第五十三話 出逢い、白日の回想
白い日、青空。心地よい春の風が、あの場所へと続く道を吹き抜ける。
春の長期休暇真っ最中のこの校舎にあって、その渡り廊下を何事もない足取りで進みゆく生徒の存在は珍しいものである。
ただ、当の本人はといえば、今やそれが珍しいことだとは感じていない。この道を歩むのは、学校があるからじゃない。
この先、あの場所にあいつがいるから。あいつに呼ばれる限り、自分はこの道を歩み続けるのだろうと。
応接室。今やその名は偽りで、果たすべき役割を失ってしまった部屋。
果たすべき役割を持たない自分と、どこか通ずるような。そんな親近感。こんな俺。
いつもながら妙に後ろ向きな思考を張り巡らす少年、氷名御遥人の前にそびえ立つは、魔女の城。
勇気はいらない。ただ、いつも通りに開くだけ。彼女と出会ったその日から、開き続けた扉だから。
今日も、そう。ただ、一応ホワイトデーってことで、お返しのクッキー(105\)なんかを持参してみた。ただそれだけ。
「おはようございます。氷名御さん」
朝から優雅に紅茶をすする少女、本宮日和。応接室の番人、俺をここに呼ぶ人間。
「ちゃんと、時間通りに来てくれましたね」
「約束だからな。今日のは」
言いながら、持参したクッキーを彼女の前に差し出す。微妙に恥ずかしいので、無言で受け取ってほしいものだが。
「今日のはって。いつものも約束でしょう?」
「あれは脅迫。時間まで守ってやる義理はない」
俺の意思を汲んでくれたのか、無言でクッキーを受け取った日和。ついでに俺に着席を促すと、紅茶を淹れてくれた。
「まあ、なんだ?妙に気のきくことで」
「招待ですからね。今日のは」
「いつも招待にしようよ」
「つけ上がらないでください。普段の貴方は出廷してるようなものなんですから」
「出廷ってオイ……」
魔女の裁判?とりあえず毎回有罪になるのは確定事項として、罪状も九割死刑という悪質っぷりを誇るに違いない。
「今日は一日、私と過ごしてくれるんですよね?」
「約束、だからねぇ」
「ため息まじりにものすごく嫌そうに言わないでくださいよ。私は結構、楽しみにしてたんですから」
おまえは普段の自分の行いを改めてからものを言えよ、と切り返してやるつもりだったけど、今日はやめとくことにした。
だって、今日は。
「だって今日は、ちょうど私達が出逢って一年じゃないですか。楽しみにもしますよ」
んなことは、俺だって覚えている。春休みで閑散とした校舎で、四月に入学予定だった俺達は出会ったんだ。
あれから一年。俺たちは今日ここで、どんな風に一日を過ごすのか。とりあえず、思い出してみよう。
あの日を。俺と彼女に縁を絡みつけた、あの日の出来事を。
一年前の春。とはいっても、桜前線すらまだやって来ぬ季節の移り変わりの時期で、外にはまだ冬の気配が残っている状態だった。
そんな折、地元の高校に四月からの入学を決めていた遥人が、ある理由から春休み中で人気のない校舎を訪れていた。
理由といっても単純なもの。元来心配性な遥人は、四月からの高校生活が心配なため、思いきって下見にきたのだ。
同じく入学を決めていた疾風を誘ったものの、『一人で行ってこいチキン。俺はネトゲやるから』と断られてしまった。
そんなわけで学校側に許可をとりつつ、一人で下見に来たのだ。
しかしまあ、よく考えたらこの行為事態がものすごく意味のないものだと気づいてしまう。生徒のいない校舎から何を知れというのか。
「はぁ……帰ろうかな」
こんな心配性丸出しの行動をとっていること事態、だんだん恥ずかしくなってきた。
そもそもこんなことやってるのは自分だけだろうし、今日みたいな日に学校を訪れている生徒なんかいるわけない。
「うん、帰ろう」
一人合点して、今まで上ってきた階段を下り始めた遥人。しかしそこで、不思議なものを目にした。
階段を下る途中、何故か上からシャープペンが一歩目の前に落下してきたのだ。遥人はそれを、勢い余って踏みつけてしまう。
