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日常賛歌  作者: しろくろ
37/91

第三十七話 音色の彼方、遠い景色

『真央の作戦〜幼女』


「お兄ちゃん。あのタイヤキ、美味しそう」


「三つください」


「あのわたあめも」


「三つください」


「まぁ、おいしそうな坊や」


「三つくださ……ん?坊や?」


「……というか、どんだけ甘やかしてるんですか。あなたは……」


「見ての通り、こんだけ甘やかしてます。はい、タイヤキ」


「……むぅ」


 気にくわない。そう言いたかったのに、タイヤキが予想以上においしくて怒る気になれない。


 結局は中途半端に頬を膨らませつつ、タイヤキを頬張っている。これでいいのだろうか?


 先程からずっと女の子につきっきりな彼。まるで私が見えてないみたいで、嫌なことを思い出してしまいそう。


「タイヤキ、おいしぃ!」

 幸せそうにタイヤキを食べる女の子。さっきからずっと、彼にだっこされたままだ。


 温かそうだな。まさか、私がだっこなんてしてもらうわけにはいかないけど。


「ほら、次はわたあめだ。口開けな」


 そう言われて大きく口を開けた女の子。その口に容赦なくわたあめがねじ込まれる。


「ほーら食べろ食べろ」


「むうぅーー!!」


「そうかそうか。うまいか」


 楽しそうにわたあめをねじ込み続ける彼と、悶絶する女の子。え?これは虐待ではなく?


「な、何やってるんですか!?苦しそうですよ!ものすごく!」


 女の子を窒息させんばかりにねじ込み続ける彼。私が止めに入り、やっと正気を取り戻した。


「はっ!しまった!可愛すぎてつい……」


「うぅ、ひどいですー……」


 なんとか生き延びることができた女の子。潤んだ瞳で彼を睨み付けている。


 それにしても、余程子供が好きなんだろう。または、余程重度のロリコンなのかも。どっちにしろ、これ以上女の子と仲良くするのは止めてほしい。


 早く、会場につかないだろうか?そうすればまた、二人きりになれて私を見てくれるのに。早く……。


「ねえねえ、お兄ちゃん」


「ん?どうしたんだい?」


 女の子が話しかける。するとやっぱり、何とも清々しい笑顔で答える彼。やっぱりこの人……。


「お兄ちゃんは、もしかしてロリコンなの?」


 わぁ、直球ど真ん中。今の瞬間、おそらく私はこの子と通じあうことができていたに違いない。


「心配しなくていいよ。俺はほら、そんなエグい質問をしてくる可愛い幼女を、全力で竹やぶに投げ捨てることができるから」


 にこっと。いや、ニゴォッと笑って女の子の頭を撫でる彼。私は彼女が心配でしかたがない。


 女の子をだっこする腕を片方離してブンブン振り回して見せる彼。遠投には自信があります。みたいな感じだろうか。


「えと、ごめんなさい」


「うん。わかればいいんだよ、わかれば」


 わかってはないと思う。単純に恐怖政治に屈しただけだろう。ただ、彼の機嫌は元に戻った。


「なんだか、やけに敏感ですね。ロリコンって言葉に」


 トランシーバーの向こうの奈央がかなり引き気味に言ったことに、申し訳なさそうに答えたのは疾風。


「多分あれ、俺のせいだわ。俺があいつの子供好きをからかって、ロリコンロリコン言ったから……」


「だからあんなに不機嫌になるんですね。本当に遠投始めんばかりの気迫でしたよ」


 可哀想に。真央ちゃんは被害者だ。


「じゃあお兄ちゃん、仲直りね」


 そう言って頬を擦り寄せる彼女。もう彼の扱いを心得たようだ。中々の策士である。


「ん。仲直りな」


 わしゃわしゃと女の子の頭を撫でて笑顔を見せる彼。そんなだからロリコンって言われるのでは?


