第四十五話 思い思いのリズムで
時計。
それはときに優しく、ときに否応なく、人々に時間という概念を刻みつける。
ときに緩やかに、ときに瞬く間に過ぎ行く時間。いつからだろうか。瞬く間に過ぎ行く時間を、否応なく過ぎ行く時間を、その一瞬を心に刻みつけるようになったのは。
それは、二つの時計とある幸せな一瞬の物語。
アパート一階氷名御家のメインルームには、二つの時計がある。一つは青色の時計、もう一つは赤色の時計。
互いに向き合うように壁に掛けられたその時計は、今は空き家となって久しい旧氷名御家から持ち込まれたものだ。
姉妹が初めてこの家にやって来たとき、あまり意味もなく向き合って設置された二つの時計に疑問を抱いた。
だが、それは簡単な理由からだった。赤色の時計は今も正確に時を刻み続けているのだが、青色の時計は正確さというものを忘れてしまって久しいのだ。
まるで、それぞれの買い手の性格を表したようだ。と、青色の時計の不規則な動きを眺めながら遥人は思った。
ある昼下がり。ただ一人二つの時計に思いを馳せる遥人。思い出すのは、あの頃の一瞬。
『絶対、遥人にはこっちの方がいいよ!赤だよ赤っ、情熱の赤!』
『いいや、こっちの方がいいね。青だぞ?男の子が大好きな青なんだぞ?これなら間違いないだろうが』
言い争う二人の横で盛大に溜め息をついたのは、小学校に上がって一年ばかりのいたいけな少年だった。
居間の時計が我が家を襲った僅か震度一程度の地震によって大破してしまったため、今は新しいのを買いに来たところだ。
『赤だって!だってほら、遥人の真っ赤な頬っぺたとか思い出すし和むじゃない!』
『青だろ。遥人の真っ青な顔とか思い出して笑えるしさぁ』
『父さん、今僕が真っ青になってる理由は解る?』
頼むから店の中でアホみたいな言い争いをしないでくれよ。赤とか青とか、もうどうでもいいからさ。
『おう遥人。お前も青がいいよな?なんかこう、青春って感じで』
『ダメよ、なんか青二才って感じでダサいわ』
『わけわかんね……』
そもそも、居間に飾る時計を自分に合うものにする意味がわからない。普通に部屋の景観とマッチするものを選べば良いのに。
結局、二つの時計は母である遥の暴挙により両方とも居間に飾られることとなった。
氷名御遥人、八歳。年の割に妙に冷めたところのある少年は、愛情表現の奇抜な両親に振り回される毎日だった。
『サッカーよサッカー!遥人にはサッカーをやらせるべきっ!』
『野球に決まってんだろうが。あれだよ。審判の一存で頻繁に変化するストライクゾーンに耐えることで忍耐力をだな……』
『サッカーですっ!大して痛くもないのに激痛にもがく演技をすることで処世術を学ばせるんです!』
『あんたらスポーツくらいもっと純粋な気持ちで認識しろよ!てか毎度のことながら本人の意志はっ!?』
彼はその生涯に渡ってひねくれ者と言われることになるのだが、それは十中八九この両親が原因だろう。
ちなみにこのとき、既に小学校では担任教師よりツッコミ係に任命されていた遥人。その担任の影響も、やがて遥人を変えていくこととなる。
『母さん、今度参観日があるんだけど』
『あらそう?じゃあ今回もしこたまめかしこんで行かないと』
『父さんも行くからな。楽しみにしてろよ』
そう言ってさっさと洋服屋に向かった両親に、今回は来ないでくれと頼もうとした遥人の計画は崩れ去った。
前回の二人の張り切りようといったら、あの新米ひねくれ担任教師をして『ご両親いったいいくつだ?』と言わせたほど。
どこの高校生カップルだよと思うくらい若作りできてしまう二人だが、どちらかといえば性格もやや幼げな気がする。
思い出されるシーンとしては、先程の時計選びやスポーツ云々の他にも、微妙な逸話があったり。
『遥人のお嫁さん候補を発掘するぞっ!』
『クラス名簿と集合写真持って来たぞ』
何やってんだこいつら。てか父さん、行動はやっ!普段からそれくらい息が合ってれば苦労しないのになぁ。
『あら、この子可愛い!絶対将来美人になるわよ』
『ああ、この子は確か……』
いや、誰だよっ!?いったい誰を勝手にお嫁さん候補に仕立てあげようとしてんのさ?その子と僕に謝れよ。
『あ、まさかこの子、例のひたきちゃん?』
ぎくっ。
『そうだ、思い出した。参観日のときに遥人と仲良く話してた』
『おいぃぃぃぃ!頼むからそれ以上変な詮索をするなぁぁぁ!』
『遥人、顔真っ赤』
『本命かよ』
『っ違ぁぁぁう、確かに仲は良いけれども!』
確かにクラスで一番仲の良い女の子だけれども。そういうのとは、きっと違うんだって!