「何でペンが降ってくんのさ?……げ、ひっかけるとこ割れちゃったし」
これ、多分持ち主が上の階にいるんだよな?やばいよ壊しちゃったよ。怖い人だったらどうすんだよメンドクサイ。
瞬時に頭が回転し、俺はさっさとここから立ち去ることにした。面倒事は御免こうむりますっての。
「ちょっと君、待て!」
階段を駆け下る音とともに、俺を呼び止める声。女の子?何でもいいけど、普通の人でありますように。
そう祈りながら振り返る。視界には放置してきた壊れたペンと、階段を降りてくる女の子が入るはずだった。
「!」
驚いて、後ろに跳び跳ねる俺。それもそのはず。俺が振り返ったとき、女の子は既に目の前にいたのだ。
速っ!どんな移動速度だよと叫びたい衝動に駆られたが、彼女を見てやめた。
彼女は壊れたペンを片手に、ものすごい笑顔で俺を見ていた。この娘、何だ?
「あー……えと、俺が何か?」
焦る気持ちを何とか抑え、何事もなかったように問いかける俺。それに対し、彼女はやはり笑顔で答えた。
「お…ま……けろ」
「は?」
あまりにも小さな声で呟くように言ったせいか、彼女の言葉は俺に届かない。もう一度、今度は耳を澄まして聞き直す。
「おとしまえ、つけろ」
そのとき確かに、時は止まった。
「すると君は、俺と同じように学校の下見に来た新入生か」
笑顔の彼女の衝撃発言から数分後、俺と彼女は横に並び校舎を徘徊していた。
『ペンを壊した罰です。私と一緒に来てください』
そう面と向かって言われた俺は、さすがに逃げられないと諦めた。そして、彼女と共に学校見学を再開したのだ。
「はい。学校のことを何も知らないままじゃ、なんだか落ち着かなくて」
「俺もだよ。でも、アホらしくなって帰るつもりだったんだけど」
彼女は、思ったよりは普通の人だったと言える。最初にヤクザみたいなことを言い出したときは、どんな奇天烈な奴かと思ったけど。
「それで、時間を無駄にした腹いせに私のペンを破壊していった、と」
「違うわ。あれは事故だよ事故。不注意とはいえ、上の階からペンを落とすやつが悪い」
とりあえず、今のままだと責任を10対0くらいの比率で押し付けられそう。どうもペースをつかみ難い相手だが、やるしかない。
「不注意じゃありません。人がいたのが上から見えたから、引き留めようと思って」
「それでわざと落としたんだ?最早俺に落ち度がないよな?」
それなのにおとしまえつけろとは。そもそも、上から落とした時点で壊れることは承知しておくべきだろう。
「でも君、逃げようとしたよね?いくら悪意がなかったとはいえ、逃亡を計ったのはまずいよね」
「うっ。それは……ねぇ?」
「ねぇ?じゃありません!だから、罰としてついてきてもらうんです」
今更ながら、なかなかに面倒な女の子を相手にしてしまったらしい。どこへ向かうのか知らないが、諦めてついていくことにした。
「で、あなたは?」
「は?」
「名前ですよ。あなたの。何て呼べば?」
おい、なんかこれ、知り合いになる気まんまんなのか?個人的には遠慮させてもらいたいが。
「氷名御だ。できれば忘れて欲しい」
「で、出身中学は?」
俺の要望をあっさりスルーしたあげく、更に人の個人情報を詮索してきやがるとは。なかなか図太い性格らしい。
「地元だよ。てえか、俺はあんたみたいな微妙に圧迫感のある奴と知り合いになるつもりは……」
そこで、彼女がこちらを向いた。そして、悪戯っぽい笑顔でチッチと指を振ってみせる。
「知り合いじゃありません。下僕になるんですよ」
「あんた今なんて書いておともだちって読みやがった!?」
「下僕です♪」
「おかぁさぁぁぁん!!」
怖いよう。この娘怖いよう。なんだよ下僕って。偶然同じく下見に来ただけの俺に何をさせようってんだよう。
「えっと、地元中学出身の、ひなみ……あった!」
おもむろにポケットから取り出したメモ帳を繰り始めた彼女。何かを調べていたのか?
