第四十四話 想いのカタチは人それぞれ(後)
早朝、アパート一階氷名御家にて。主が学校に向かったことにより動き出した者がいた。
月島真央。暗黒に見えて純白、純白に見えて暗黒の乙女。今日という日を逃すほどの愚か者ではない。
ある決意を胸にアパート二階の一室を訪れる。ついこの前まで空室だったこの部屋も、今や一人の男の根城としてしっかりと機能を果たしている。
「……秋隆、起きてる?」
そっと呼び掛けた真央だが、彼が起きていることはわかっていた。屋敷の使用人として根付いた遅寝早起きの習慣は、そう簡単に拭えるものではない。
ドアが開くと、そこには既にきっちりとスーツを着こんだ秋隆がいた。やはりとっくに目覚めていたらしい。
「おはようございます。どうされましたか?」
まるで屋敷にいたあの頃みたいに、彼は丁寧にお辞儀した。こちらの習慣も相変わらずか。
「今日、暇だよね?無職だもん暇だよね?」
「いや暇ですけれども、わざわざ無職という言葉を当用しないでください」
三十路も過ぎて職を失った男がどれだけ敏感か、わかって言っているのだろうか。いや、わかっているからこそか。
「あのね、秋隆に手伝って欲しいことがあるの。時間あるよね、ニートだもん」
「時間はありますけど朝から泣きそうなくらい精神状態が劣悪です」
「じゃあ下の部屋に来てね。急いで」
「……はい」
真央様も半年見ない間に随分とたくましくなったようだ。純白と暗黒の比率が逆転していないかと感じるくらいに。
しかし、手伝うとはいったい何をだろう。できることは何でもするが、やっぱりできないことだってあるわけだから。
「さ、始めましょう!」
ここは氷名御家のキッチン。可愛らしいヒラヒラ付きのエプロンを纏った真央様は何だか気合いがみなぎっている。
「料理でもされるのですか?また珍しいですね」
普通にそう聞いただけなのに、何故か物凄く呆れたような顔をされた。どうしてだろうか?
「あはは、秋隆バカなの?今日は何月何日だかわかる?」
今まで見たこともないし向けられたこともない冷たい眼差し。何かとんでもないミスをしてしまったらしい。
今日……二月十四日。何か、胸をえぐられるような嫌な気分になった。さて、今日はいったい何の日だったか。
「何の日でしたっけ?」
「帰れ」
彼女お得意の遠回しな罵倒の後のストレートな罵倒。その緩急についていけずに思わず泣きそうになる。
しかしそこで、助け船がやってきた。今起きたのだろう、眠そうに目を擦る女がそこにはいた。
「おはよう真央ちゃん。ついでに秋隆。何してるの?」
月島奈央。誰よりもまっすぐで誰よりも不器用な片意地乙女。キッチンに立ち尽くす私たちを見て不思議そうに言った。
「おはようございます、奈央様。ちなみに、今日は何の日だかわかりませんか?」
「今日?えと、真央ちゃんが初めて“お姉ちゃん”って呼んでくれた日だね」
泥船だった。相変わらず妹しか頭にないらしい。そう答えた奈央様は、今の真央様が昔のようにお姉ちゃんと呼んでくれないことにちょっと沈んでいる。
「奈央ちゃん本気?女の子失格だよ」
確かにちょっと女の子失格なくらい妹に対する愛情が強すぎるけれども。
「へ?どうしたの真央ちゃん?」
あくまで無知を装って、奈央は言った。いや、本当はそれくらい知ってるけど、何だか認めてはいけない気がする。
しかし、真央は奈央の演技を簡単に見破った。彼女が夜のうちに作業の大半を済ませてしまっていることも。
「まぁ知らないのなら仕方がありません。冷蔵庫に入っていたこの二つの手作りチョコは処分するとしましょう」
極めて清々しい笑顔で、彼女の隠した努力の結晶を処分しようとする真央。さすがに奈央も慌てだした。
「ちょ、ちょっと待って!嘘ついてごめんなさい!あの、そのチョコは秋隆にあげようと思って作ったもので!」
必死で何かを否定する奈央を見て、秋隆はようやく今日が何の日だか思い出した。そうだ、今日は……。
「確かに、秋隆にあげるみたいですね。丁寧に名前まで書いてありますし。片方は」
そう、片方は。真央の的確な追及に冷や汗をかいている奈央は、必死で言い訳を考えていた。
秋隆でさえも、全貌が掴めてきた。片方は綺麗に丸く型どられ、自分の名前が書かれている。そして、もう片方は。
「その、“ハートを型どったけど後で恥ずかしくなって無理やり変形させました”って様子が見え隠れするもう片方のチョコレート。いったい誰に渡そうとしたんですか?」
「いや、これはその……」
巧い表現だ。確かにこの微妙にいびつな形のチョコレート。ハートを無理やり変形させたように見える。秋隆は感心していた。