「ふふ、やっぱりお兄ちゃんロリコ」


「うおらぁぁぁぁ!!」


 ビュン!……投げた!?この人、ほんとに投ちゃった!確かに今のは女の子が悪いけど……投げるってあんた……。


「きゃぁぁぁぁぁ!」


 悲鳴を上げて宙を舞う真央。その最中、彼女は空中にて『自業自得』の意味を理解したという。それもまぁ成長だ。


「あのアホォォォォ!!ほんとに投げやがったぁぁぁ!」


 真央の落下点に向けて必死で走る疾風。なんとか受け止めたいのだが、これは間に合いそうにない。


 半ば諦めかけた疾風の横を、一瞬の光が駆け抜けた。月島奈央。真央のピンチにおいて、彼女以上の力を出せるものはいない。


「な、奈央ちゃんはっえぇぇぇぇ!」


「任せましたよ!奈央さん」


 真央を救う一筋の光となった奈央は、恐ろしい早さで真央の落下点に潜りこむ。間一髪、見事キャッチしてみせた。


「「すっげー」」


 空いた口が塞がらない様子の疾風と日和。そんな二人をよそに、奈央は丁寧に真央を降ろす。


「奈央ちゃん、ありがとう。死ぬかと思った」


「うん。それより、どこも痛くしてない?」


 あの野郎後でツブす。そう心に誓った奈央は、真央の答えを聞くことなくその場を離れた。遥人と紫音が近づいてきたから、そうするほかない


「だ、大丈夫だった?」


 勢いで女の子を全力投球してしまった遥人だが、流石に今は申し訳なさそうな顔をしている。


「大丈夫ですよ。うまく着地に成功しましたから」


「……人間技じゃない」


 明らかに怪しい答えに疑う姿勢を見せた紫音。対して、遥人はまったく呑気なもの。


「それはすごいな!将来は当たり屋かスタントマンか」


「もう少し堅実な人生を希望します」


 ため息を吐きつつ立ち上がった真央は、心の中でもう一度、姉に感謝の言葉をのべた。普段は言えない、ありがとうって言葉を。


「さて、じゃあ再出発ということで」


 早くうっかり女の子を投げてしまった事実を忘れさせたい遥人は、女の子を抱き上げると出発を促した。


「……再出発って言いましても、場所が場所ですよ」


 そう言われて前を見て、ようやく現在地を把握した。目の前にあるのは、俺たちの目的地であるコンサートホール。


「いつのまにか到着してたんだね」


「私が投げられている間に到着してたんだねー」


「いや、それはほら、ごめんって……」


 そう簡単には忘れないぞと言わんばかりに、遥人を睨む真央。ただ、どうやらここでお別れのようだ。


「あっ……お母さんだ!」


 コンサートが始まるのを今や遅しと待つ人混み。その方向を適当に見て叫ぶ。


「あ、いたの?」


「うん。お兄ちゃん、ありがとう!じゃあね」


「うん。じゃあね」


 別れの言葉を交わした二人。人混みの方に走って行く女の子の後ろ姿を見て、遥人がちょっとだけ寂しそうにしていた。


 別に、たったこれだけの時間を共にしただけの女の子。思い入れは、正直特にない。ただ、『じゃあね』って言葉が、好きではないだけ。


「さ、俺たちも中へ行きましょう。……紫音さん?」


 俺の呼び掛けに反応もせず、ただじっとこちらを見つめている紫音さん。なんか、恥ずかしい。


 なかなか動かないのに痺れを切らした俺は、紫音さんの手を握り引いていくことにした。


「ほーら行きますよー……って、痛い痛い!つねらないで、ほっへはふへははひへ!」


 まずは片手で俺の頬っぺたをつねりあげる紫音さん。『頬っぺたつねらないで!』と言おうとした俺に対し、更にもう片方の手を加えた。


 しばらくそんな状態が続いて、ようやく離してくれた。その途端、今度は彼女の両腕は俺の右腕を掴んだ。


 女の子が来るまでキープされていた紫音さんの定位置に戻ったわけだ。俺は、やっぱり恥ずかしいと思うけど。


「……行きましょう」


「はい」


 俺がつねられたわけは!?よっぽどもそう叫びたかったが、これ以上の無駄な抵抗は避けることにした。


