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日常賛歌  作者: しろくろ
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第六十六話 探し物、帰り道、風の吹く場所

 風は吹いた。

 走り出した。

 止まり方を忘れた。


 帰り道を失った。

 帰る場所を奪われた。


 鍵はいつも、すぐに失くした。




 春風の吹きすさぶ、涼しげな昼下りのことだった。


 織崎紫音はいつもの帰路で、不意に立ち止まることとなったのだ。


 何か、大切な者を落としてしまったような。そんな感覚に捕らわれた。


 地面を見下ろしてみる。それはどうも、見つかるはずのないものに思えた。


 空を見上げてみる。何故か、そこに何かがあるような気がした。流れる雲の中に、何か。


 あの青空の果て。夢のような世界の果てに、この日々の終わりに。


 それでも彼が、そこにいてくれるような気がした。恍惚のまま、空を仰ぐ。


「……やっと見つかった」


 不意にそう呟いた彼女は、真っ直ぐにいつもの帰路を歩み始めた。


 探し物。忘れてしまった帰り道。


 それでも、奪われてはいないあの場所。だから、後はそう。


 鍵は、失くしていないだろうか?それだけがただ、いつまでも不安なままだった。


『探し物、帰り道、風の吹く場所』




「こんにちは、紫音さん」


「あ……こんにちは」


 織崎紫音が帰る場所に選んだのは、アパート一階の彼の部屋だった。


 階段を上ればそこにあるはずの自室が、何故か自分を拒絶しているようにさえ思えたから。


 インターホンを鳴らそうと、彼の部屋のドアの前に立ったときだった。


 鍵を失くした私を気遣うように、その扉はゆっくりと開かれた。


 そこから、一目で寝起きと分かる様相の少年が顔を出した。氷名御遥人。彼女の選んだ“帰る場所”。


「……インターホン、鳴らしてないのに……どうして?」


「なんか、そんな気がしたから」


 紫音さんが来るんじゃないかなって、そんな気がしたから。そう言って彼は、目を擦りながら私を中へと迎え入れた。


「コーヒー紅茶赤ワイン、どれがいいですか?」


 いつかの歯磨き粉のCMでも思い出したのか、彼は冗談めかしてそんなことを言った。


「……では、コーヒーを」


「かしこまりました。少々お待ちください」


 ペコリと行儀良く頭を下げた彼は、優雅な足取りでポットに手をかけた。


 私はといえば、先ほどまでバイトで店員側として働いていたせいか、どうもコーヒーを淹れてもらうことに違和感があった。


「お召し上がりください」


「……ありがとう」


 すっと私の前にコーヒーを差し出した彼は、まるで執事にでもなったかのように整った足取りで正面の席についた。


 何だか、お嬢様にでもなったような気分である。穏やかに湯気をたてるコーヒーを見つめながら、少し恥ずかしいような感情をそっとしまいこんだ。


「バイト、今日はお昼までだったんだ?」


 肘をついた手を顎に当てた彼は、細く優しげな瞳で私を見つめた。少し、恥ずかしい。


「……帰らされました。本当は、夜までだったんですけど」


 不服だった。それをあからさまに表情に出したせいか、彼はそんな私を見て楽しそうに笑った。


「気を遣われちゃったんだね、店長さんに」


「……気を遣われる必要がないはずなんですけど」


「どうだか」


 私の内を見透かすように、彼は笑った。店長も、同じように笑って私を帰宅させたのだ。


 まったく。いったい何だというのだろうか。どうもわからないままでいる。


「最近、働き過ぎだもんね。紫音さん」


「……そんなこと、ないです」


「それも、どうだかね」


 わかったように、思わせ振りなことを言う。その指摘が何だか悔しくて、私はそれを否定した。


「……これくらい、何ともないです。ただ、店長が思ったより心配性なだけで」


「思ったよりも心配性な人は、他にもたくさんいるってこと。特に、紫音さんみたいな人の周りにはね」


 それは暗に、彼が私を心配してくれていることを言ったのか。それなら、嬉しいけど。