「あったって、いったい何が」
「あなたの情報」
また、まるで小悪魔、いや魔女のような妖美な笑顔で、彼女は言ってのけた。俺はただ、唖然としたままである。
「氷名御遥人、15歳。家族構成は父、母との三人暮らし。母は専業主婦。そして父は……」
「お、おい」
こいつ、本当に俺の個人情報を調べたのか?苗字と出身中学だけで?
でも、うちの親父の職業って。それは息子の俺さえも知らないことだ。親父はそれを、頑ななまでに教えようとしないから。
「父の職業は?なんだよ」
これだけは知らないはずだと。どこか得意気に言った俺。しかし彼女は、俺の想像の遥か上空をいっていた。
「父の職業は、あなたに対しては伏せられていますね。それを、私が言うのは失礼です」
おいおいおいおいまさかこの女本当に……。そこで初めて、俺は背筋に嫌な感覚が走るのを感じた。
「何者だよ、あんた」
立ち止まり、距離をとる。最初から変わった奴だとは思っていたけど、それ以上にかなり危険な人物なのかも知れない。
「なんでそんなに、俺のことを知ってんだ」
俺のかなり真剣な表情が見えなかったのか、彼女は相変わらず笑って答えた。理解し難い言葉だった。
「知らないのは怖いから。ただ、それだけです」
理解ができなかった。なのに、その言葉を聞いた瞬間に俺は警戒を解いた。同時に、どこか親近感みたいなものを感じてしまった。
「あなただって、同じでしょう?だから、黙ってついてきてください」
同じ。そう言われたことに、本来なら腹を立てるべきなのかもしれない。だけど俺は、それが当たり前みたいに彼女についていった。
横を歩く。四月から通うことになる校舎。なんとなく、入学してからもまた、彼女とこの道を歩いている予感がした。
そして、俺と彼女はたどり着いた。『応接室』と書かれた部屋。ここが彼女の目的地らしい。
「あれ?ここ、中に人がいるぞ」
若い女性が一人と、偉そうなおっさんが一人。今日みたいな日に、いったい何をしているのだろうか?
俺の疑問に対し、すかさずメモ帳を繰り始めた彼女。あるページで手を止める。
「あれは……教頭先生と、数学の先生ですね」
「ふーん……」
なんで知ってんの?と聞きたいのもやまやまだが、それ以上に教頭と先生がこんなところで何をしているのか気になる。
「さ、始めますか」
「始めるって、何を?」
ニヤリとほくそ笑み、何かを取り出した彼女。あまり見たことのない機械。でもこれ、確か刑事ドラマとかで……。
「盗聴」
「待てェェ!おまえそれ犯罪だから!あんたの人生が終わるから!」
「仕方ないじゃないですか。そこに、盗聴機があったんですから」
「どんな仕方なさ!?てかそこってどこだ!どこに仕掛けやがったんだ!」
いやさ、そりゃね?こんなこそこそと密会してる人たちだもん。何を話してるのか気になるのも当然だけども。
でもおまえ、その邪な欲望を押さえつけて生きていくのがまっとうな人間であって。そんな、スキャンダル雑誌のカメラマンじゃないんだから。
「ほら、教頭先生の襟元。あそこに事前に小型の盗聴機が仕掛けてあってですね」
「事前に!?まさかあんた、今日来たのはこの密会を知ってたからか!?」
襟元ってどうやったら仕掛けられんだ?てかそれ以前に、他人同士の密会が知られてるのは何故?