 中に入ると、そこにはたくさんの人がいた。ただ、コンサートを見るという一つの目的のために集まった人々。


 そして、中央のステージには楽器が用意されている。これらを演奏する人たちは、コンサートが開始したときに登場するのだろう。


 やがて、周りの喧騒が収まる。そろそろ、開始の時間なのだろう。案の定、司会を勤める男がステージ上に現れた。


 その男の言葉でコンサートの開始が告げられ、合図を送ると今日の主役がぞろぞろと入場してきた。


 この観衆の視線を一手に集めた音楽家たちだが、しかし彼らが観衆側に目を向けることはなかった。


 やがて、音色は零れ出す。そのときを見計らって、俺は紫音さんの方を見た。気になったのだ。彼女がどんな顔をして、この演奏を聴いているのか。


 彼女は相変わらずの無表情だった。ただ、まばたきひとつせずに演奏者たちを見つめている。じっと、じっと。


 邪魔しちゃいけない、そう思ったのだけど。聞きたいことができてしまって。俺はそっと、そっと声をかけた。


「紫音さん。どうしてこのコンサートに来たかったんですか?」


 この人が、この道を塞ぐカビゴン並に動かない紫音さんが。わざわざここに足を伸ばそうと思った理由。それが聞きたい。


「……小さい頃、私もピアノをやってましたから」


「それで、久々に音楽に触れようと?」


 頷いた紫音さん。その考えに、俺は妙に納得した。ああ、ポケモンの笛の音色の代わりにか、みたいに。


 視線をステージに戻した紫音さん。けど、今度は焦点が合っていないみたい。どこか遠い、遠い世界を見ているよう。


 私は、どうしてここに来た?彼に聞かれたことを、そのまま自分に問いかける。きっとそれは、変わるため。あの頃の自分、思い出して変わるため。


 あの頃の、自分?私が鍵盤に揺られていたあの日、あの言葉を、本当に思い出したいのか。それは、遠い日の一幕。


『また、負けちゃったね。あの人に』


 あなたはだれ?あの日、ピアノのコンクールがあったあの日。私に語りかけたあなたは、だれ?


『今回のコンクールのために、指、おかしくなるくらい練習したのにね。でも、また賞を取ったのはあの人だ』


 私はその頃、負けたことがなかった。全てのことにおいて、周りの子より勝ってきた。誰も真似できないほどの努力で、全て。


『優秀な指導者も雇った。練習もイヤってほどやった。それでも、結果は前と同じだね』


 ただ、一つだけ一番になれないことがあった。それがピアノ。いつもいつも、同じ子に一番をとられてしまい、私はいつも二番目だった。


『本当のことを言うとね、技術はあっちの方が劣ってるんだ。でも、負ける。どうしてかわかる?』


 わからなかった。だから、必死になってもっともっと練習して。そうやって、今回のコンクールは三度目。三度目も、私は負けた。


『あの人ね、演奏中に観客の方を見たんだ。おかしいだろ?どんだけ余裕なのって話だよ』


 いつも、私の前に立ち塞がるあの子。越えなければならない。そうじゃなきゃ、私は見てもらえなくなってしまうから。


『後で聞いてみたらね、お母さんを見てたんだって。お母さんに見てもらいたくて、頑張ったんだって』


 怖かった。負けるのが怖かった。私は、見捨てられるんじゃないかって、いつも思ってた。


『同じだね。親に見てもらいたかったってこと。でも、決定的に違うものがある』


 違うこと?私は問うた。それがわかれば、次は勝てるかもしれない。


『あの人は、とても楽しそうに演奏した。片や、あなたは必死に演奏した。失敗したら、負けたら、両親は自分にがっかりする。そんな切迫感の中で』


『勝てると思う?そんな人に、そんな自分が』


 私は俯いて、首を横に振った。本当は気づいていたから。あの子の音色が、自分には届かないものだと。


『“姉さん”、あなたの悪い癖だ。自分を見て欲しい、見て欲しい。そう思うのに、あなたは相手を見ようとしない。知って欲しい、知って欲しいと思うのに、あなたは相手を知ろうとしない』


