奈央が立ち上がろうとしたそのときだった。
「……ねえ、奈央ちゃん」
「えっ?」
寂しさを押し殺した、小さな声だった。それでも聞き慣れた愛しい声に、奈央は驚きながら動きを止めた。
「……ねえ、いるよね」
「い、いるよ!」
扉の向こうから、確かに奈央に語りかける声がするのだ。先ほどとは違う、弱々しい声。
「長いね。便秘?」
「違っ!違うよ真央ちゃん、ちょうど今終わったところだから!」
微妙に嫌な方向にあらぬ誤解をされてしまった。便秘の姉だなんて、また一歩距離を置かれそうな設定はいらない。
急いで手を洗い、鍵を開けてドアノブに手を掛けたその瞬間だった。扉一枚向こう側に、確かに真央の存在を確認した私は、ゆっくりノブを回そうと……。
「待って。ここを開けないで」
焦ったようにそう言ったのは、紛れもなく真央だった。あちらもノブを掴んでいるはず。不思議と、体温が伝わってくるから。
「……話したいことがあるの。聞いて欲しいことがあるの」
「話したい、こと?私でいいの?」
反射的にそんなことを聞き返してしまう自分に、腹がたった。どうして?私は真央ちゃんの……。
「だめ、かな?」
今にも消え入りそうな声だった。それだけで真央の心情を察して、奈央は覚悟を決めた。
「聞くよ、もちろん。私はあなたの、お姉ちゃんなんだから」
今度は、しっかり言えた。私も、まだ捨てたもんじゃないらしい。そうだ、私は彼女の姉なのだ。
不機嫌、つまり何かしらの悩み。聞いてあげるのが私の役割のはず。
奈央はそっとノブから手を離すと、真央に背を向けて扉に寄りかかった。
真央は姉の気遣いを察して、扉に背を向けて膝を抱えるように座った。顔を埋めて、語り始める。
「今まで、私にとって周りの人達は、三種類に分類されていました」
突拍子もない切り出しだった。しかし、大好きな妹の絞り出した言葉。奈央が聞き漏らすはずはない。
だから、無言のままでいるのは、妹に対しての気遣い。自分の気持ちを、素直にさらけ出して欲しいから。
「私が大切にして、私を大切にしてくれる人達。それが、一つ目の種類」
その中にどうか、私が含まれていることを―――。
そんなことを思いながらも、やはり奈央は無言を貫いた。
「そして、私や私の周りに害を与える人。それが二つ目で、それ以外の全てを総じて三つ目と。そういう認識でいたの。私は」
それは、ごく一般的なことに思えた。自分を大切にしてくれる人間と、害をなす人間。そして、影響のないその他大勢。
単純にして明確な、私を含めた全ての人が他人にしている線の引き方。そう思う。
「その分類には今まで、全く問題がなかった。自分の中で綺麗に纏まっていた」
今までは。それなら、今この瞬間は?あなたは今、どんな風にこの世界を見つめている?
「でも最近になって、それは揺らいだ。おかしいの。私を大切にしてくれている人が、何故か私に害をなす人と認識されてるの」
真央が両手で顔を覆っている姿が、不思議と奈央の脳内に鮮明に写し出された。
「どうして……?遥人さんの周りにいる人たちが、時々すごく、疎ましくなるの」
学校に通い出して、真央は気づいた。遥人にはたくさんの世界があって、その周りにはたくさんの人がいることに。
今まで少なからずあった安心感が、揺らいだ。『この人にとって、私は大きな存在なのだ』と、そう思っていたのに。
「あの人は、誰にでも優しいから。だから勘違いしてたのかなって。私なんて、本当は、すごく小さな存在なのかなって」
時がたてばそのうち忘れてしまうような、その程度の存在なのかなって。そう思うと、不安で仕方なかった。
私の中にはあの人しかいないのに、あの人の中に私はいないのかもしれない。
そう思うと、もう……。
「それで、憎くなっちゃったんだね。あの人に近づく人たちが、あの人を取って行ってしまいそうな女の人が」
初めて、奈央が口を開いた。優しく諭すような口調で、細心の注意を払いながら。
「それで、自分を好きでいてくれる人さえ憎くなって、そんな自分のことも嫌で、わからなくなっちゃったんだよね?」
真央が精一杯の気力を絞り、うんと返事をした。まともな声で返事ができたのは、これが最後だった。
どうやら、今日遥人と出かけて行ったのはアパートの新米住民である空栄小夜だったらしい。
新米といっても、もうかれこれ二ヶ月近くたつのだが、それまで真央は小夜と大変に仲が良かった。
自分に優しくしてくれて、天然気味なのが何だか面白くて、何より遥人を奪い取っていく気配がなかったから。
当然のように、第一の分類に属していた彼女を、真央は好いていた。なのに、今日の朝、ただの一瞬だった。
『今日は学校が休みだから、朝から一緒に本でも読んで、一緒にお昼寝して。それから……』
学校に行く度に少しずつたまっていた、彼の自分に対する愛情への不信感。それを拭おうと、半ば焦りさえ感じながら。