「ええ、知ってますよ。これから二人が話すことも、ね」
理由はわからないが、彼女はとても愉快そうにしていた。そんなにも楽しいお話を聞けるってのか?
「とりあえず、二人の存在は確認できました。あとは、もう少し離れたところで盗聴させてもらいましょうか」
そう言うと彼女は、さっさと応接室の前から立ち去った。後を追う俺は、改めてこの行為を止めるべきかと考えたが、やめた。
彼女がとても生き生きとしていて、止めることさえはばかられたから。や、もうこの娘スキップだもん。
「あんた、こういうの好きなんだな」
「あなただって好きでしょう?」
や、好きだけれども。なんかこう、こいつと同じってのは鳥肌ものだから。よし、明日から性格変えようっと。
「で、あの二人は何をしていたと思いますか?」
応接室から離れたところの一室で腰を下ろした俺たち。あっちの音声が聞こえるよう、盗聴機に繋がれたイヤホンの片方を俺の耳にねじ込む彼女。
一つのイヤホンを分けあって、耳を澄ます二人。なんか、これだけ見るとまるで……。
「なんだか、仲良く音楽聞いてる恋人どうしみたいですよね」
「その実はあろうことか他人の会話盗聴してる初対面の二人だけどな」
「恋人どうしみたいですね」
「何でそこ繰り返すの?俺は嫌だぞ。あくまで主犯はあんただからな?」
「そして共犯があなたってことですね」
否定できねえ!いやこれ、今からでも遅くないよね?俺はやっぱ逃げる!盗聴なんて御免だっての!
「あ、俺ちょっと、用事思い出した気がするわ」
「気がするって何ですか白々しい。男ならスパッと諦めて共犯になりましょうよ」
そんなところで男らしさを見せたかないわ。と捨て台詞を吐き、遥人は逃げ出した。
しかし周りこまれた。遥人は振り切って逃げ出したが、すかさず上段回し蹴りをくらった。遥人は死んでしまった。
「私から逃げようなんて考えないことです。……あれ、氷名御さん?」
返事がない。ただのしかばねのようだ。
「………」
日和は混乱している。わけもわからず遥人の体を抱えると、校庭に飛び出した。日和は、スコップを装備した。
こそこそ。ほりほり。なげなげ。うめうめ。にげにげ。
「……さて、いい汗かきましたねー。今日は帰りましょ」
「ってオイぃぃ!罪の上に罪を重ねてんじゃねぇ!何がわけもわからずだよ、明確な意思を持って死体遺棄に臨んでんじゃねぇか!」
「あら、生きてたんですか。はやとちりしちゃいましたよもう」
「俺もはやとちりして冥界の扉を開くとこだったわアホぉぉ!」
「いやあ。私はただ、未来への扉を開け放とうと」
「上段回し蹴りでかっ!?おまえは俺の未来への扉を閉ざしただけだろうが!」
とりあえず、この女の体のどこに俺を一発KOする力があるのか聞きたい。
「まぁ、過去のことは忘れましょう!大事なのは今。今私といっしょに盗聴することが大事なんです!」
「俺はそれよりもまず、あんたを警察につき出すことの方が大事だと思う。主に世界平和的な観点から」
盗聴、殺人死体遺棄未遂とやるだけのことはやったんだから。あ、それとこの場合監禁拘束もだな。
「いいから、いっしょに盗聴しましょうよー」
「可愛らしく頬を膨らましてもダメだ。子供みたいな仕草でとんでもねぇこというんじゃねえ」
一見地味だけど、よく見たら可愛いよねって感じの女の子はいる。しかしこいつは、一見可愛いけどよく見たらただの悪魔だ。
「うぅ。いっしょに盗聴してくれないと、いたずらしちゃいますよー」
あ、でもやっぱり可愛いかもしれない。イヤイヤ、これは演技だ。演技に違いない。
「いたずらって、ハロウィンじゃないんだから。どんなことするのさ?」
「あなたの預金通帳と口座番号を売り飛ばします」
「それいたずら違う!純然たる犯罪だから!」
まあ、さすがにそんなことできないだろうけど。だってほら、預金通帳なんてちゃんとうちにあるもん。
「これなーんだ?」
「あぁ、それそれ。俺の預金通帳って……ハァァ!?」
これなーんだ、じゃねェェェ!おま、ついに窃盗にまで手を出したんか?てかいつから持ってたの!?