『演奏者が普通、演奏中に観客の方なんて見ないように。ただ必死に視線を集めて、満足するだけ』


『同じ願いだよ。〜に見て欲しいって。でも、あの人は相手のために奏でて、あなたは自分のために奏でた』


『得てして、人の心に響くのは前者のような音色なんです。だから、あなたは勝てない。あなたが変わらない限り、ずっとずっと、勝てやしない』


「紫音さん?」


 彼が私の肩を叩く。それと同時に、意識が現在に戻ってくる。私は今、彼の隣にいるのだ。


「顔色、悪いですよ?体調悪いんじゃないですか?」


 私の異変を素早く察知してくれる彼。私のことを、ちゃんと見てくれているんだろう。


 でも、私は?私はちゃんと、彼を見ている?私はあのころから、変われているの?いろんなことが頭を巡り、やがて本当に体調が悪くなってきた。


「……すみません、ちょっとトイレに」


「うん。大丈夫なの?」


「……大丈夫、です」


 演奏が行われているメインホールを出て、トイレに向かった私。鏡の前に立ち、自分の顔を見る。


 確かに、顔色が悪い。嫌なことを思い出してしまったからだろう。私は深呼吸をし、なんとか自分を落ち着かせようと努める。


 もう一度、鏡を見た。すると、私の背後にいつかの壺売りが立っていた。相変わらずの黒装束で顔まで隠し、僅かに見える口元だけが笑っている。


「……何か、用ですか?」


「ふふ、そんなに警戒しなくていいですよ」


 明るい声でそう言うと、顔を覆っていた装束を外し素顔を露にした。


「私は本宮日和、氷名御遥人さんの友人をやらせてもらってる者です」


 そんなことは、どうでも良い。あなたなんかに興味はない。


「何か用ですか?」


 やや語気を強めて、もう一度問う。彼女は、そっと笑った。



 紫音さんがトイレに行った後、俺も同じ目的でホールを抜けてきた。用をたしてから手を洗い、鏡を見る。するとそこには、見慣れた浅黒い肌の男が立っていた。


「どうしてここにいるんだよ、疾風」


「……まぁ、何も言わずにコレを聞けや」


 いつもの調子で話す疾風だが、表情がいつもより若干シリアスモードである。その手にはトランシーバーが握られ、どこかから音を拾っているらしい。


「本宮のやつが、始めるらしいからさ。よし、ハンズフリーにして、と」


 音声がトイレ内全体に響きわたる。疾風のいうとおり、声の主は日和だった。そしてその相手は……。


「……紫音さん!?おい疾風、本宮が始めるってまさか!!」


「黙って聞けや。全部、明かしてくれるらしいからよ」


 本宮と紫音さんの会話。全て明かしてくれるというのはきっと、紫音さんのこと。


「なんであいつが、紫音さんの問題にしゃしゃり出やがる!?」


「知ってるからには見逃せない。膨大な情報を得るにあたって、これは宿命みたいなもんらしい」


 あらゆることを知るならば、あらゆることを見てみぬふりしなければならない。それができないお人好しは、首をつっこむしかないのだ。



「ちょっと、昔話しをしませんか?」


 日和の声が、男女のトイレに響きわたる。それは、彼女が膝を折るまでのささやかな物話。




 ある大企業の社長夫婦のもとに、一人の女の子が生まれました。そしてその一年後、今度は男の子が生まれました。


 社長様は我が子に後を継がせたいと強く願っていました。悲しいかな、そんなときに親が期待をするのは決まって男の子でした。


 女の子はまだ小学校にも入らないうちから、自分の家柄のことを理解しました。そして、彼女は思ったのです。


 跡取りとしての価値がなければ、両親に可愛がってもらえないと。だって、両親はいつも弟の方ばかりを見ていたから。


 女の子は努力を初めました。単純に男と女で比べれば、両親は間違いなく男である弟を取る。