「とは言っても、一人しかいませんよね。奈央ちゃんがチョコをあげる男の子なんて。あれれ?よく見るとこっちだけホワイト、ミルク、ビターの三段構造という手の込み具合ですね?」
「だから、それはその、違うんだよ!」
二つのチョコの構造の違いに少しショックを受けた秋隆だが、奈央がチョコをくれるだけでも嬉しいので黙っていることにした。
「いいんだよ?私は別に、奈央ちゃんが遥人さんに本命チョコをあげたって」
真央が核心をついた瞬間、奈央は顔を真っ赤にして暴走を始めた。真央から素早く遥人用のチョコレートを奪い取る。
「真央ちゃん勘違いしてるよ!こっちのチョコはね、こうやって!バラバラに砕いてやっと完成なんだよ!ほら、遥人さんにちゃんと形の整ったチョコなんてもったいないでしょ!」
自分の一夜の努力の結晶を自らの手で砕いていく奈央様は何だか必死だ。相変わらず意地を張らないと生きていけないらしい。
「よし、ライバルが一人減りましたね。さて、秋隆。こっちも作り始めましょう」
真央様はもはや腹黒い笑いですらなく、まるで当たり前のことをしたかのように極めて普通に笑った。
「私は何をすれば良いでしょうか?」
「そこのお菓子作りの本があるでしょ?それを私が作るのに沿って読んで欲しいの」
「了解しました」
横で必死にチョコを砕く奈央様を横目に見つつ、私は一から本の内容を読み上げるのであった。
そのころ、アパート二階のとある部屋では。
「……最高の食材、最高の道具。そして一ヶ月の特訓と研究により手に入れた腕前。遥人さん、待っていてください……」
努力することに関しては最強の元無気力人間が、静かに真央の前に立ちはだかったことは言うまでもなく。
「では、好きな形を選んで液体を冷やしましょう」
真央と秋隆の絶妙な息の合い具合でチョコ作りを着々と進めていたこちら。あとは型どって冷やすだけ。
「形、かぁ。遥人さんはどんなのなら喜ぶかな?」
そう問われた秋隆は、まだあまり知らないこのアパートの主を思い出して答えた。
「私はまだ彼のことをよく知りませんが、きっと真央様が愛情を込めて作った物ならば喜んでくれるでしょう」
そういう男でなければ、そもそも真央様がここまで入れ込んだりはしないはずだ。
「じゃあやっぱり、ここはハートマークでいきましょう!」
チョコを作る真央様は、終始何だか楽しそうにしていた。その笑顔に釣られて、奈央様も楽しそうに笑っていた。
自分の在るべき場所。自分のいたい場所はやっぱり、ここだったのだろう。冷蔵庫に入れられたチョコが冷え固まるのを待つ間、そんなことを考えていた。
「よし、次は秋隆用のチョコレートを作るから。今度は奈央ちゃん、手伝って」
「うん!」
学生時代、チョコを貰えなかったわけじゃない。でも、まっすぐにしか生きられない自分には、その中途半端な気持ちが煩わしかった。
本気で本気の思いを込めて渡してくれた人が、いったいどれくらいいただろう。顔も知らない後輩からのチョコ。あれはいったいどれほどの気持ちなのか。
でも、このチョコは違う。本気で感謝の思いを込めて作ってくれたもの。私が本当に欲しかったものだ。
ここに来て良かった。あの酒飲みにお礼をしなくてはな。と、温かい気持ちで過ごした時間だった。
そして夕方、彼は帰って来た。荷物を見る限り、チョコレートを貰った形跡はない。
「ただいまー……って、案の定甘い匂いがするね」
「案の定とはまた、貰えると思い込んでいることがムカつきますね」
出迎えてくれたのは奈央さん。いや、真央さんには期待してるけど、正直奈央さんには期待してない。
嫌われてはない。と、思うんだけどなぁ。
居間に向かうと、そこには可愛らしいエプロンを着けた真央さんがこれまた可愛らしい小包を持って立っていた。
「お帰りなさいです、遥人さん」
「うん」
よく見ると部屋の端っこに秋隆さんが座っていた。アレか。空気を読んで存在感を消しているのか?
「では、遥人さん。受け取ってください」
「わおっ、ありがと」
いや、正直物凄く嬉しい。疾風にはあんな風に言ったけど、やっぱり真央さんから貰って嬉しくないわけがない。
ふいに、後ろからつんつんと背中をつつかれた。振り向くと、そっぽを向きながら小包をつき出す奈央さんがいた。
らしいっちゃらしいよな。なんて思いながら、やっぱり喜んでそれを受け取った。
「ありがとね」
「ついでですからね、ついで。秋隆のついでです」
「なんでもいいよ、貰えれば。ありがと」
奈央さんは俯いてしまったけど、わりと嬉しそうにしていたからよかったのかな。
俺はまず、奈央さんのほうの小包を開けた。ビックリ箱ってことはないよな?
