第二十六話 続く日常、分岐点
「遥人さん!」
息を切らして自分を探してくれた彼。それがすごく嬉しくて、真央は彼の元へ走った。
辿り着いたとき、真央はなんだか不思議な感覚を覚えた。温かくて、安心するような。
その理由はすぐにわかった。真央は遥人に抱きしめられていたのだ。
普段からはあまり考えられない行動に、真央は嬉しいながら動揺した。
「……心配したんだぞ」
責めるでもなく叱るでもない口調で、遥人は言った。そして、さらに強く抱きしめた。
「……ごめんなさい」
素直に謝る真央のを、遥人は優しく撫でた。
「いや。俺の方こそ、寂しい思いさせてゴメンな」
家に帰ると言いながらこんな所できんつばを頬張っていたのだから、真央はてっきり怒られると思っていた。
何故かまったく怒られなかったわけだが、正直彼女は叱られても良いと思っていた。
だってそれは、自分を心配してくれた証だから。
結果的に怒られもせず、心配してくれているということがわかった。
かなり落ち込んでいたはずなのに、それだけで開き直ってしまった。
自分はけっこう単純なのかもしれない。そう思った真央は、それでもやっぱり嬉しかった。
そんなわけで、真央はかなり上機嫌で遥人とともにアパートを目指し歩いていた。
一方の遥人は、実はというとほっとしていた。
自分が真央さんをないがしろにする形で帰られてしまった以上、へそ曲げられるかかなり落ち込まれるかは覚悟していた。
特に、奈央にことのいきさつを話したときにはかなり不安になった。
「どうして真央ちゃんを放っておいたんですかっ!」
ことのいきさつを話すと案の定錯乱した奈央さん。当然怒りの矛先は俺に向いた。
どうして放っておいたのか。それはきっと、俺が真央さんをちゃんと理解していなかったせい。
一人にしても大丈夫だと、そう思ったから追わなかった。
けどそれは、俺の勘違いだった。本当は真央さんを、一人にするべきじゃなかった。
彼女は俺が思うよりずっと繊細で、寂しがりやだった。
一人にしたらきっと、不安に押し潰されそうになるくらい。だから、一緒にいるべきだった。
それが、俺にはわからなかった。わかっているつもりだっただけなのだ。
すぐに危機感を覚えた奈央さんと違い、俺がことの重大性に気づいたのは彼女の反応を見てからだった。
奈央さんは錯乱しつつも、真央さんを探すためいち早くアパートから飛び出した。
だが、俺はそれを止めた。今の錯乱状態の奈央さんを行かせるのは危険すぎるから。
「これは俺の責任だから俺が探す。奈央さんはもしも真央さんが帰ってきたとき連絡してくれ」
そう言ってアパートに残るよう促すが、なかなか納得してくれない。
「真央ちゃんが危ないかもしれないのに、ここでじっとしているわけにはいきませんよ!」
彼女の気持ちを考えれば当然のことなのだが、やっぱり彼女を行かせるのはまずい。
「頼む。真央さんのことは俺に任せて、ここで待っててくれ」
必死に懇願する俺に、彼女は容赦なく言葉を浴びせた。
「遥人さんに任せる?真央ちゃんの気持ちもわからない人に任せられるわけがないでしょう!」
奈央さんは本気で怒っていた。俺はこの先、二度と彼女に信用してもらえないかもしれない。
それでも今回の責任は自分でとる。真央さんに、ちゃんと謝らなきゃいけないから。
「疾風、頼む」
俺たちの会話にさっぱりついていけずに途方にくれていた疾風に、奈央さんを止めるように頼んだ。
「了解。早く探しに行け。その真央さんとやらを」
察しの良い友人に感謝しつつ、俺はアパートを飛び出した。
後ろで疾風に止められた奈央さんの声が聞こえたが、構わず走り出した。
カンを頼りに走り周り運良く見つけた真央さんは、知らない男と喫茶店で会話しているところだった。
窓越しに見えたその表情は、すごく悲しそうだった。それを見て、改めて自分の行動を後悔した。
俺は、こんな顔をさせるために真央さんと過ごしてきたわけじゃないのに。
何とか呼吸を整えて彼女の方を見ると、一緒に座っていた男がこちらを指さした。
それを見てこちらを向いた真央さんと目が合った。彼女はどんな反応をするだろう?