「もういい。俺が悪かったから。いっしょに盗聴してやるから、イヤホン貸せ」
「そうこなくっちゃ♪」
あれ?これ彼女の犯罪コレクションに恐喝も加わったよね?もうヤだこの女……。
「ほら氷名御さん。こんなことやってるうちに、結構話が進んでますよ」
「何?早く貸してみろ!」
やるとなったら全力でいくしかない。元々興味事態はあったわけだから、俺はすぐに耳を澄ませあちらの音声に集中していた。
「教頭ォォォ!」
「ちょ、待つんだ先生!話せばわかべらばっ!?」
……べらば?べらばって何?てかこれいったいどういう状況?教頭がべらばって。
「あー、これは入りましたねぇ」
あちゃー、とでも言いたげな様子で何かを悟る彼女。こいつ、いちいち一人で勝手に納得しやがって。
「入ったって何が」
「先生の右ストレートが、教頭のボディに」
「マジでどんな状況なのそれは!?」
なんか耳を澄ますと教頭の苦しそうな息遣いが聞こえてくる。
「ごふっ!」
おい今ごふって言ったよアレ!あれ絶対血液的なものを吐いた音だよねあれ!
「そういえば先生って、空手の有段者でしたねぇ」
「救急車、救急車を呼べェェェ!」
あ……今教頭の呼吸の音が途絶えた。手遅れだわこれ。教頭も俺の横で幸せそうに笑ってる女も、手遅れだわ。
「教頭テメエェェェ!おまえあれ、奥さんとは別れるって言ったよなぁ!?言ったよなぁおい!」
聞こえてないから!教頭にはもう何も聞こえてないから!聞こえてんのは死神の足音とかだから!
「チッ、勝手に死んじまいやがってよぉ。……体育館裏の桜の木の下とかに埋めとこ」
ちょっと待て。このズルズルって何かを引きずってる音はこれ、教頭の死体の音だよな?
運ばれてるよ。桜の木の下に運ばれてるよ。死神の足音が俺にまで聞こえてるから。先生という名の死神の足音が。
「あそこなら……教頭と初めて抱きあったあの桜の木の下なら……」
「なんか悲しい理由があったよ!死体の遺棄現場思い出の場所だったよ」
「……先生。私には聞こえますよ。あなたの心が落とした涙の音が」
「なんかロマンチックな感じに誤魔化すな!死体を引きずる音と足音しか聞こえねえよ!」
てかこれ、ただの教頭の不倫の密会現場じゃねえか。なにそのドロドロな話?俺のドキドキを返せよ。
「やっぱりこう、昼ドラみたいなドロドロ感はそそられますよね」
「そそられないから。まだ汗だくドロドロの日本猿の方がそそるから」
てかこれおまえの趣味かよ!せっかくの春休み中に嫌なもん見せんじゃねえ。てか俺、四月からこの学校に通うのかよ……。
「ちなみにこの喧嘩はですね。二人が四月からそれぞれ別の学校に転勤になったのを機に、教頭が不倫関係に終止符を打とうとしたのが発端で……」
「いや、説明いらないから。俺はこの二人が四月から転勤してくれるってわかっただけで満足だから」
ただ、知らない方が幸せだったのは紛れもない事実であって。俺のこの微妙な気分はどうすればいい。
そしてそろそろ、盗聴ごっこはおしまいにするらしい。なんでも、喧嘩の決着がついた以上聞く価値はないらしい。
俺はそれより教頭の行方が気になるけど。俺たちの入学式には、例年よりも美しく真っ赤に染まった桜を拝めてしまうのかもしれない。
「ね、氷名御さん。おもしろかったでしょう?」
「うんまぁ、中途半端に他人の痴話喧嘩聞くよりはいくらかマシだけど」
