第五十話 君を忘れた世界で
激長話ゴメンナサイ。普段の四倍超です。
さて、記念すべき(?)第五十話は番外編『仮想バッドエンド』です。お楽しみいただければ……。
君が。
君という存在が消失してから、少しのようで長いような時間が経った。
君はまるで、道化師のように。偽りの笑顔と、悲しき覚悟を失うことなく。
レトロゲームのセーブデータみたいに、ある日冗談みたいに消えてしまった。笑ってしまうくらい、あっさりと。
それでも世界は平然としていて、あの日も今日も変わることなく回る。
巡り廻る運命とくらべたら、最早面白みのない程に、簡単そうに世界は回る。
君を忘れた世界。君が忘れた世界。君に忘れられたぼくら。君を忘れられない誰か。
そして、ぼくらを忘れようとした君。そのサイクルには、あるものが決定的に欠けていた。
『幸福』 君やみんなが何よりも渇望していたはずのそれを、決定的に欠損しているのだ。
幸せのための覚悟が幸せを生み出すとは限らないうえに、君のいない世界に幸せがあるとは限らないのに。
心の底から言ってやる。君がいつもに言っていた言葉。君は、あんたって奴は本当に。
ばかだ。
本当に、ばか。
決定的なことにはまるで気づけていないくせに。そんなことをしたって幸福が生まれないことくらい、わかっていたくせに。
俺と同じ。俺もあんたもどうしようもなくばかだったから、こんな風に破綻してしまった。
あんたは俺と同じくらいばかなくせに、俺なんかよりずっと強くて。強すぎて弱すぎて、孤独で。
道を、間違えた。自分の信念を裏切る道を歩んだ。本当にただの、ばか女。
ただ、道を間違えられるのは、歩み出す強さのある奴だけだから。ずっと立ち止まったままの俺なんかよりは、いくらかマシなんだろうけど。
けど、あんたは間違ってる。だって、あの娘は泣いてたから。
あんたが誰よりも大切にしてたあの娘は、確かにあの日、俺の目の前で泣いていたから。
だから、今さらだけど、こんな俺だけど、意味なんてないだろうけど、言おう。
帰って来て。みんなやみんなのいた世界を、思い出して。こんなバッドエンド、望んじゃいないだろう?
目が覚めた。寒い寒い冬の日の朝はどこか寂しくて、いつかの夢を思い出してしまいそうでもある。
どことなく不安な気持ちになりながら辺りを見渡した。しかし、そこにはやはり何もなかった。
不必要な異端はおろか、いつか自分が大切にしていた幸福な異端さえも。そこには何もなかった。
俺の幸福は家族です。家族は消えました。
それから、俺の幸福は二人の少女に代わりました。
でもやっぱり、一人の少女は消えてしまいました。それと同時に、もう一人の少女も手放すことにしました。
怖かった。幸福を失うことはもとより、いつしか幸福を手に入れることさえ怖くなってしまった。
ついでに、他人に踏み込まれるのも怖くなったから。もう一度俺は、あの頃みたいに仮面を着けました。
笑顔という名の仮面。間違っているとわかりながらも、剥ぎ取ることはできなかった。
それが、今の俺。氷名御遥人という名の不良債権。世界とあの娘に忘れられた不要存在。
月島奈央。彼女が忽然と姿を消したあの日から、彼のカタチは変わっていってしまった。
他人を遠ざけ幸せを遠ざけた。笑顔の仮面で壁を作る彼。
本来、彼がなってはならない一番危惧すべきだった姿。全ては、既に崩れ去っていたらしい。
だからこの物語は、そんな彼の“あの日”からの変化と行く末を辿る、そういう物語。
バッドエンドは、続いている。
『番外編 君を忘れた世界』
またの名を、仮想バッドエンド。さあ、ゆこう。
「おはよう、氷名御くん」
教室に入るなり笑顔で挨拶をしてくれた女の子。誰だっけ?思い出せないけど、適当に笑い返す。
「うん、おはよう」
女の子は納得したように頷いて去って行った。俺の対応は間違ってなかったらしい。
適当に笑っておけば、相手だって気分を悪くせずに納得してくれる。そしたら、下手に近寄られたりはしない。
小心者の俺は誰かに嫌われるのが怖くて仕方ない。でも、こうやって笑っておけば嫌われたりしない。
弊害として、誰かに好かれるってこともなくなってしまうけど。ただ、好かれるなんて面倒だしね。好かれなくて結構。
なんて便利なんだろう。この仮面を着けている限り、俺は自分を隠し続けることができる。
誰にも踏み込まれないで済む。だから俺は、今日も笑う。適当に、その場しのぎに、安売りの笑顔をばらまくんだ。
ただ、例外はあるけど。
「遥人ォォォォハヨォォォォオ!」
やかましいという言葉が似合うを通り越して、やかましさそのものとなってしまった男。
俺が今でも唯一偽物の笑顔を向けられない相手。褐色肌の不可欠存在。
「ん」
何かもう、朝からハイテンションなことこのうえないらしいなこの男は。
ほとほと呆れつつ、およそ一番の友人に対しての反応としては端的で冷淡過ぎる返事を返す。
「オイコラ、『ん』とはなんだ。それだけなのか?俺に対する朝の挨拶はたった一文字なのか?」
俺は答えない。代わりに目を合わせて鼻で笑ってやった。あ、コラ。中指を立てるな!