『お母さんちょっとこの子の家に挨拶に行って来るわねっ』
『失礼のないようにな。よし、俺は赤飯を炊こう』
『何で赤飯!?ちょっ、母さん待てぇぇぇぇ!』
僕がグレたら間違いなくこの親のせいだ。てかグレてやる。とりあえず今夜は10時まで寝てやらん!
子供らしいというか、やけにしょぼくさい反抗を企てる少年であった。
『しかし、何でこんなときだけ息がぴったりなのさ。父さんも母さんも』
普段は意見が人間のDNA並に一致しないクセに。よくあんたら結婚したもんだよと思わずにはいられない。
『確かに、珍しいな』
父親である一人が、苦笑いを浮かべながら言った。
『けど、私たちの意見が一致したら、その選択はほぼ間違いないわよ?あのときだってそうだったもの』
『あのとき?』
二人とも、優しい瞳で僕を見つめた。どこか、遠い日を思い出すように。
『お前の名前さ。これだけは本当に考えが一緒だったんだよ。驚くほどにな』
僕は珍しく、二人の言葉に耳を傾けた。名前の由来、興味深い。
『構成事態はね、私の遥って名前とお父さんの一人って名前を組み合わせただけの単純なものなんだけど』
遥が楽しそうに話し始めた。遥人が生まれた日を思い出していたのかもしれない。
『俺の一人って名前も、母さんの遥って名前も、ある由来があるんだ』
両親を早々に失った一人の名前の由来は、彼の両親がやがて自分たちが死んでゆくのを悟っていたかのようなもの。
一人でも生きて行けるように。それが、彼の名前の由来。
また、母の遥の名前は。才能に恵まれず苦しんで来た親の想い。
凡人などには届きもしない。遥かなる高嶺の花になれ、と。
互いに、孤独と隣合わせで生きることを望まれたその名前。その辛さを知っているからこそ、息子に与えた名前は。
ずっと、どこにいたって、どんな風になったって、私たち二人は見守っているから。
遥と一人。二人が常に寄り添うことを誓った名前。それが遥人。
『まぁ、結局“遥かなる人”って感じになっちまったのは皮肉だけどな』
『でも、私たち二人がその名前に誓って育てて来たからこそ。遥人はこんなに大きくなって』
頭を撫でられたのがなんだかやけに恥ずかしくて、俯いてしまったけど。二人が笑っているのだけは、見なくてもわかった。
そんな、幼き日の一幕。
「……一緒にいてくれるんじゃなかったのかよ」
誓ったんじゃなかったのかよ。
買い手である両親とは対照的に、今もなお自分を見守るように動き続ける二つの時計。
赤色は母さんみたく、一寸狂わず時間を刻む。青色は父さんみたく、なんだかテキトーに時を刻む。
肝心の二人はもういなくなってしまったのに、あの家からこのアパートに居場所を変えても、変わらずチクタクチクタクと。
遠い日を思い、少しだけ胸が痛くなる遥人。やがて時計から視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
そろそろ、秋隆さんを率いて買い物に繰り出していた姉妹が帰ってくるころ。
外は寒いだろう。風呂でも沸かしておいてやらねば。そう思い部屋を後にするとき、もう一度振り返って二つの時計を見た。
思い思いのリズムで、相も変わらずチクタクチクタクと。まるで、あの二人のように。
(まだ、俺は自立なんてできないからさ。……見守っててくれよ)
時計に微笑みかける少年という珍妙な構図もほんの一瞬のことで。
「ただいまー!遥人さーん」
「今夜は焼き肉ですよー」
嬉しそうな声。秋隆さん、たかられたな。苦笑いを浮かべつつ、焼き肉のたれはあっただろうかなどと考える少年。
賑やかになった部屋には、時計が時を刻む音など聞こえるはずもなく―――。
こんな一日。
そんな日常。




