第四十二話 変わりそうで変わらない
貴女を見てきた。もう何年になるかわからないけれど、私は見てきたんだ。何年も何年も、貴女を。
貴女は泣かなかった。私が見てきた何年もの間、貴女は一度たりとも泣かなかった。
辛いときがあっただろうに。泣きたいときがあっただろうに。強く、悲しく、美しい貴女。今は笑えているだろうか。
そして、そんな彼女が愛したもう一人の貴女。いつもいつも、泣きそうな笑顔を見せていた。
普段はことあるごとに甘えてくる貴女は、本当に辛いときだけは何故か、絶対に私を頼らなかった。
それはきっと、貴女のポリシーみたいなものだったんだろう。清く、儚く、愛らしい貴女。今はどんな風に笑っているのか。
泣かない彼女は、一度だけ泣いた。私はそれを、知らないことにしているのだが。
頼らない彼女は、一度だけ私を頼った。私を苦しめることを知ってなお、私に助けを乞うた。
味方になって欲しいのだと、自分のポリシーを曲げてまで言った。それがただ嬉しかった。
嬉しかったから、私は。藤森秋隆は、信念を曲げた。彼女の笑顔の前では、自分なんてどうでも良かったから。
ただ、その笑顔のために。今日からそれが、彼の信念。
さてさて、遥人ですが。ちょっと俺のアパートの話でもしましょうか。
今日はなんと、紫音さん以来半年ぶり、二人目の入居者がやってくる日なのです。
そう、半年ぶり、二人目の。いやこれ、本当にアパートかよと。まったく、うちのスカウト長はいったい何をしているのか。
いや、酒飲みつつ楽しくやってるんだろうけどさ。人様から頼まれたことはしっかり果たそうよ、と。
まぁ愚痴はさておき、甲斐さんから送られてきた新たな住民の経歴でも見てみよう。
はい。名前は藤森秋隆。33歳独身の職業なし。あれ、なんか紫音さんと同じ駄目人間の臭いがする。
ふむふむ、小学校中学校と出身が俺と同じらしい。いや、そんなことはどうでも良いのだが、この職業経歴は何なんだ。
執事?なんか執事とか書いてありますよ。そんなもん現実にいたんだな。しかし、それもつい最近急に解雇されている。
不況の煽りを受けてしまったのだろうか。悲しい話である。
「……ってところかな。ちゃんと聞いてました?」
上記の概要を我がアパート自慢の社会的不適合者トリオに説明した俺は、ざっと三人の顔を覗いてみた。
やけに嬉しそうな真央さん。真っ青な奈央さん。紫音さんに至っては、興味無さげに求人情報誌に視線を落としている。
「奈央さん。なんでそんなに真っ青なの?」
真っ青というか、いっそ埴輪みたいな顔色だ。流石に心配なので声をかけてみたが、ちょっと精神安定剤の服用を断行せねばならないくらい混乱している模様だ。
「あ、あの遥人さん。もう一度、その人の名前を教えてもらえますか?」
死刑の執行を待つかのような、そんな面持ち。見たところ絶え間なく汗をかいていて、心身ともにとても正常とは思えない。
「藤森秋隆。だけど?」
「よし、真央ちゃん。逃げよう!」
それからの行動は早かった。ニコニコと微笑む真央さんの手を引いて颯爽と玄関に向かった。
「おーい、なんで急に逃げるのさ。どうしたんだよ」
「説明はまた今度です。ことは一刻を争います」
そう言ってドアノブに手を書けたとき、澄んだチャイムの音が部屋中に響いた。来訪者を知らせる、その音が。
「どうぞー」
俺の許可もなく勝手に入室を促した真央さん。奈央さんはこの世の終わりのような顔で固まっている。
ゆっくりゆっくり、ドアは開いた。そこから現れた長身の男。強張った表情を少し緩めて挨拶をした。
「こんにちは。今日からこちらにお世話になる予定の藤森です」
「ああ、その、よろしくお願いします。さぁみんな、挨拶して」
ここで初めて、秋隆はみんなの顔を見渡した。そして、固まる。玄関先に二体もの石像。邪魔である。
「秋隆っ!」
嬉しそうに抱きついたのは真央さん。石像と化した奈央さんを邪魔だと言わんばかりに押し退けての行動だ。
「へ?……えと、知り合いですか?」
俺が戸惑いを隠せぬまま質問すると、秋隆さんは強張った顔の眉を困ったように八の字にして答えた。
「ええ。一応、前の職場で世話係をしていた関係です」
「そういう関係なんです」
真央さんが追って答えた。俺は二人の素性に大きく触れる情報に一瞬たじろいたが、すぐに質問を続けた。
「つまり、あなたが執事として仕えていた相手が、この二人だってことですね?」
秋隆さんは頷いて、思い出したように言った。隣では、相変わらず奈央さんが機能停止状態だ。
「するとまさか、君が遥人君ですか?」
「そうですけど……どうして」
どうして俺の名前を知っているのか。そして、この男は姉妹にとってどうするべき存在なのか。
「真央様からお話は伺っています。それに、一度お会いしていますね?」
一度会ってる?思い出せ俺。人の顔を覚えるのはどうしても苦手なんだけど、今回ばかりは頑張って思い出さねば。
「あっ……。前、喫茶店で真央さんと一緒にいた」
迷子の真央さんを探して走り回ったあの日。喫茶店で真央さんと笑い合っていたあの男だ。
「久しぶりだね、秋隆。まさかここに越してくるなんて」
あのときも今も、真央さんはこの男に随分なついてるみたいだ。やはり、彼は姉妹の味方なのか?