「もうお前、俺に対して言葉を発するのさえ無駄だと言いたいのか?」
「だいたい正解だけど、強いて言うならお前に対して何も感じたくない。五感を全て閉ざしたい」
「お前の人生を閉ざしてやろうか?」
いつものように、攻撃的で無意味な会話。時間の無駄だとは思うし、何度繰り返すのかとバカらしくなりもする。
でも続ける。続けられることが何よりも幸せであると知っているから。
「今日、放課後に応接室な」
会話が一段落したところで、疾風は明後日の方向を向きながらおもむろに言った。
「応接室?本宮に用事でもあるのか、それともついに奴隷契約成立か?」
「俺は奴隷にされるほどの弱みは握られてねえ。や、あれが知られてなければ多分……」
あれって何さ……?てか、そんなことを言ってるとだいたいはあのパターンだな。
「あれって、なんですか?」
明るい声。振り向けばそこには、絶対零度の太陽スマイル。制服に身を包んだ彼女、本宮日和が首を傾げて立っていた。
あ。疾風、死んだな。
「も、本宮っ!?」
「おはようございます。日和ちゃんです!」
びしっと敬礼をきめて見せた日和は、すぐに本題に移るため疾風に向き直った。
「で、あれって?」
可愛らしく小首を傾げてはいるのだけれど、その笑顔が相変わらず怖い。やっぱコレ、できるだけ関わりたくないわ。
「っと……あれっていうのはですねー……そのー」
なんて歯切れの悪い返答だろう。それもそうだ。素直に答えたらその途端に奴隷化するわけだから。
しかし、答えなければ答えないで……。
「ふーん、答えないんですか。私には教えてくれないんですか」
「や、その」
拗ねたように腕を組みそっぽをむく日和。そろそろ、危険だろう。
「別に構いませんよ、私は。ただ」
「ただ?」
ただ、今回は何をするつもりなんだ?
「ちょっと茜ちゃんにないことないこと吹き込んで、ちょっと関係が悪化するだけのことですよ」
うん、悪魔か。なんだよないことないことって。ねえのかよ、全部嘘かよ。彼女を脅迫の道具に使ってやるなよ。
おい疾風、お前その速さは何?もう日和が喋り終わる前にすでに土下座の体制に移行してたよね。
「ゴメンナサイゴメンナサイ、話しますのでどうかお許しください!」
な、情けなっ!や、俺だって同じ立場ならそうしただろうけども。
しばらく半泣きになりながら何かを話す疾風と、それを生き甲斐の如く楽しそうに聞く日和を眺めていた。
そういえば、放課後に日和のとこに行くのはどうしてだろう?二人の話が一段落したのを見計らって聞いてみた。
「あ、それはですね。二人に私の買い物に付き合ってもらおうと思って」
なんだそりゃ。めんどくさいことこのうえないな。疾風も今初めて知ったらしく不服そうな顔をしている。
「えー、何で俺たちが」
「何であんたなんかと」
「別の人つれてけばいいじゃんよ!」
「そういえば、女友達とかいないのか?あんた」
「桐原さん。本当に奴隷になりますか」
「申し訳ありませんでしたっ!」
相変わらずの謝罪スピードは最早尊敬に値するレベルである。そして日和はやっぱりこあい。
「そして氷名御さん」
「あだだだだだだだぁ!」
痛い痛い!ぐりぐりやらないで顔が潰れるから!なんで俺だけ体罰?
「な、に、げ、に、酷いこと言ってましたよねぇ?結構傷付いたんですけど」
どさくさに紛れて疾風より俄然失礼なことを言っていたのがバレたらしい。
「悪かったよ。買い物付き合うから許して」
いや、ほんとめんどくさいけど。
「最初からそういう態度でいればいいんですよ。では、放課後に応接室に」
「あいよ」
結局、こんな展開もいつも通りかな。俺は仮面を着けたけど、どうも上手く欺ききれない厄介な奴も多々いるわけで。
それが幸せなことなんだとは、今の俺には気づけないことだけど。
そして、放課後。
「で、どこ行くの?」
欠伸を漏らしつつ、どうでもよさ全開で建前として聞いてみる。
「お菓子屋さんです。そんなに遠くはありません」
「しかし買い物は長いんだろ?気が遠くなります」
「氷名御さんの死期を近くしてさしあげましょうかね?」
「遠慮させていただきます」
とりあえず、買い物が長くなるのは否定しないらしい。ため息を吐いたところ、疾風も同じように意気消沈している。
「なんで俺は、茜ちゃんにも会わずに独り身女の買い物に付き合ってるんだろうな?」
「えらくスレてるな」
「お前や本宮と関わってスレない奴はおらんわ」
物凄く失礼である。俺はアイコンタクトで日和に意思伝達をすると、ニヤリと笑い疾風の耳元で何かを囁く姿を眺めていた。
そして、ようやく出発。何故か青ざめた疾風を伴いつつ、俺たちは最寄りの菓子屋に足を運んだ。
「氷名御さん。甘いものは好きですよね?」
ガラスケースの中の菓子を物欲しげに見つめていた俺に、日和はどこか愉快そうに問いかけた。
「んー。甘いものはいいよな。あんたの次くらいに好きだ」
「へ?」
何気なく、呟くようにいった言葉。日和は初めきょとんとしたまま反応できずにいだが、意味を理解すると一気に顔を紅潮させた。
「え?お菓子……好きで、私の……次?」
珍しく混乱しているというか、穴があったら入りたいほど日和は恥ずかしい気持ちでいた。
「つまりそれ……こくは」
いよいよ、日和が勘違いし始めたようである。そろそろ真意を伝えねばなるまい。
「好きだぞ。ビーフジャーキの次に」
「って、そこですかっ!?そんなレベルなんですか私は!お菓子以上ビーフジャーキ未満ですか!?」
せめて友達以上恋人未満でやっていきたい日和としては、どうしようもなく壊滅的なランクである。
一方、たまにはきょどってる日和を見るのも悪くないなと思ってる遥人。ただただ、自然に笑った。
「もういいですよー。知りませんからね、氷名御さんのことなんて!」
「拗ねるなって。で、菓子が好きならなんなんだ?」
「せっかくですから、氷名御さんにも何か買おうと思ったんですけどね」
でも、やっぱりやめようかな?などと言い出しそうな瞳で俺を見つめてくる。くそ、やっぱこの女強い。
「ゼヒ、買ってください日和サマ」
心を込めたようで実はまったくこもっていない口調で頼みこむと、日和がため息混じりにお菓子を注文し始めた。
「ケーキとせんべいとチョコとせんべいとせんべいとせんべいとプリン。はい、ここまでが私の分」
「いや、せんべいばっかじゃん」
「マイブームです」
そうですか。しかし、ここまでが私の分ってことはやっぱり、ここからは俺の分か?