 ただ、心配性は私の周りに集まるのではない。多分それは、目の前に座る馬鹿な少年の周りに集まっているのだから。


「とにかく、ゆっくりしていってよ。俺は、たまには紫音さんとゆっくり話でもしたいんだから」


「……はい」


 突然すぎる程突然に嬉し過ぎる言葉を吐いてくれるのは、彼の良い癖なのか悪い癖なのか。


 とにかく私は、顔を赤らめて俯きながら、その言葉に従うことしかできなかった。




「てかさ、働き過ぎだよね、最近」


 他愛もない会話をしていた私達は、わりと優雅な昼下りの時を過ごしていた。


 けど、彼はずっと私に何かを言おうとしていたみたいで、それがようやく今になって口にされたのだった。


「……そんなこと」


「あるよ。最近は週6で朝から晩までバイト三昧でしょう」


 そんなの、当たり前の人には当たり前のことだ。そう、最もらしく反論するつもりで私は口を開いた。


「……そんなの」


「当たり前じゃないよ。それが織崎紫音という女の子にとって当たり前のことなら、貴女はここには来ないはずだから」


 あっさりと、それでいてはっきりと、私の戯れ言は彼の少し厳しめな口調に遮られた。


「貴女にとって帰るべき場所がここなら、今の生活が当たり前なわけない」


 本当に、痛いところを的確についてくる。反論できないのだ。言っていることが的を得過ぎていたから。


 私の帰るべき場所がここじゃなければ、私は無意識でこの部屋の前までやってきたりはしない。


 しばらくここを訪れていないだけで、ふと帰り道を失ったような感覚に陥ったりはしない。


 この忙しい日々が辛くないのなら、私は今この時をこんなに愛しくは思えない。


 わかってる。無理をしていることも全部、わかっているのだ。


 それでも。


「……それでも、やり通してみたいんです。その果てに何があるか、知りたいから」


 本当は少しだけ、弱音を吐きたいけれど。仕事中だって、彼のことを思い出さなければやり通せないときがあるけど。


「……もう少しだけ、貴方に近づけるように。頑張ってみたいんです」


 本音を、最後にそっと添えて。私は彼の心配を、アイロンをかけて送り返してみせた。


 不意にかけられた言葉に、今度は遥人が顔を赤らめる番だ。


「そう。なら、応援はするけどね」


 恥ずかしいのか、明後日の方向を向いて答えた彼。その背中に近づきたい。意志は強い。だから。


「……だから、私が頑張ったときは、少しだけ誉めてください。優しく撫でてください。それだけで、私は頑張れますから」


「ん……それは結構、こっ恥ずかしい気がするけど」


 そう言いながら、彼は私の頭を優しく撫でた。大きな手、伝わる温かさが、愛しい。


「よく、頑張ったね。だから今日は、ゆっくり休もうか?」


「……はい。そうさせてもらいます」


 実際やってもらうと、なるほど確かに恥ずかしい気はする。でも、思う。


 やっぱりここが、私の帰るべき場所なのだと。どんなに意地を張っても、多分最後はここにいるんだろうな、私は。


「……おやすみなさい」


 一瞬、戸惑ったように目を泳がせた彼。まさか、ここで寝るとは思わなかったらしい。


 私はゆっくりと、彼の胸に体を預けた。そして、目を閉じる。


「おやすみ。良い夢を」


 彼の腕が私を包み込んだことを確認して、ようやく意識は遠退いていった。


 いつもと同じ、夢のような日々へ。これからも、同じところへ帰ってこれることを信じて。



「……鍵、やっと、見つけた」



 そんな寝言を言ったとか言わなかったとか。でもきっと、良い夢を見ているのだろうと。


 そう思った遥人は、空を見上げた。抜けるような青空の昼下りだった。


 あの果てにあるのはきっと、変わらない未来だろう。


 願うようにそう想いながら、腕の中で眠る少女に倣うように目を閉じた。




 こんな一日

 そんな日常




 ただ、二人が和やかに会話する、それだけの話。

 笑いも感動も熱さも何もないけど、意味だけはあってほしいなぁと。


 とりあえず、短くすっきり書けたのでおっけい(?)


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