でも、そうだとするならあれは。奈央さんのあの取り乱しかたはいったい何なんだ。
「……逃げなきゃ」
長らく停止していた奈央さんがやっと動きだし、何かを呟いた。
「……逃げなきゃ。真央ちゃん、逃げて」
そう呟くと奈央さんはぎゅっと真央さんの手を握った。そして、その手を引いて外に逃げようとした。
しかしそれは、真央さんの抵抗によって止められた。
「奈央ちゃん落ち着いて。秋隆は、秋隆は私たちの敵じゃないの。私たちを連れ戻しに来たわけじゃないの」
「……え?」
その意外な言葉に、奈央さんはまたも機能停止に追い込まれた。俺はちょっと状態が呑み込めない。
「私と秋隆は前に偶然会ってて、私たちの味方になってくれるって約束してくれたの!」
やっぱり、家出少女にとって執事は自分たちを連れ戻しに来た敵に他ならないらしい。しかし、この人はもはや執事を辞めている。
「本当なの?秋隆」
奈央さんが不安そうに問う。それは明らかに、嘘ではないことを望んでいる瞳だった。
「本当です。事実私は二人を連れ戻すよう命令されていたのですが、そのつもりはありません」
不安を取り除く笑顔。姉妹を扱うことに慣れているのが窺える。そして、奈央さんはようやくほっと一息ついた。
「そう。……良かった」
あっさりと信じてしまったのは真央さんが言ったことだったからなのか。それとも、秋隆さんに対しての信頼からか。
「じゃあ秋隆は、命令に背いてきたの?」
「はい。連れ戻さねば職場復帰はできませんが、主人が諦めるまで待つつもりです」
真央さんはまたも嬉しそうに秋隆さんに抱きついた。ちょっと嫉妬してしまったのは秘密だ。
「えっと、秋隆さん。あと、奈央さん真央さん」
「はい?」
俺は目の前で展開される彼女らの事情に対して、やはりいつも通りに目を瞑ることにした。
「あなたがたの関係については別に詮索しませんが、とりあえず仲良くお願いしますね」
三人揃って頷いたのを確認して、こそこそと自室に退却しようとしていた紫音さんを捕まえる。
「なぁに勝手に帰ろうとしてるんですか。紫音さんもちゃんと仲良くやってくださいよ!」
「人付き合い……めんどくさい」
「めんどくさいはダメだって言ったでしょうが!頼みますよ、まったく」
新しい、アパートの住民。つまり、新しい家族。この人のこと、姉妹との関係のこと。
ゆっくりゆっくり、少しずつ少しずつ。知っていけたらいいなって。
そんな後ろ向きなことを考えつつ、俺は秋隆さんの部屋を案内した。
そこに、嬉々とした姉妹がくっついてきた。秋隆さんとの再会が余程嬉しいらしい。
「秋隆、また遊ぼうね!」
「お世話もお願いね!」
いや、秋隆さんとしては結構大変なところに引っ越してきてしまったのかもしれないな。
「わかってますよ。では、作業が一通り終わったらお茶をいれましょう」
いや、そんなことはないらしい。秋隆さんもまるで、本来の自分のあるべき場所に戻れたみたいに楽しそうだ。
二人が秋隆さんにくっつくようになったら、俺はちょっと寂しくなるかもしれないけど。
まぁ、二人が幸せならいいか。と、そんなことを思うのだった。
そして夜。
「遥人さーん……起きてますか?」
俺が眠りに就こうとしていたところ、巨大なカメレオンの抱き枕を抱いた真央さんが部屋を訪れた。
「ん?どうしたの?」
「いえ、ちょっと……」
答えながら俺の布団に侵入してくる真央さん。どうやら抱き枕はお役御免らしい。
「ちょっと、甘えたくて」
そして、俺を抱き枕の代用にして。そっとそっと、眠りに就いた。
「ん。正直でよろしい」
秋隆さんに二人がくっつくようになったら、俺は寂しくなるかも。そんな不安もあったような。
ただの取り越し苦労だったみたいだけれど。
(うん。やっぱり、ここが一番落ち着きます)
そんなある夜の出来事。ちょっとだけ変わるかもしれない日常を、それでも不変のものだと思わせるような。
そんな一日。
こんな日常。
第十話以来の追加住民でしたとさ。