「お察しの通り、ここからは氷名御さんの分ですね。……シュークリームを三つ、お願いします」
ありがとう、と。言おうとして、言えなかった。シュークリームの甘さを思い出すのと同時に、いつかの三等分が頭をよぎったから。
「……ありがとう」
ようやく言葉が出たのは、日和からシュークリームの箱を手渡されたときだった。
俺は、嬉しい気持ちと複雑な気持ちが混同していてどんな顔をすれば良いのか良くわからなかったけど。
とりあえず、いつも通り、意味もなく。笑ってみることにした。
「……貴方は、結局それなんですね」
「え?」
ほの暗い声。およそ本宮日和という少女から発されるとは思えない影のある声に、俺は動揺を隠せなかった。
「俺、なんかまずいことした?」
努めて明るく、冗談でも言うかのように。しかし、日和は答えることなく早足で店から出て行った。
それを追って外に出ると、入り口で待機していた疾風と目が合う。疾風が目配せした先には、背を向けて立つ日和。
「貴方は、いつもそうです。あの日までずっと、あの日からずっと」
何が言いたいのか、理解ができないしたくない。怖い。知るのは怖い。自分のことも、他人のことも。
「また、貴方は私を騙しました。嬉しくなんかない癖に、無理矢理笑いました」
「シュークリーム……わかってて差し出したのか」
日和が頷く。同時に俺はうなだれる。試したんだ、彼女は俺を。俺の仮面を見破った。
「さっき、私と話してたとき。自然に笑ったじゃないですか。いつも、桐原さんと話すとき、自然に笑うじゃないですか。それなのに」
それなのに俺は、偽って笑う。傷つけたくないし、傷つきたくないから、笑って誤魔化して、壁を作る。
「もうたくさんです。奈央さんがいなくなったあの日から、私に向ける笑顔は偽りばかり。まるで、出逢ったばかりの頃みたいに」
傷つけたくなかったはずだ。だからさっきも、好意を無下にしないために笑ってみせたはずだ。それなのに、どうして?
「勝手に独りになって、勝手に壁を作って。シュークリーム、思い出したくないはずでしょう?」
思い出したくない。もう二度と、あんな日々を取り戻せないから。
「なら、どうして笑うんですか!いつもいつも、どうして私に嘘吐くんですか!私にくらい、本音を教えてくださいよっ!」
それができないから、辛いんだ。信じたい。頼りたい、寄り掛かりたい、近づきたい、素直に笑いたい。
それが、できなくなっちゃったんだよ。彼女が消えたあの日から。どうすればいいかわからないんだよ。
黙ってうなだれる俺に、日和は本音でぶつかってくれた。ずっとずっと、本物の自分で。
「シュークリームは、真央さんと食べてください。おいしいって、笑い合ってみてください。きっと気づけますから」
さっきまでむしろ叫んでいた彼女は、自分を落ち着かせるように深呼吸すると、ブンブンと頭を振って気持ちを切り替えた。
「私は、氷名御さんの見方ですからね。信じてくれるまで待ちますからね。……大切な友達ですからね」
そう言って、綺麗に笑った。あんただって、辛いときに笑うじゃないか。でも、どうしてだろう?
そんな笑顔が、なんだかすごく輝いていた。
「ごめん、日和。わかってんだよ、俺も。間違ってることくらい」
わかっているんだ。変わらなきゃならないことくらい。
わざわざ買い物に付き合わせてかまかけなくたって、ちゃんとわかってはいるんだよ。でも、踏み出せない。
「俺は……」
続く言葉がなくて、背を向けた。『ごめん』とだけ呟いて、そのまま日和の元を離れた。
俺は、どこで間違えたんだろう。帰ってから、一人で考えることにする。
そしてこちらは、取り残された日和と忘れかけた疾風。しんみりとした空気が続いていた。
「お前でも、うまくやれないことがあるんだな」
疾風が、独り言のように呟く。俯いたまま動かなかった日和が顔を上げた。酷く弱々しい表情だった。
「そんなこと、たくさんありますよ。元々私は、知っているだけなんですから」
どことなく自虐的に答えた日和に、疾風はため息混じりに応対した。どうも、友人が揃ってしけた面をしているのは嫌なものだ。
「本宮。遥人ってさ、どんな奴か知ってる?」
「知ってました。けど、自信がなくなりました」
「なら、遥人をどう想ってる?」
我ながら、変な質問である。そんな質問に素直に答える本宮なんて、本宮じゃない。
「氷名御さんには……私の相方でいて欲しかった」
「相方?」
「一緒にいて、一緒に感じて、一緒に考えて、一緒に進みたかった。それは、恋人とかとはちょっと違うけど」
例えるなら、桐原さんと氷名御さんのような関係だ、と。疾風を軽く睨み付けながら答えた。
「だから、桐原さんが羨ましいです。氷名御さんから誰よりも信用されてる貴方が」
「そりゃどーも」
いや、その立場を譲る気はないけどな?