だからって聞いて良かったかというと、俺は全力で首を横にふらなきゃならないけど。
「それにしても、あなたは面白いですねぇ」
「誉めるなよ。死にたくなる」
「照れるとかではなく死にたくなる!?」
たりめーだおまえ。犯罪者に面白いとか言われても、毛ほども嬉しくないわ。
「でも本当に、今日は楽しかったです」
曇りのない笑顔だった。普通に笑ってるだけなら、可愛いもんなのにな。可愛い女の子に面白い言われるなら、それは光栄なことだ。
「てかあんた、単にものすごく暇だっただけだろ?」
「はい。そうでなくちゃ、リアル昼ドラなんかわざわざ見たりしませんよ」
「どちらかと言うと、リアルサスペンスドラマだったけどな」
まぁ、本心では昼ドラ趣味じゃないとわかっただけでも少しは彼女を直視できるようになった。
「さて、私はもう一仕事しなければなりません。今日は、このへんで」
少し寂しそうに、小さく手を振った彼女。そういえば、名前をまだ……。
「私は本宮日和。入学式後に、応接室で待ちます。では、また」
そう言い残した彼女、本宮日和はスカートを揺らしながら走り去って行った。嵐が去ったみたいに、辺りは静まりかえる。
「本宮、か。……面白い奴じゃん」
いや、危険だし強引だし、できるだけ関わりたくない相手ではあるけど。でもまあ、応接室か。
顔を出してやるくらいなら、いいかもしれないな。そう思った瞬間、ポケット内の携帯がメールの受信を伝えた。
誰だろうか?予想を張り巡らせながら携帯を開いた俺は、その途端に呆れてため息を吐く。
『登録しないと、いたずらしますよ♪by日和』
「なーんで、俺のアドレスを知ってんだよ。この女は」
やっぱこいつ危ないわ。しかもよく考えたら、応接室で待つっておかしくね?生徒が好きに使える部屋じゃないだろうが。
うん、関わらないようにしようかな。
そう決意した遥人の思いも虚しく、彼は入学式直後に応接室につれていかれることとなる。
職員の不倫という不祥事をネタに応接室を脅し取った日和によって。それからの話は、いままでの通り。
そして舞台は、それか一年後の今。白の日、ホワイトデーの午後、応接室にて。
「私たち、随分仲良くなりましたよね」
紅茶を美味しそうに飲みながら、幸せ満天の笑顔で日和は言った。
「それ、妄想だな」
ひねくれものの遥人は、相変わらずつれない反応だけど。でも確かに、彼女と過ごすこんな一日に幸せを感じながら。
「てか、せっかく一日言うこと聞いてやるってのにこんなんでいいのか?」
バレンタインにそういう約束をしたとき、日和は随分喜んでいた。てっきり、いっしょにどこかに出掛けるのかと思ったけど。
「いいじゃないですか。こんな、一日中ゆったりとお話して過ごす日々も」
ま、あんたが幸せならそれで満足だけど。言うのが恥ずかしかったから、思うだけ。
これまでは昔話をしていたんだ。ここからはそう、未来の話かな。
「あんな滅茶苦茶な出会いをしてから、何だかんだでいっしょにやってきたんだな。俺たち」
「愛ですね!」
「どちらかと言うと哀だ。ちょっと後悔してる」
だいたい俺は、一年前の時点で関わるのをやめるつもりだったんだよ。それがいつの間にか、こんな風に。
「なぁ。今からでも、あんたと関わるのやめてもいいかな?」
冗談めかして言ったつもりだった。何だかんだ言ったって、今さら離れようなんて思うわけないから。
でも、そのとき彼女は。いつも笑顔の彼女は。すごく悲しそうに俯いた。
