第六十七話 待ち人は忘れ去られる
ある春の日の放課後。すっかり人影の失せた教室に、二つの影だけが消えることなく佇んでいた。
曰く、プライドとかは燃えないゴミの日に捨てたんだとか。
そんな、人類の不良債権たちのお話。今日は、燃えるゴミの日だけれど。
「お前さぁ、やる気ねえだろ?」
「やる気?ああ、それなら昨日が不燃ゴミの日だったんで」
出してきちゃいました。と、軽く笑ってみせた少年。氷名御遥人は今日も、醸し出す空気から発言まで全力でひねくれていた。
「あっはっは、何コイツ、とりあえずぶん殴ろうかなぁ」
額に青筋を浮かべ、握った拳を今にも叩き込もうかと画策するのは、不良教師と名高い草壁冬介その人である。
「やってみろ聖職者。明日からゴミ漁りのおっさんに転職しても良いんならな」
嘲るように鼻で笑った遥人は、大きな欠伸をすると興味なさげに窓の外に目を遣った。
「だいたい、何で俺が数学の居残りなんか……」
窓の外、校門の付近は下校後の有意義な時間に思いを馳せる生徒達が忙しく動き回っている。
「別に暇だろ?お前」
侮るように生徒を見下した冬介は、粗っぽくカーテンを引いて遥人の視界を遮った。
日差しが途絶え薄暗くなった教室。二人の視線がぶつかったその瞬間は、曰く火花が散るようだったらしい。
「なわけあるかっ!俺はこの後スーパーで食料品の買い出しをしなきゃならないんだよ!タイムサービスなんだよ!大特価なんだよ!今日を逃したらもうチャンスはないんだ!」
「どんだけ家庭的な放課後だよ!聞いたことねえよそんな高校生」
一般的な高校生の放課後というやつなら、部活やらバイトやら、友達と街に繰り出すだとか、それっぽいのがあるだろうに。
冬介は少しの憐れみさえ覚えながら、タイムサービスのために何度となく時計に目を遣る遥人を見た。
「てえかよ、学校にマイバスケット持って来んのやめね?うちの教室において明らかに浮いてんだけど」
マイバスケット。つまり、自分専用の買い物カゴであるそれは、不思議といつも遥人の席の横に置かれていた。
「嫌ですよ、だって便利だし」
「いや、便利とかそういう問題じゃなくてよ。学生に必要なくね?マイバスケットは」
大切そうにマイバスケットを撫でる遥人。その光景があまりにも異様だったせいか、冬介はどこか遠慮気味にそれを手離すことを促した。
「何言ってんですか!あんた三十も過ぎてマイバスケットの必要性もわからないなんてあんまりだ!むしろ、こんな恥ずかしい大人にならないためにも学生にこそ必要な代物だと思いますよ、このマイバスケットは。第一、この環境問題の危機が騒がれる時代に……」
「あぁ、はいはいわかったわかった!マイバスケットについての持論はもういいから!」
だからどんな高校生だっ!?俺の知ってる小学生の遥人はこんな生活にシビアな野郎じゃなかった筈だ!
そう嘆きたくなるのも無理はない。あの夏の日を境に、遥人を取り巻く環境は一変したのだから。
両親の急逝という異変なくして、遥人が今のような一風変わった高校生になることは有り得なかった。
「だいたいお前、こないだ俺の授業のときスーパーの広告読んでたろ!?なんか異常に傷ついたからなアレ!」
「何言ってんですか。俺の様な高校生なんてその変にゴロゴロいるでしょうが」
「いねえよ!性格挙動含めて、あらゆる面で見たことねえよこんな生徒!」
みんなが昨日のバラエティー番組の話で盛り上がる中、一人昨日の大特価セールの余韻に浸っているような男である。
重ね重ね、いねえよそんなやつ、と言いたい冬介だった。
「そういえば、今日は卵と砂糖の安売りですから、先生んちの冷蔵庫にはピッタリですよ?」
「……何でお前、うちの冷蔵庫の中身を把握してんだよ」
もう気味悪いとかを通り越して、いっそ一家に一台欲しいレベルだよ。この冷蔵庫管理機。
「ってことで、帰りたいと思うんすけど」
「うん、まぁ、そのプリント終わらせてからな」
愕然とした様子で、遥人は顎が外れたのかと思うほど大きく口を開いた。
それでも、プリント一枚くらいなら……と気を取り直し、ゆっくりと視線を落とす。
『問題 下記のような場合のXの値を求めよ』