「そうなりたいんなら、諦めんな。あいつは、ちゃんと変わってくれるから。信じて接し続けなよ」
ただ、それだけのことを言い残して。先ほどの遥人と同じように、疾風も日和のもとから立ち去った。
「諦めんな、ですか」
独り呟く日和。しかしまぁ、どういうわけかこの娘、やけに強い。
「当然ですよ。諦めてなんかやりません。私は、氷名御さんの相棒なんですからね!」
彼からは、たくさんのものをもらったから。今、私が返す番なのだろう。
私だけではない、ほかのみんなも。彼が道を見失っている今こそ、今までの分を返そうではないか。
「遥人さん。私は、あなたを許してなんかやりませんからね」
離してなんか、やりませんからね。
それは決意。常に裏方、物語の糸を引き歯車を回すのが役目だった少女は、今自分の意志で表舞台に参戦することを決めた。
そして、ここにもまた。舞台に上がることを決めた者が一人。いつかの記憶に思いを馳せ、帰路についていた。
すっかり馴染んでしまったバイト先から、こちらも馴染み深くなったアパートへ帰宅する。
織崎紫音はこの家路を歩くとき、いつも思い出してしまうことがあった。それは、あの日の記憶。
今日みたいに晴れてはいなかったその日、紫音は珍しく夕方にバイトを終えた。ただ、何気なく。その日は早く帰ろうと思った。
「そうね。今日のあなたは、今帰るべきよ」
どこか意味深に言ったのはバイト先の店主、通称黒さん。彼女の許しがあっさりと出たのだから、私は帰って良いのだな、と。
あまり深くは考えず、私は帰路についた。
「帰るべきときに、貴女は帰りなさい。……別れるべきときではなくても、別れるでしょう。それは、変えられたはずの運命だけど」
誰にも聞こえないように、誰にも解りはしないことを一人呟いた店主。大事な看板娘の行く末を、静かに見守ることにした。
さて、店の外に出た紫音が目にしたのは、相も変わらずどしゃ降りの雨。朝からずっとこの調子である。
ただ、雨は嫌いではなかった。あの人との、わりかし幸せな思い出があるから。
傘をさす。今日は一人。表情は変えずに、しかしほのかに気分を高揚させながら、紫音はアパートまでの道のりを歩いた。
雨の匂い、そして音。嫌いではない。むしろ好き。幸せな時間を思い出せるから。
アパートにたどり着いた紫音は、屋根の飛び出た部分の影に入り雨をしのぐ少女を発見した。
桃色の髪。小さいくせに、なにか大きな物を背負っているかのような背中。彼女、月島奈央は、見上げるようにして一心にアパートを見つめていた。
こんな雨の日に、どうしてアパートを観察しているのやら。
雨の音は激しく、足音さえも聞こえはしない。私はそっと彼女の背後に立つが、やはり気づかれない。
「奈央さん」
驚いたらしい。肩をびくっと振るわせて、すぐに振り向いた。目が合うと、彼女はほっとしたように肩の力を抜いた。
「織崎さん、やけに帰りが早いんですね」
いつも通り……いや。いつもとはどこか違う様子で、彼女は私に笑いかけた。どうしてだろうか?すごく、苦しそう。
「何となく、今日は早く帰ろうと思って」
私の言葉に呆れたように、彼女は言った。深く不覚、ため息を吐きながら。
「……どうして、今日に限ってそんな」
目に見えない何かを。運命を憎むように。私は敢えて深くは触れてらやずにいた。
「貴女は、何をしてるんですか?アパートを見つめてたみたいですけど」
「ええ。ちょっと、出掛けようとしていたところだったんです」
「傘も、持たずに?」
彼女は苦笑いを浮かべて、ばつが悪そうに空を見上げて言った。
「そうでしたね。雨なんですよ、今日は」
「だから、これ。私はもう使いませんから」
私はそっと持っていた傘を差し出した。彼女はやはりきょとんとしたような表情で、しばらく傘を見つめていた。
「あ……ありがとうございます」
遠慮がちに受け取った彼女は、すぐに私から目を離して。振り切るように、外へ行こうとした。
しかし、思いとどまったらしい。彼女はもう一度私を見つめると、慈しむような笑顔で言った。
「真央ちゃんと遥人さん。寝てると思うんですけど」
私は、特に耳を澄ますわけでもなく。ただ、雨音と共に彼女のか細い声を聞いていた。
「真央ちゃんのことは、遥人さんに頼みました。たから、遥人さんのことは、織崎さんに頼んで良いですよね?」
「ええ。もちろん」
無意識のうちに出た言葉だった。しかし、寝ている二人を残して出掛けるのが心配なのだろうか?
良く考えると良くわからないことを聞かれた気がするけど、彼女が私を頼ってくれたことが嬉しい。
「頼みましたから、ね。では、私は行きます」
念を押すように言った彼女は、いよいよ傘をさし雨の中へ消えようとした。しかし、今度は引き留めてしまった。
「奈央さん。どちらへ?」
正直、行き先などどうでも良かったけど。何故か、彼女と一秒でも多くいたいと思った。
「少し、遠くへ」
振り向いて、笑顔でそう答えた彼女。雨音に遮られても、聞き逃すことはなかった。
「そうですか。……お気をつけて」
「はい、貴方も。では」
「では」
何とも和やかなムードで、私は自然と手を振った。振り返らない彼女には、見えていないだろうけど。
「ありがとう……さようなら」
最後に、何かを言った気がしたけど。その言葉だけは何故か、雨音に遮られてしまった。
そして彼女は、どしゃ降りの雨の中に消えてしまった。帰ってくることは、なかった。
それが、あの日の記憶。同じようにアパートに向かう今日。返却されることのなかった傘も、今日はさす必要がない。
あの日と違ったのは、それだけではなかった。アパートにたどり着いた紫音は、あのときの彼女と同じ場所に立ち尽くす少年を発見した。
アパートの主、遥人。かつて私を救い出してくれた彼。その瞳が何か大切なものを失ってしまったのも、あの日。
呼び掛けようとしたところ、彼が先に私に気づいたようだ。一目でわかる無理矢理作った笑顔で、彼は私を見た。
「お帰り、紫音さん」
「……ただいま。帰ってたんですね」
「うん、今。てか、紫音さんこそ珍しい時間に帰って来ますね」
「……ええ、まぁ」
珍しい時間。前と同じ、そしてあの日以来。ただの気分で帰宅した私。
それでも、やっぱりまた意味があるのかもしれない。ただの気分。それすなわち、運命に引き寄せられたのだ。
そうでなくてはあの日、私は最後に彼女に出会うことはできなかった。だから多分、今日だって。
「ちょうど良かったです。遥人さん、少しお話があるんですが」
そう、このタイミングでこの話をしなければならないってことはやはり、その結果何かがあるんだろう。
「どうぞ。ちょうど暇ですから。では、俺の部屋に」
道化師のように笑顔をはりつけた彼だけど、何かあったのは明白。良く見ればかすかに動揺しているのがわかる。
多分、辛いことがあったんだろう。それも、かなりの。そして私はこれから、また辛いかもしれない話をする。
彼の部屋も、良く考えると久しぶり。心閉ざして部屋閉ざすとでも言うのか、以前よりあまり中に入れてくれなくなったから。
私は何より一番、姉妹の形跡がなくなってしまったことが痛かった。奈央さんだけでなく、真央さんまでもが今はもうここに住んでいない。
奈央さんがいなくなると、真央さんは二階の一室で秋隆さんと過ごすようになったのだ。
一人にしてくれと、彼がそう言ったから。真央さんは悔しさと悲しさを噛み殺して、この部屋を出て行った。
そして今は三人で過ごした面影さえもなく。今の彼が一人であると教えるように寂しさを醸し出した部屋となっていた。
「で、話って?」
紅茶を淹れた彼は、一つを私に差し出すと正面に座りながら話を切り出した。
「……実は今朝、連絡が来たんです。実家から」
ようやく、見つかってしまったのだ。電話だった。それは、日々の終わりだった。
瞬時にその言葉の持つ意味を理解した彼は、ほんの一瞬だけ時の流れを呪うかのように歯を食いしばった。
本当は、泣かれるかもなんて。泣いてくれちゃうんじゃないかなんて、ほのかに期待してたけど。
けどやっぱり、貴方は泣かない。いや、泣けないんですね。
「近々、実家に帰ることになるでしょう。そうしたら両親とも良く話して……」
彼は表情を変えない。今もまだ、笑顔の道化のままでいる。
そして私は、決定的な一言を口にする。
「帰れないでしょう。おそらくここには。いえ、間違いなく、ここには」
泣いてはくれない。悲しみすら、見せてはくれない。私は、貴方にとってその程度の存在だったの?