「……氷名御さんがそうしたいなら、そうすればいいです」
俯いているせいで、表情が見えない。ただ、声が震えていた。
「でも」
顔を上げた彼女。目があって、しばらく見つめあう。そして、彼女は再び口を開いた。
「そうしたら私は、すごく悲しんで、すごく寂しくて、泣き続けます。あなたが慰めに来てくれなきゃ、いつまでだって泣き続けてやります」
いつもとは違った、か弱い女の子みたいな言葉だった。それが妙に、俺の心を刺激する。
「そんな私の姿が見たくなかったら、いつまでもいっしょにいてください。いいですね?」
や、それでも彼女は本宮日和だった。結局最後はいつもみたいな脅迫まがいの発言。でも……。
「そんな可愛い脅迫なら、いつでも聞いてやるんだけどなぁ」
呟くように、俺は言った。聞こえてしまったらものすごく恥ずかしいから、ギリギリ聞こえないように。
「え?今なんて」
ほのかに顔を赤く染めた日和が、俺を問いただす。でも、二度も言ってやるもんか。
「ま、俺はあんたに飽きるまでいっしょにいるんだろうけど」
そんな、当たり障りのない返答。そんな言葉にも、彼女は嬉しそうにはにかんでくれる。
「飽きさせたりしませんよ。いつまでも、ね」
こいつが言うと、多分飽きることはないなって思う。だって俺は、出逢ったあの日から一度も、こいつをつまらないと思ったことはないから。
危ない女だと思ったことなら、たくさんあるけど。
「そういえば、今日はホワイトデーだな」
「このクッキー、美味しいですけど安物でしょう?」
俺が無言で彼女に渡した安物クッキー。でも、何だか妙に紅茶とあうわけで。
「わかってるよ。三倍返し、だろ?」
それも、ただの三倍返しではない。俺が彼女からもらったものは、もっと厄介なもの。
気持ちの、三倍返し。そのために俺は、珍しく苦心してある品を用意したのだ。
「はい、これ」
長細いこじんまりとした包み。日和はワクワクと目を輝かせると、ビリビリと包みを破き開けていく。
「……あ。これ」
中から出てきたのは、一本のシャープペン。いつか遥人が壊した日和のそれと、まったく同じもの。
「おまえたまにメモをとるとき、あの引っかけるところの欠けたシャープペンを出すだろ?」
一年の間にすっかりパソコンを使いこなせるようになり、今やメモ帳とペンも疎遠になってしまった日和。
しかし今だにメモをとるとき、彼女はあのシャープペンを使っていた。遥人と出逢ったあの日の思い出だから。
「壊したの俺だしさ。ちょうど一周年ってことで、記念にもなるかなって」
恥ずかしそうに説明する遥人。自分なりには最善の選択をした自信はあるが、果たして喜んでもらえるのか。
しかし、心配する必要はなかった。日和は新品のシャープペンを大切そうにぎゅっと握ると、心からの笑顔で彼を見た。
「氷名御さんにしては、最高です……ありがとう」
ひねくれものな彼の、まっすぐな気持ち。ひねくれものな彼女も、まっすぐな気持ち。
そう、言葉も気持ちも、今は一つ。
「ではまた、これからも」
「ああ。よろしくな」
今日くらいは、素直な気持ちで。一年のときを経て、変わった関係に思いを馳せつつ。
白の日の午後は、ゆっくりと流れていく。大切な時間をのせて。
こんな一日
そんな日常
日和と遥人の出逢いの話。二人が出逢って一周年。そして何と、私が小説を書き始め、この日常賛歌の連載を始めてからも一年。……精進せねば。