……いや。えっくすは、えっくすだろ?待て、ナニコレ?こんなことを定義されたっておまえ、えっくすはえっくすだろうが。
かきかきかき。
『回答 X=僕には知ることのできない遠い世界』
「よしっ」
遥人はそっとペンを置くと、あの夏の日のような清々しい心持ちで窓の外を見つめ
「待てコラ。てめェ何だそのやり遂げた顔は。何だよあの夏の日って。意味わかんねえってかそもそも答えが値でも何でもねえだろうが!」
「意味わかんねえのは先生の排泄したこの問題ですよ」
「排泄って言うな!俺が苦労して作り出した問題を排泄したとか言うな!」
遥人としては、これ以上ないくらいの拒絶反応だったのだろう。全身に鳥肌がたっている。
論理と道筋。どんな生き方をするにも当然必要となってくるそれらを、その昔から大人は数学という形で伝承してきた。
ただそれでも、論理も道筋もわきまえたつもりでいる遥人にとって、この勉強……いや作業は苦痛でしかなかったのだ。
「例えるなら、一日かけて掘った穴を一日かけて埋める作業みたいな、そんな虚無感が俺の全身を支配するようで……」
「どうして理屈こねるのは巧いのに、論理を拒絶すんのかねお前は」
拒絶しているのは論理ではなくお前だ、と敢えて言わなかった遥人は少しだけ大人なのかもしれない。
「まァお前のことだ。どうせ俺から教わるのが気に入らねえってんだろ?」
態度が態度なせいか、最早それは両者にとっての確定事項となっていたのだ。
『俺はコイツ嫌い、コイツ俺が嫌い』
その意識を完璧に共有できているだけでも、実はかなりうまくやっていける間柄だったりするのだが。
「でも、今となっちゃ誰から教わっても嫌だけどね。数学は」
「他にも誰からから教わったのか?」
プリントを眺めながら自嘲気味に笑ってみせた遥人は、春休みのある日のことを思い出していた。
「いやちょっと、前に知り合いが数学という名の羞恥プレイを仕掛けてきまして……って、ぁあ!」
言い終わるや否や、何かを思い出したように勢いよく席を立った遥人。突然過ぎて、微妙に心臓に悪い。
「っなんだよ、びっくりさせやがって。何か忘れてたことでもあったか?」
「や、普通に買い物のお供を待たせてたの忘れてた。……やばいなぁ、絶対拗ねられるよ」
何か、物凄く面倒くさそうに頭を掻いている。待たせると拗ねる彼女でもいるのか、少しだけ高校生らしくはなったが。
「すみません、帰ります」
「あー、仕方ねえやな。早く行ったれよ」
花の高校生の恋路を邪魔するほど、俺は無粋でもないし暇でもないのだ。
しかし、デートが食料品の買い出しってのは……同棲でもしてんのかと疑いたくもなるが。
「よっし、急ぐぞ。安売り卵を待たせる訳にはいかないからなっ」
そう呟いて、遥人はまるで幼い少年のような澄んだ瞳で走って言った。
いや、待たせてんのは彼女だろ?卵なの?と、届きもしない突っ込みを入れ、冬介は静かに椅子に腰掛けた。
誰もいなくなった薄暗い教室には、ほぼ白紙のままの居残り用プリントが一枚だけ残されている。
「ま、結局世の中、数字じゃ計れないことだらけだからな」
呆れながらも小さく笑って、冬介はプリントを真っ二つに引き裂いた。
「とりあえず、何事も経験してみるがいいさ。数字のもどかしさも素晴らしさも、気づく前にな」
ニヤリと意地悪っぽく笑って、冬介はカーテンに手を掛けた。
勢い良く開け放たれたカーテンから、真っ赤な夕日が顔をのぞかせる。
(そういや、卵が安売りだったな)
今夜のメニューは卵かけご飯かな。そんなことを考えて、開け放った窓から顔を出した。
一本の煙草に火を灯し、すうっと息を吸った。夕日が、灰煙に揺れている。
「卵かけご飯……ご馳走じゃねえか」
わかり難いご機嫌良好の表情を浮かべながら、今夜の酒の味に思いを馳せる。
ああ、なるほど。
どうも、ここは平和だねぇ。
盛大な欠伸を漏らして、彼は校舎を後にする。その右手には、誰かが忘れていったマイバスケットが心地良さそうに揺れていた。
こんな一日
そんな日常
本当に正真正銘の『何事もない一日』を書いたのは多分久々かと。
しかし、もうこれは『何事もない』というより『取るに足らない』の状態かもしれない。
いやちょっと、見捨てないでくださいね。僅かな僅かな読者様方。