 ならば、能力で差をつけるしかない。こんなに優秀ならば、女の子とはいえこちらを跡取りにしたい。そう思わせるくらい。


 別に、跡取りの座事態に興味はありません。ただ、跡取りになれれば両親が自分を見てくれると思ったのです。


 そうでもしなければ、両親は自分なんていらないと思うだろうと。他人を良く観察することが苦手な女の子は、勝手にそう思っていました。


 彼女の作戦は成功しました。人に見られないように血の滲むような努力を積んだから。彼女は『天才』とか『神童』とかと呼ばれるようになりました。


 当然です。ピアノだけは例外として、それ以外の全てで常に彼女は一番だったのです。


 敗北を刻み付けられたピアノは自ら手を引き、元々凡人として育つはずだった彼女は、努力だけで全てを捩じ伏せてきました。


 一方、当初期待されていた男の子は、可もなく不可もなく成長して行きました。全てが人並み。そんな彼を見て、やがて両親は女の子に期待するようになりました。


 もちろん、だからといって男の子が冷遇されていたわけではありません。跡取りでなければ愛されないだなんて、女の子の勘違いなのです。


 男の子は実は結構、他人を観察するのが得意でした。だから、両親がちゃんと自分を愛してくれていることもわかりました。


 だから男の子は特別な努力はしなかったし、努力家の姉を尊敬していました。


 そんな男の子に転機が訪れます。それは、姉の三度目のピアノのコンクールの日でした。


 男の子は、姉の生き方が間違ってると気づきました。他人を観察することに秀でた彼だからこそ、両親も気づかない姉の間違いに気づいたのです。


 姉はいつからか、自分を見てもらうためだけの生き物になっていました。姉のあまりに必死であまりに悲しい音色が、男の子を動かしました。


 こんな生き方ではいけないと。考えた男の子は、一つの作戦を立てました。


 自分が姉から跡取りの座を奪い、そんなものがなくても変わらず両親が愛を注いでくれることをわからせようとしたのです。


 彼は努力しました。ただ、姉のために。他人を理解できる彼だから、姉のために努力する彼だから、たくさんの人が助けてくれました。


 やがて、彼は開花しました。他人からあらゆることを、驚異的なスピードで吸収して。いつしか彼は、本物の天才になりました。


 これで姉は、努力家で一途な自分の大好きな姉は、間違いに気づいてくれる。そう思い、彼は喜びました。


 姉は、消えました。


「さて。この親子は、いえ、この姉弟はいったいどこで間違ってしまったのでしょう。男の子にも女の子にも、その答えは出せませんでした」


 日和が陽気に話す紫音の過去。男女のトイレが、それぞれ重苦しい空気に包まれる。


「弟が姉のためにしたことなのにな。なんでそんな結果になっちまうんだろう?」


 疾風の呟きに、遥人は頷いた。今まで『大企業の社長一家という家柄が災いして起こった悲劇』程度しか知らされていなかった遥人も、疾風と同様の感想だ。


 どうして。誰がいけないとか、そんな分かりやすい原因がみつからなくて、遥人は項垂れた。


 ただし、本当はみんな答えを知っている。心の奥底では、日和も疾風も遥人も紫音も、何が悪かったのかわかっている。


 ただ、それを『いけないこと』だと言える強さを持ち合わせていないから。おそらく同じ立場なら、自分も間違ってしまうと思うから。


 ただ、ここに一人だけ。それを悪いと言える強さを持ち合わせた女の子がいた。男子トイレの個室のドアがそっと開いた。


 中から出てきたのは奈央。実は、男子トイレの個室に奈央が、女子トイレの個室に真央が隠れていたのだ。


「奈央さん!どうしてここに!?てかここ男子トイレなんだけど」


「うるさいです!私だって嫌だったんですよ!いや、それよりも!」