俺の顔なんて見たくないかもしれない。いつものように、笑ってはくれないだろう。
そう、思っていた。なのに。
それなのに、彼女は笑った。
俺を見て、心底嬉しそうに笑った。笑ってくれた。
それが、自分自身すごく嬉しくて。思わず笑い返すのだった。
そして真央とともに帰路についた遥人は、真央に聞きたいことが二つあった。
一つは、さっきの男のこと。素性が謎な真央の知り合いというのは、かなり気になる。
最後に真央が男に笑いかけていたところを見ると、それなりに親密な様子だった。
もう一つは、家に帰らなかった理由。これには、少し思い当たる節があった。
ときどき、真央さんが奈央さんを『意識的に』避けている場合があるように思う。
今回も、もしかしたらそれでアパートに帰らなかったのか?
だとしたら、大好きな姉を避ける理由はいったい何だ?
遥人はこの二項を問うのにあたって、一つの覚悟を決めようとしていた。
それは、知る覚悟。真央を、いや姉妹のことをもっと知る覚悟。
今回のことで、俺は二人のことがまったくわかってないと気づいた。
いや、それは実際随分前からわかっていた。だけど俺は、全部知る必要なんてないと思っていた。
姉妹が幸せではなかった過去を、知られたくない過去を、わざわざ知ろうだなんて。
そんなことをしたら、全部壊れてしまう気がして。
そんなリスクを背負ってまで、知る必要なんてない。そう思っていた。
そう思って、本宮の申し出も断った。姉妹のことを詳しく調べようという申し出を。
真央がいなくなった後に日和が話したのは、そういうことだった。
『あの姉妹のこと、何も知らないんでしょう?このままで良いんですか?』
そう言われた俺の答えは、今考えればバカみたいなものだった。
『俺たちは今のままで充分だよ。それに、全部知ろうだなんて傲慢だろ?』
それは、本宮自身が前に俺に言った言葉。そんな意味で言ったんじゃないって、わかってたのに。
何が『今のままで充分』だよ。全然ダメじゃん。
そんな上っ面だけの関係で、満足なんかしたくないだろうが。
俺は二人と、家族になりたいんだ。それが、俺が姉妹と過ごした日々の答えなんだ。
だから、ちゃんと知ろう。理解しよう。それで壊れてしまうような関係じゃないはずだ。
「ねぇ、真央さん」
『やっぱりさ、聞いちゃいけないかな。奈央さんたちのこと』
自分の横を楽しそうに歩く真央さんに、意を決して声をかけた。
なのに、そこにあの日の記憶が重なった。夏休みの最後、海に行ったあの日の夜。
同じように考えて、奈央さんに問いかけたあの日。
二人のことを教えて欲しいと言った俺は、そのとき拒絶された。
あのときの記憶。あのとき感じた壁。二人は、俺に理解してもらうことなんて望んでいない?
そんなことを考えてしまって、恐くなって。
「どうしたんですか?」
結局、俺は聞けなかった。今の幸せを、たとえ上っ面だけでも幸せな今を壊してしまう気がして。
「いや……早く帰ろう。奈央さんも心配してる」
「……はい」
なにか違和感のある返答に首をかしげた真央さんだが、あまり気にはしなかった。
その後の沈黙の中、手を繋いで歩いてみたかった真央のささやかな願いは叶わなかった。
そして、帰宅後の奈央の説教と真央への改めての謝罪を終えた遥人。
疾風に感謝の言葉を述べつつ見送ると、一人物思いにふけた。
正しい道がわかっていながら、選べなかった自分。いつか、そのツケは回ってくるだろう。
あの選択は、分岐点だっただろう。いつか、必ず後悔する。
それでも、こんな日々が続いて欲しくて。
選んだ道の正しさを祈って、遥人は今日という日を終えた。
こんな一日。
そんな日常。