「……?なんか、明らかに一度型どられたものを砕いた形跡があるんですけど」
なんかこう、チョコというより照れ隠しの結晶でも見ているかのような。そんな感じ。
「遥人君、そこは詮索しないであげよう」
「年頃の女の子にはいろいろあるんですよ、きっと」
「いや、いろいろってかこれ、敢えて砕いたよねっ?」
ああ!なんか奈央さんが崩れ落ちた!やばい、やっぱりあまり詮索しないようにしよう。
「あ、でもほら。テレビ見ながら食べたりできる一口サイズだし、これはこれでいいよね」
「……そう、ですね」
なんで奈央さん本人が必死で納得しようとしてるんだか。これ以上このチョコの話題はやめた方が良さそうだな。
俺は次に真央さんのチョコの小包を開けた。あまりにも綺麗に包装されているため、慎重にならざるをえない。
真央さんもその様子を固唾を飲んで見守っていた。そして、俺の目に意味深な形のチョコレートが飛び込んで来た。
苺味だろうか。ピンク色の丸みを帯びたハート型のチョコを、まるで包帯を巻いたみたいにホワイトチョコレートが包み込んでいる。
「これは……すごいな」
唖然とする俺。真央さんが瞳を輝かせてこちらを見つめている。早く食えってか。
見た目からして完成度が高過ぎるだけに、なんだか噛み砕いてしまうのがもったいなく感じる。
それでも意を決して一口目を食べる。苺味のチョコの下にはミルクチョコレートが詰まっていた。
いや、本当に。手、込みすぎ。本当に俺なんかが食べちゃってよかったのかよこれ。
「……どう、ですか」
期待に輝く瞳。だけどやっぱり緊張するのか、落ち着かない様子で手をもじもじしている。
「美味しいよ。ありがとう、本当に」
ありがとうじゃ足りないけれど。俺は、人はこれ以上の言葉を持ち合わせていないから。だから、何度も言おう。
「ありがとう。真央さんも、奈央さんも」
二人とも、嬉しそうに笑って。本当に幸せそうに、笑って。
「どういたしまして」
「三倍返しをお忘れなく」
そんな二人の仕草に、俺は秋隆さんと顔を見合わせて笑った。そこで、いきなり玄関の扉が空いた。
「誰?」
「このタイミングですし、一人しかいませんよね」
真央は怪訝な顔をして、ライバルの入場を許容した。どれだけのものを作ったのか、見せてもらおう。
「遥人さん。チョコレートを作って来ました」
どこか無気力。それでいて稀に見る天賦の努力家。深く重い、不動の乙女。織崎紫音がそこにいた。
小包、ではない。随分大きな箱。俺はそれを受けとると、何が入っているのかという好奇心からすぐに開封した。
「え、売り物?」
思わずそう呟いたほど。そこには、売り物というよりもはや展示品といえようチョコレートケーキが入っていた。
「手作りです。食べてみてください」
紫音さんに緊張した様子はなかった。本当に自分の実力を出しきった傑作。そこには不動の自信があった。
俺はそれを一口、口に運ぶ。が、気づいたら全部なくなっていた。なんだこれ、もう美味しいとかそういう次元にない。
俺の声なき声に満足したのか、紫音さんは得意気に胸を張った。そして、綺麗にお辞儀をすると優雅な足取りで去って行った。
しばらく静まりかえる室内。敗北感を味わった真央が項垂れていた。いや、あれに勝とうとか、もうプロのパティシエじゃないと無理だからね。
でも、俺にとっては全部全部。この冬の日の、幸せな思い出だから。
一年に一度、想いをカタチにする日。だけど、そんな日がなくったって、自分の気持ちがちゃんと伝わればいい。
だから今日は、誰かにとっての特別で。そして、俺にとっての当たり前であって欲しい日。
もしも大切な人がいるのならば、そう思った瞬間から全力で大切にするべきなんだ。
躊躇わずに、何度でも抱きしめればいいんだ、だって、明日は終わりかもしれないから。
永遠なんてないからこそ、特別な一日だってありはしない。俺にとっては、一瞬一瞬が全て特別なんだ。
当たり前にある幸せなんて、何一つありはしないから。
それは、あの姉妹が教えてくれたこと。幸せを渇望し、幸せにすがり付く惨めで美しい存在。
俺は、そんな風になりたい。だから言おう。今日、今この瞬間がどんな昨日よりも幸せだと。
特別なようで当たり前。当たり前こそ特別な、とある冬の日の出来事。
こんな一日
そんな日常