 奈央は思い出したかのようにつかつかと疾風の前に歩み寄ると、大きく息を吸った。


「ばっかじゃないですかっ!?どうしてそんなことになったか!?みんな、本当は気づいてる癖に!」


 大きな声。いやもう、ただの怒鳴り声だった。当然、隣の女子トイレにも聞こえているだろう。


「ちょっ、奈央ちゃん声でかいって!」


「黙ってください!これ以上、あの人を甘えさせておくわけにはいきません!」


 もう一度、奈央は大きく息を吸った。そして今度は、壁の向こうに向かって叫んだ。


「ご両親は、不器用でもしっかり二人とも愛しました。弟さんも、姉のために頑張りました、でも!」


 女子トイレで日和が耳を澄まし、紫音が耳を塞ぎたい衝動を堪えて必死に聞こうとしている。


 覚悟はできてる。これはきっと、試練。私が最後に残した『過去』という鎖をちぎるための、試練。


「あなたは何をしました?両親の気持ちなんか全く目を向けずに、あなたは勝手に自分を見てくれてないと結論付けた!」


「弟の好意も真っ直ぐに受けとれず、勝手に自分が必要のない存在だと決めつけた!」


 そして、こんなところまで逃げてきた。消えてしまおうって思って、逃げてきた。


「本当は、気づいてるんでしょう?これはただ、あなたが自分を見て欲しいと思うばかりで、両親のことを少しも見なかったことの弊害だと」


「そして、あなたはただ、『自分だけを見てくれないと嫌だ』っていう自分勝手な要求を押し付けていただけだって」


「気づいてるんでしょう?これはあなたの弱い弱い心が生んだ、ただの現実逃避だって!」


 誰も見てくれなかったわけじゃない。自分だけを見て欲しい。そんな無茶な要求が通らずにいじけていた、ただのガキの話。


「甘えないでください!本当に相手のことを思うなら、たとえ相手に嫌われようとも、自分を見てくれなくても、愛し続けてみなさい!」


 そのとき、女子トイレの個室のドアがそっと開いた。中からは、待機していた真央が出てきた。


 急に日和や奈央が出てきた時点で、だいたい予想はできていたのだが。何故、この姉妹まで私を叱ってくれるのだろう。


「織崎さん。奈央ちゃんはね、私がどんなに酷いことしたって、変わらず愛してくれるんです。だから、私も奈央ちゃんが好きなんです。本人には、言えないけれど……」


 真央の言葉が男子トイレの奈央に聞こえないように気をきかせて、このセリフのときだけトランシーバーのスイッチを切った日和。

 さらに真央の言葉を受け継いで、続けた。


「人に見て欲しいなら、まずはあなたから相手を見るんです。知ってほしければ、まずはあなたから相手を知るんです。愛されたいなら、まずはあなたから愛してみてください」


 黙って何度も頷く紫音に、普段は毛嫌いしている真央も積極的に救いの手を差しのべる。


 ほら、あなたにだって、たくさん繋がりがあるでしょうって。そう伝えるみたいに、たくさんの声が聞こえる。


「自分だけを見てもらう?そんなことが叶ったら、それは相手にとって不幸なことじゃないですか?」


 自分だけを見て、他を見ようとしない姉。それを見て、自分を嫌いになってもらおうとしてるくらいの真央だから。


 それを見て、とっても不幸なことなんだと理解した真央だから。


「自分の望みを捨ててでも、相手が幸せになることを望むのが愛でしょう?少なくとも、私の知っている男の子はそういう人です」


 紫音が幸せになるために変わること。自分から遠ざかってしまうのを覚悟でそれを望んだ遥人を知っている日和だから。


「変わってください、あなたが。弟さんのために。そして何より、遥人さんのために。いつまでも遥人さんに迷惑かけてたら、私と奈央ちゃんが許しませんから」


 滴が溢れた。ポタポタ、ポタポタと。ぐしゃぐしゃの泣き顔を上げて、紫音は前を見た。