その気になれば、別れの悲しみさえも我慢できてしまうような。そんな程度の人間だって言うの?
それは、きっと。すごく悲しいこと。案外、泣いてしまうのは私なのかもしれない。
でも、私には。自らここを離れて行く私には、悲しみに涙する権利なんてないんだろう。
「……お別れですね」
試すように、私は語りかけた。その仮面、道化、いい加減引き剥がせないものかと。
「うん。そうみたいだね」
まだ、笑顔。
「……お別れですよ?」
「うん。残念だよ」
この時ばかりは、本当に残念そうに。しかしやはり、苦笑いであった。
「……止めないんですか?」
「うん。迷惑でしょう?そんなことされても」
迷惑なんかじゃない。そう言いたいのに、言えない。もう、本当に私が泣いてしまいそう。
「……話は、それだけです。詳しいことはまた後日」
「うん」
「では、私はこれで」
「うん。じゃあね」
「……はい。さようなら」
席を立ち、背を向けた。もう振り返らない。彼の元を離れること、絶対に躊躇ってしまうから。
私はこれから、家族に勝手にやってきた分のツケを払わなければならない。
そのためにはもう、ここにはいられない。今こそ、別れるべきときなのだ。
振り返らない、振り返らない。躊躇する、停滞する、後悔する。だから、振り返らないと決めたのに。
私は振り返ってしまった。彼は相変わらず、笑っていた。
何かが弾けた。いろんなことがどうでもよくなった。ただ、その笑顔だけは見てみぬふりできなかった。
「……遥人さん」
多分、私は今怒っているのかもしれない。その笑顔が、気に入らない。
「紫音さん?」
私の感情の変化に気づいた彼は、ここでようやく笑顔を捨てた。不安そうな表情。感情を模写した表情。
「私は、貴方が泣いてくれると思っていました」
今朝、電話で帰宅指令を出されて。一番最初に考えたことが、彼のことだった。
彼を悲しませないか?彼のことを諦めるのか?このまま別れて満足なのか?
そんな自問自答を繰り返した。たどり着いた答えは単純。“彼が泣いてくれたなら、いっそ未練も後悔も拭って別れられる”。
泣いてくれたなら、彼が私を思ってくれていたことがわかる。わかれば、満足はできる。
そう、彼が素直に泣いてくれれば、それだけで良かったのに。全ては世界の回転の如く滞りなく済んだのに。
あなたはわらったから。ぜんぶ、くずれさってしまった。あなたのせい。
「でも貴方は、泣いてなんかくれない。泣けないままです」
私は、この人を放っておいちゃいけない。この人は、私を救ってくれた人だから。
「悔しい。貴方に泣いてももらえないことが。悲しい。貴方が泣けないままでいることが」
貴方の弱さ。泣けない弱さ。産み落とした破綻。二度と、繰り返させないために。
「私は貴方を見逃せない。貴方が素直に泣けるようになるまで、私は貴方から離れるわけにはいかない」
実家からのお呼び?知らない。私には、やらなきゃならないことができたから。
「実家に帰るのは取り止めです。今度は私が、貴方を救い出しますから」
それだけ言って、恥ずかしくなって。逃げるように彼の部屋から飛び出した私。
でも、この覚悟は揺るがない。私は彼からたくさんのものをもらったから。これからは、私が返す番。
さあ、舞台へ上がれ。
一方、盲進もほどほどにして欲しいくらい勝手に話を進められ、勝手に終わらされてしまった遥人。
「え?結局、まだここにいてくれるの?」
もちろん、答えてくれる人などいない。虚しく響く声は、寂しさを思い起こさせるのには充分で。
嬉しい。紫音さんがまだここにいてくれる。俺のために、俺なんかのために。
「でもきっと、最後まで俺は泣かないよ。だって、誰にも心配されたくなんてないから」
独り言。誰も聞かないで欲しい。誰かに聞いて欲しい。誰にも理解されなくていい。
ただ、胸が痛い。それだけのこと。
それだけのことなのに、俺の心は動いた。日和からもらったシュークリーム。真央さんと食べるんだ。
招こう、この部屋に。あの日俺が真央さんを追い出して以来初めて、彼女を招き入れよう。
気づいたときには、彼女が住んでいる秋隆さんの部屋にノックしていた。無意識に近い、意識的行動。
真央さんは出るかな。秋隆さんが出るのかな。目を見て話せるのかな。また笑ってくれるのかな。
そして、扉は開かれた。現れた少女は俺を見て、真っ直ぐで澄んだ瞳で俺を見て、笑った。
ひとの心配なんか少しも知らぬであろう少女の笑顔は眩しくて、向き合えそうにないくらいで。
「どうしたんですか?遥人さん」
まるで、あの頃から切り取った時間のような。何一つ変わらぬ彼女。
「シュークリーム。食べに来ない?」
だから俺も、切り取られた時間のように。自然な笑顔で彼女を誘う。なんでもないことみたいに。
「秋隆は、お菓子食べすぎると怒るから」
俯き加減でそう言った。そうなんだよな。真央さんはもう、秋隆さんと生活してるんだもん。
あの頃と同じようにだなんて、できるわけ……。
「だから、秋隆には内緒ですよ?」
心だけは既に自分の部屋に引き返しはじめていた俺は、腕に抱きつき上目遣いで見つめる真央さんをどうしていいのかわからなかった。
カムバック!まいはーとカムバーーック!まさに文字通り心ここに在らずの状態。
ようやく心がだるそうに体の方に戻ってきた感じ。しかし、思考能力が回復してもわからんもんらわからんわけで。
「え?真央さん、来てくれるの……?」
「はい!なんかもう、秋隆とかどうでもいいですからね」
それは可哀想だろ!おい、今扉の向こうで秋隆さんが目頭抑えながらうずくまってたぞ!