『おはようございます。遥人さん、今日は―――』
『ああ、ごめんね。今日はちょっと……』
『遥人くん、そろそろ』
『うん。じゃあ、イッテクルネ』
その時にはもう、何も耳に入らなかった。その後苛まれることとなる己と友人に対する憎しみの情に、彼女は絶望した。
おかしいなぁ。本当に……もう何も、何を信じたらいいのかわからないよ。
思いを全て吐き出して、真央は声を押し殺して泣いた。こんなことで泣く自分が、酷く愚かな生き物に思えて。
「そんなの……普通のことだよ」
沈黙を破るように呟いたのは、奈央だった。背を向けていた扉の方に向き直り、ドアノブに手をかける。
「私だって、遥人さんだって……誰かを特別に好きになっちゃったら、そういう気持ちにならずにはいられないはずだよ」
扉は開けられない。本当なら、すぐにでもここを開けて妹を抱き締めたいのに。
それが出来ない今の二人の関係は、まさに今のように扉一枚で隔てられているようだった。
手を掛けたノブを回し、扉を開くだけなのに。鍵は開いているのに。どちらからでもただ、ここを越えて触れあえば良いだけなのに。
―――それができなくて、私は。悔しさにぎゅっと拳を握りながら、彼女は続けた。
「でもね、その気持ちから逃げちゃ駄目だよ。信じることをやめちゃ駄目だよ」
それは、自分自身にだって痛いくらい当てはまることで。自らに言い聞かせるように、そっと言葉を紡いだ。
「少なくとも、遥人さんはそれを乗り越えて誰にも優しい人になれたはず。そして、それくらい乗り越えられなきゃ、遥人さんの隣には行けないよ」
長いような短いような、とにかくいくらかの間、彼とともに過ごしてきたものとして、私は思うのだ。
多分、本当の意味で彼の隣に立ち支え歩いて行けるのは、そういう強い女の子なのだ。
まぁ、もっと単純に投げ槍に言うなら、彼の好みは『己を成長させるべく努力している人』なのだろう。
偉く高尚な趣味である。少なくとも、私のような現状維持に精一杯のつまらない女は願い下げと、そういうことなのだろう。
や、私だって願い下げだけどね。本当ですよ?
「真央ちゃん……好きなんだよね?遥人さんのこと」
「……うん」
泣いてるのを隠すのに精一杯だが、まるわかりの鼻声だった。それでも、答えに迷いはない。
あんまり、聞きたくなかった答えなんだけどね。姉としては、複雑というか。
それでも、ありがとう、真央ちゃん。お陰で覚悟が決まりました。
この扉を開き、あなたを抱き締める、その覚悟です。
最早迷いはなく、私は静かに扉を開いた。
背を向けて、膝を抱えて泣いている真央ちゃんがいた。しゃがみこんで、頭を優しく撫でてやる。
「自信を持ってあの人の隣を歩きたいなら、あの人が好きなら……ここで泣いてちゃ駄目でしょう?」
「うぅっ……お姉ちゃ……私は……」
強く抱き締めて、自分を信じきれない彼女の耳元にそっと囁いた。
姉として。世界で一番、彼女を大切に想う者として。
「できるよ。だってあなたは、私の大切な妹なんだから」
それは根拠でもなんでもなくて。近道でも打開策でもなくて。
それでも、どんな言葉より真央を勇気付けた言葉だった。
「そう……だよね」
私は、奈央ちゃんの妹だもんね。そう呟いて、間もなく立ち上がる。
どうも、やらなきゃならないことが多すぎる。自分の目の前にいる女の子が、とてつもなく強くて格好良く見えてしまったのだから。
遥人に並ぶどころの話ではない。まずはこの、高くそびえる姉という壁を越えて行かなければならないのだ。
険しい道だな。そう思いながらも、不思議と笑顔が溢れた。
「はぁ、すっきりしたーっ」
大きく伸びをした。見えていた世界が、少しだけ明るく彩られた気がした。
「じゃあ、とりあえず私は宣戦布告してくるね」
「宣戦布告って、誰に?」
奈央が不思議そうに首を傾げた。あと、幾分かは妹の切り替えの速さにも首を傾げた。
「うん、とりあえずは、二階のニートに」
清々しいまでの笑顔だった。この顔で二階のニートこと紫音さんと泥沼の争いを演じるのかと思うと……。
「……女って、怖いなぁ」
自分の性別さえ忘却して、そんなことを呟いてしまう奈央であった。
こんな、異例の姉妹直接対談。扉一枚向こう側の、決意と変化。
あのばか男が気付くのはいつになるかな?それはきっと、そう近い未来ではないけど。
「でも、気づいたそのときに、真央ちゃんの魅力から逃れられるかな?」
私は無理だな。そう呟いて、奈央は笑った。
こんな一日
そんな日常
以上、トイレの扉一枚の攻防でした。てか、また暗い話に……。
何故うちの登場人物たちはこうも情緒不安定なのか、不思議で仕方ない。
最初は久々に小夜嬢の話を書こうとしてたはずなのに……なんでこうなった?
とりあえず、感想お気に入り登録絶賛受付中です。次回も、いや次回は?
まぁいいや。次回お楽しみに。