 本当の意味で、生まれて始めて素直に前を見た。そして、深々と頭を下げた。


「あ…り…が…とう」


「聞こえませんよー。もっとはっきりと!」


「……みなさん……ありがとう。私は、自分勝手な女だけど、変わるから。どうしたら良いのか、ちゃんとわかったから」


 悲しくて泣いてるんじゃない。嬉しくて、氷名御遥人という男を中心として、こんなにも自分に繋がりができたこと。それが、うれしくて。


「聞きましたか、遥人さん?」


 トランシーバーを通して、遥人に声が届く。紫音が今、一番聞いてほしいと願う相手、遥人に。


「聞いた!紫音さん、もう甘やかしませんからね!」


 最後の最後で何もできなかった遥人。疾風、奈央、真央、日和の『何故か普通にここにいる』カルテットに感謝しつつ、叫ぶ。


「ふふふ。今日はお祝いですね!みんな、これから遥人さんちでパーティーやりますよー!!」


「「おーー!!」」


「っておい、勝手に決めるなって!てかトイレを隔てて話すのやめよう?叫ぶの疲れるから!」


「……それは、私も参加していいんですか?」


「当然ですよ!……それに、ちゃんと彼に言いたいことがあるでしょう?」


 そのチャンスは、私が作りますからと。紫音の耳元で囁く日和。紫音が顔を真っ赤にして黙りこんだのは言うまでもなく。


 そして帰路。


「まぁ、何でおまえらがここにいるのかとか、そういう細かいことはあとできっっちりと尋問させてもらうからな?」


 と、すごい笑顔で遥人が脅しをかけたためか、帰り道も紫音と遥人の二人きりとなった。


 駅について電車に揺られた後、二人はアパートまでの道をゆっくりと歩いていた。


「遥人さん」


「ん、どうしましたってか、やっと名前呼んでくれるようになったんだね」


「これからも、たくさん呼ばせてもらいますからね?」


「ちゃんと変わってくださいよ?あんなにみんなが応援してくれたんだから」


 優しく、そう言ってくれる彼。それだけでもう、随分甘やかされた気分になるけど。


「どうしてですか?」


「へ?」


「どうして、顔も知らない人や私を嫌ってた姉妹さんまで、私に良くしてくれるんですか?」


 紫音が抱いた疑問。それに、遥人は答えることができなかった。


 ただ、紫音自身、なんとなくその答えらしきものは頭の中にあった。つまり、それが遥人という男の子なんだということ。


 この人が大切にすれば、同じように周りの人もそれを大切に思う。この人が強く願うことなら、叶えようと思う人たちがいる。


 日和と名乗る女性は言っていた。彼はいつも無理して笑っているんだと。


 確かに、今思えば。私と一緒のときの彼は、無理をしてでも笑っていたように思う。


 だけど、姉妹やさっきの二人と一緒のときの彼は、本気で笑っていることが多いと思う。


 私も、彼にとってそういう存在であれたら。これは、私のこれからの人生目標の一つにして良いだろう。


「では、もう一つ聞かせてください。あなたは何故、私に良くしてくれるんですか?最初にアパートに来たあの日から、ずっと」


「夏と同じ答えは、通用しないよね?」


「はい。また『ただのおせっかい』じゃ納得できません」


 ずっと知りたかったこと。消えてしまおうと思いこのアパートに来た私には、そもそも女の魅力以前に人間としてなんの魅力もなかったはずだ。


 それを、魚を食べさせてくれたあなた。一緒にスーパーにつれていってくれるあなた。


「ねえ、紫音さん。理由のない愛をくれるのは、多分家族か長年連れ添った相手くらいなんだよ」


 その言葉。逆にとれば家族や長年連れ添った相手だけは、理由のない愛をくれるってこと。


 その理由のない愛が信じられなくて、私は両親との間に深い溝を作ってしまったみたいだけど。