秋隆さんの名誉のため、俺は真央さんを外に出しドアを閉めさせた。あれはそっと泣かせてあげるべきだろう。
「来てくれるんだ。ありがとう、真央さん」
気をとりなおして、俺は腕にしがみつく真央さんに礼を言った。すると、彼女は不思議そうにしている。
「どうして“ありがとう”なんですか?」
「そりゃあ、その……来てくれないんじゃないかって思ってたから」
追い出したの俺だし、遠ざけたの俺だし、何より奈央さんのことは俺の責任だし。逆に、何で来てくれるんだか。
「関係ありませんよ」
「は?」
「関係ありませんから。遥人さんが私を追い出したとか、そんなのは」
んなわけないだろ、と俺は思ったわけだが。どうも、彼女はそれが本心らしいのだ。
「私はそんなの、何とも思ってませんから。だから、ありがとうなんて言わないでください」
俺の腕を抱いていた力が強まり、絶対に離さないとばかりに締め付けた。相変わらずの上目遣い。しかし微かに、瞳は潤んでいた。
「だって、普通のことでしょう?私が遥人さんのうちにいて、一緒にお菓子食べることなんて」
それは、疑問ではなかった。言うなれば懇願。俺に、普通のことなんだと同意して欲しいのだろう。
本当はもう、普通のことだなんて思えやしないけど。彼女を悲しませたくないから、そう思うことにする。
「じゃあ、ありがとうは取り消し。行こうか、真央さん」
そう言うと、途端に彼女の顔は明るくなった。俺の嘘で、偽りの笑顔で。
「じゃあ、一応秋隆に言わないと」
「そうだね。シュークリーム食べることは隠しつつ、うまく誤魔化しな」
嘘を吐いたあげくに嘘を吐くことを勧めている自分に心底嫌気がさしたりもする今日この頃である。
それでも真央さんは陽気に頷いて。ドアを開け秋隆さんに聞こえるよう叫ぶ。嘘を、偽りを。
「うーん……うまく誤魔化して、ですか」
「うん、なんかこうテキトーに当たり障りなく」
「よし。秋隆ーー!」
多分今も泣いているだろう秋隆さんを気遣い、こちらに来なくても聞こえるように叫ぶ。
微妙な、あまりにもわかり難い優しさ。真央さんってのはいつもこんなんだ。
「はい、なんでしょう」
で、その微妙な優しさに気づけない秋隆さん。わざわざ律儀に真央さんの前まで駆けつける。
てか速っ!さすがは元執事とでもいうべきか。真っ赤になった目も気にせずに駆けつける様は正にプロである。
「あのね、秋隆。遥人さんが私を食べたいって言って譲らないから、ちょっと行ってくるね」
「……はいっ?真央様を……食べ?」
「カッコの中を言えェェェェ!!なんでその文体にしたの!?もっと別の言い方があるだろうがっ!!」
「それを言ったらバレちゃうじゃないですか」
「バレろ、いっそバレろ!これはもう俺の名誉の問題だからねっ!?名誉毀損だよコレェ!」
「世の中にはきっと、毀損されても良いものだってありますよ」
「俺の名誉がそれだと?訴えるぞコノヤロー」
「遥人くん血迷うな。君を訴えることになるぞ!食べるはまずい」
「秋隆さん話聞いてた?」
ああ、もう。この人たちは本当に厄介だ。手におえやしない。本当に―――
楽しいな、こんな時間が。戻りたいな、こんな日々に。だけど、そのためには一つ、足りないものがあるから。
「そうだ、遥人さん。今日はそっちに泊まってもいいですよね?」
「……ん、いいよ」
迷ったけど、やっぱり俺は戻りたい。あの頃みたいな生活に戻りたい。あの娘を、諦められない。
「良かった。秋隆と同じ部屋じゃ安心して寝れませんからねー」
「真央様それはどういう意味でしょう」
真央さんがまたもやさらっと傷つくことをぬかすと、秋隆さんも不安そうに問いただす。
「こっち見ないでよ秋隆。もうセクハラだよ」
「もう死ねばいいんですよねぇ!あはははははは!」
「秋隆さん落ち着いて!ちょっ、壁に頭打ち付けないでくださいアパートが傷みますから!」
まだまだ築一年足らずの超ピカピカ物件が売りなんですよ!断じて変人住民多数が売りではないんです!
「秋隆。縄は押し入れに、踏み台は物置にあるから」
「ナニをさせる気だ何を!ちょっとは気遣えって!」
もうこの娘止まんねえや。久々な分、真央さんなりに溜め込んできたものがあるのかもしれない。
だとしたら俺のせいか。ごめんなさい秋隆さん。でも、もう溜め込ませたりしないから。
「そうですよね、もっと気遣いがないといけません」
そうそう。そしてこの娘はちょっと見ない間に少し成長したみたいだ。
「ごめん、秋隆。用紙と筆はこっちで用意するから。あと弁護士も」
「ナニを書かせる気だ何を!い、から始まって、ょで終わるもんだろうが!どんな気の遣い方だ!」
やっぱり成長してませんでした。や、変わらず可愛い女の子ですが。この毒気さえ抜ければなぁ、と。
秋隆さんがものすごく嫌そうな顔をしている。そらそうだ、さすがに縄と踏み台を使いこなしたくはないだろう。
「あれ?なんだか嫌そうだねぇ、秋隆」
「ええ。失礼ながら、それはもう」
わりと切実に拒絶されたためか、真央さんも何だか真剣に考えはじめた。
いや、何を考える必要があんの?やめてやれよ、単純に。
「仕方ないですね。縄と踏み台が嫌なら、戸棚にあるバ○ァリンを大量に服用して」
「そっち!?秋隆さんが拒絶したのはそっちなの?なんで方法を現実的かつマニアックなものにしたんだよオイ!」
「バファ○ンの半分は優しさでできています」
「いつかのCMか!?優しさでできてたから何だよ、何一つ優しくねえよ」
「積み重なった半分の優しさに押し潰されてしまえ」
「ヤメロ、なんかもうそれは営業妨害の類いだから。あとニヤリと笑うのはやめようか、怖いから」
「ああ、もうこの際それでいい気が……。半分は優しさなんですよね?」
「何を確認してんですか秋隆さん!変わりませんからね?半分が優しさだろうと何も変わりませんからね」
「じゃあ秋隆、行ってくるから。明日までに済ませてね」
「何を催促してんだそこ!よく見てみろ、あの秋隆さんの絶望にうちひしがれた顔をよく見てみろ!」
まあそんなわけでしばらく秋隆さんの部屋の前で停滞していた俺たち。ようやく、一階の我が家にたどり着いた。
「さて、食べようか」
「私を?」
「シュークリームを」
ったくこの娘は。男子高校生を甘く見るなよ?めちゃめちゃ危険なんだからな?食べちゃうんだからな?
そして、差し出されたシュークリームを食べることなく、真央さんはしばらく辺りを見渡していた。
「食べないの?」
「ええ、ちょっと」
どこか悲しげに、遠い目をしていた。やがて、ある光景に目を止める。倒されたままの、写真立て。
「あれは……」
立ち上がり、写真立てに歩み寄る彼女。それをゆっくりと起こすと、一枚の写真が顔を出した。
あの夏、海に行った時に撮った写真。撮影者は奈央さんで、自分が写ることはなかった写真。
それを何故か一番気に入ったようにここに飾ったのは、そこには写らぬ奈央さん自身。
その構図が今と重なって妙に嫌な気分になる。写真の中で笑っているのは、俺と真央さんだけ。
「やっぱり、奈央ちゃんはずっとこういう人だったんだ。私が幸せなら自分は要らなくて、自分自身の理想的な幸せの中に、自分がいない」
その通りだった。普通の人の理想的な幸せは、自身を中心とするものであるはず。なのに彼女は違った。
「こんな写真まで飾って……遥人さん、知ってますか?」
「何を」
「奈央ちゃんはね、いつもいつも家に入るとき、必ず靴の爪先を外側に向けて脱いだんです」
それはある種教育の賜物で。むしろただ単に育ちが良いだけなのではないか?
「私たち姉妹は、逆に爪先を内側に向けるよう教育されてきたんです。外側に向けるということは一見礼儀正しいですが、同時に早く出ていこうという意思であるとも言われますから」
食事処などではわりと言われていることで、外側に向けては失礼だから敢えて内側に向けて脱ぐこともある。
「つまり、奈央さんはずっ、と早く出ていこうとしていたのか?」
「正確には、そう思うようにしていたんだと思います。あの写真もきっと、そういうこと」
だとしたら俺は、ずっと気づいてやれなかった俺はなんだ。さらに、今でも彼女が出ていった意味を理解しきれていない。
「どうして……そんな」
「私の犠牲になるためでしょうね。自分一人が戻れば多分、私の方まで連れ戻そうとはしないから」
そうだとするなら、今の彼女は不幸の中にいるというのか。ここが楽しいと言ってくれた彼女は……。
「私は、奈央ちゃんが嫌いです。自分だけで勝手に納得して、勝手に不幸を背負って消えてしまうんですから」
真央さんの望んだ幸せは、そんな形のものではないはずだから。奈央さんのいない世界での幸せなんて、あり得ないはずだから。
「そして、それ以上に。何よりも自分が嫌いです。姉に自分自身を犠牲にさせてしまった弱い自身が」
強い瞳だった。姉より全然甘え上手で、暇さえあればすりよってきた甘えん坊が、ある覚悟を決めた。
「だから、もう甘えないって。そう決めたから、遥人さんにも会わなかった」
一人立ちするために。もう誰も、自分の弱さによって犠牲にしないために。それは、強い覚悟だった。
「でもそれは、果てしなく寂しくて。気づいたら私はまた、今度は秋隆に甘えていた。それでやっと、わかったんです」
わかった。理解した。失うことで自分の弱さを理解し、遠ざけることで生きるべき道筋を認知した。
「だれも、独りでなんか生きられない。生きられないから、だれかと手を繋ぐ。私のはただ、背に寄りかかっているだけだったから」
だれかと生きるということの意味。履き違えていたもの。寄りかかるだけでは、駄目なんだ。
「だから、遥人さん。もう一度私と、手を繋いでくれませんか?今度は、私だってあなたを助ける」
一度離した手を、離れた手を、崩れた輪を、もう一度結び直す。ほどくのは簡単だけど、結ぶのは容易ではない。