「夏に聞かれたときさ、最初俺は、理由なんてありません、みたいな答えを返したよね」


「それで私が、無償の愛なんてない、って言いました」


「うん、でもね。あの答え、嘘じゃないんだよ?」


「え?でも、そんな愛をくれるのは家族か長年連れ添った相手だけだって。さっき言いましたよね?」


 その言葉も本当ならば、二つの発言はつじつまが合わない。矛盾というやつではないだろうか。


「だから、家族だって思ってたんですよ。あなたを」


「アパートに来たばかりの、初対面の女をですか?」


 訝しげに答えた紫音さんに、俺はあの夏の日を思い出しながら言った。


「俺はあのとき、家族をなくして一人だったんです。でも、突然やってきたへんてこ姉妹に、なんとなく心の穴を埋めてもらえて」


「やっぱり、家族みたいな関係が欲しいなって。そう思ってたんです」


 彼が心を開いていた相手は、両親と桐原疾風の三人だけだった。中でも、『家族』というのは特別な存在だった。


「だから、あのアパート。あそこに住む人はみんな、家族みたいに大切にしてやろうって思って」


 親子が残した意味不明な形見。それがこんな形で役にたつなんて。人生わからないものだ。


「まぁ、単純に言えば寂しかったんですよ、俺は。だから、せっかくできた家族候補が消える気まんまんじゃこまるんですよ」


 放っておけば、消えてしまいそうな存在だった。だから、全力であなたを助けようとした。


「全部、結局は自分のためなんです」


「でも、それだけなら私が変わるようにいろいろやってくれる必要はなかったでしょう?」


「ん、それはまぁ」


「結局あなたは、自分のためだけになんて動けないんですね。……だから、そんなあなたに甘えてちゃいけないんです」


 大丈夫、彼が一緒にいてくれるなら、この決意は揺らがない。だから、私は変われる。


「うん、だからこれからは、甘やかさない甘えないってことで。まぁ、大丈夫だろうね」


 その言い方から、彼がすでに私を信用してくれているのだとわかって。それが嬉しい。


「……はい。でも、最後に一度。今だけは甘えて良いですか?」


 にっこりと笑って尋ねる紫音さん。こんな笑顔が見れただけでも、俺やみんなのおせっかいって意味があったんだと思える。


「いいよ。なんでも言ってごらん」


「じゃあ、おんぶ。してください」


「……そんなこと?」


 なんかもっと大変なことを頼まれるかと思いきや、それはとてもささやかなことだった。


 ちょうど良い。この寒さ、二人ならかき消せるだろう。俺は、背中を差し出した。


「よっと……なんか、思ったより軽いんですね」


「私、太って見えますか?」


 いや、そうじゃなくて主に今背中に当たってるモノがなんとなく重そうなだなあって。いや、言えるわけないけど。


「遥人さん。帰ったら、話したいことがたくさんあります。付き合ってくれますよね?」


「ん?別に今からでも良いんだけど」


「いえ、今は……少し、浸らせてください」


 この、自分にはもったいな過ぎる、温もりに。


「……そっか」


 白い息。今にも雪の振り出しそうな空はすでに日が落ちている。こんな冬の日、聖夜に。こんな温もりに出会えたことに、感謝します。


「……暖かい」


「うん、暖かい」


 道を作ったのが誰でも。道の歩み方を教えたのが誰でも。道の尊さを教えたのが誰でも。かまいやしない。


 だけど、歩み出すことだけは。自分の足で、自分の意思でなくちゃならないから。


 あ、でも今は俺の足使ってるな……ま、いっか。


 こんな一日も、こんな一瞬も、悪くないなって思えたら。




 日常賛歌




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