わかっているけど、わかっているからこそ、もう一度。手を、伸ばした。
俺ももう、躊躇うことはなかった。俺の周りには、俺が道を外したら引き戻してくれる人がたくさんいる。
だから、ほの暗いバッドエンド、望まれぬ終焉の中でも進んで行ける。
手を取る、強く握る。二人は同時に口を開き、息を吸った。そして言う。覚悟と誓いの言葉。
「「もう、離さない」」
笑顔だった。偽りようのない、本物の笑顔。大丈夫、俺も彼女もまた、戻れるから。
「さて、食べようか」
「私をですか?」
「それは今夜の夜食かな」
冗談を吐く余裕も、やっと取り戻せた気がする。どうも真央さんは顔を真っ赤に染めて、本気にしてるみたいだけど。
「さ、手をあわせまして」
二人揃ってぱんと音をたて手を合わせる。意識はすでに、美味しそうなシュークリームに釘付け。
「「いただきます」」
やはりというべきか、二つのシュークリームが消失するのにさほど時間はかからなかった。
そして、例によって例の如く。さすがは日和というべきか、シュークリームは一つだけ余る。
「半分半分、だね」
「はい」
当然、真央さんもあの日を思い出しているのだろう。悲しくなるのも必然。でも、もう俯かない。
意地と覚悟と決意と、そして隣に大切な人。全部ちゃんと持ってるから。
「次はさ、前みたいに四つ買ってきて」
「はい、三等分しましょう。余った一つを」
今度は合図もなく、どちらともなく。二人同時に、手を合わせた。
「「いただきました」」
日が沈む。ただ、沈まぬ思いも確かにあって。俺はちょっとばかり勇気を振り絞り、電話をする。
長いコールの後、ついに電話は繋がった。多分、相手も取るかどうか躊躇していたのだろう。
「もしもし……日和か?」
「何の用ですか?くだらないことだったらさすがに怒りますからね」
俺を気遣ってくれていた奴。俺が偽って苦しめてしまっていた奴。ちゃんと向き合え。
「とりあえず、シュークリーム美味かった。ありがと。言われた通り、真央さんと食べたよ」
「……気づけましたか?」
「うん。だから頼みができた」
やっぱりあいつはなんでも知ってる。対価なしでは協力しないように装おって、いつも勝手に俺を助けてくれる。
「頼み?」
「うん。あのね、真央さんが言うには、どうやら姉妹の実家はどこかに移動してしまったらしいんだ」
おそらく、真央さんが自分の後を追って戻ってくるのを防ぐための奈央さんの工作。
そのため、奈央さんの居場所はもう誰にもわからない。そう、誰にも。ただ一人を除いて。
「調べて欲しいんだ。月島奈央の居場所を」
そして彼は、大きな一歩踏み出した。魔女な友人、理解者な親友、無口な住民、共に在るべき女の子。
たくさんの人々の想いに突き動かされ、彼は歩き出した。自分の足で、自分の意思で。
「はい、よろこんで!」
それが、何よりも嬉しかった。シュークリーム、美味しかったと言ってくれた。
電話を終えた後もよろこびの興奮は収まらない。とりあえず、あの男にこの事実を伝えることにした。
何もせず、何も言わず。ただそう在ることで彼を支え、見守り続けた男。
「もしもしもしもし、桐原さんですよねっ?」
「あー、声でかい五月蝿い。今せっかく茜ちゃんとのスイートタイム中だから手短に頼む」
桐原疾風の冷たい対応もなんのその。後で覚えとけよ、と密かに思いつつ、日和は続けた。
「さっき、遥人さんが。奈央さんの居場所を調べて欲しいって」
「……そっか」
相変わらず、そっけない反応だけど。本当によろこんでいるのが声の柔らかさでわかる。
「シュークリームも、美味しかったって」
「通じたな」
「はい」
こんなときくらいは、この男にも多少は魅力があることを認めても良い。そう思った日和。
一方、電話を切った後に苦労したのは疾風。
「疾風くん。今の女の人はだぁれ?」
茜のドスの効いた声が疾風の体を居抜き、反響している。途端に流れ出る脂汗は止まらない。
「いや今のはその、友人というかいや人と形容するのも躊躇われるほどの魔女みたいな奴で」
言い訳も虚しく、横で茜が持っていたリンゴを握り潰す。何故リンゴを持っていたのかは謎だ。
しかし、飛び散った果汁果肉は疾風を恐怖のどん底に陥れるのに役立った。
「もういいよ、疾風くん。死ねばいいんじゃない。あなたを殺して私も死ぬから。ね、そうしましょう?」
何処からか取り出されたのは……ゴルフグラブ。いや撲殺かよ。なんでそんな最高級にエグい葬り方?
「落ち着いて茜ちゃん俺に心中の趣味はないから!」
「大丈夫。きっと神様も許してくださるから」
「大丈夫じゃないよ特に目が!その目はもう切り裂きジャックとかと同じ目だから!」
その後、景気の良い鈍い打撃音と甲高い悲鳴が聞こえた、と近所のご老人たちが孫に語り継ぐ勢いで話していたとさ。
そして、時は流れて……。
今日は、雨が降った。私が全てを捨てたあの日と同じ、どしゃ降りの雨。
あっちは今、どうしてるのかな?幸せにやっているのかな?
忘れたはずの世界に残してきた大切な人たちを想い、雨の中傘もささずに天を仰ぐ。
心まで深く濡らしてしまいそうな雨は、即座に私の身体中を水浸しにした。
不意に、雨が途切れた。どこからか現れたのは……傘?
後ろかな。ゆっくりとゆっくりと、私は振り返る。
「よう。ばか女」
懐かしい声。柔らかな匂い。温かい温もり。忘れなどしない。あなたは―――
「迎えに来たぞ、コノヤロー」
雨は弱まる気配なく。ただ、そう。
薄日が差した。いつか捨ててきた、その温もり。
バッドエンドは続いている。ハッピーエンドに変わるその日まで、ずっと。
日常賛歌
第五十話ということで、一話でしっかり簡潔させたくて結果この長さ。
自分勝手なペースで、自分勝手に書いてます。更新がなかなかできないときとか、感想頂けると有り難かったりです。
では、引き続き読んでくださいお願いします。