第二十五話 真意、窓の向こう
大好きだった人がいた。自分を愛してくれて、自分を何よりも大切にしてくれた人。
大嫌いな人がいた。自分を大切にしてくれる誰かに甘えて、寄りかかって、押し潰してしまいそうな、自分。
大嫌いに、ならなきゃいけない人がいた。自分のために、自らの幸せすら捨てようとする。
嫌いになるしかない。それしか選択することのできない、弱い自分。いつまでも立ち尽くしているだけだった。
ねぇ。
本当に嫌いにならなきゃいけないのは―――誰?
「なるほど。つまり今は、奈央お嬢様と一緒にその『遥人さん』の家にお世話になっている、と」
ある夕刻の喫茶店。楽しそうに話す少女と、険しい顔に珍しく笑顔を浮かべた男がいた。
「うん。遥人さんはね、すごく優しいんだよ。いつもね、眠れないときは一緒にいてくれるの」
最近の生活のことを話すとばかり思っていた秋隆だが、意外にも真央が話すのは遥人という少年のことばかり。
いかにその少年が彼女の生活の中心となっているのか伺える。
眠れない時は一緒に、か。しかし、それはもともと姉である奈央お嬢様の役割だったはずだが……。
「それでね、奈央ちゃんとはよくケンカしてるの。なんだか奈央ちゃん、すごく遥人さんにつっかかるんだよね」
多分それはあなたのせいでは?奈央お嬢様のことだ。妹を奪われてさぞご乱心だろう。
「それからね、海にも行ったんだよ!想像したよりずっと楽しかったんだ」
そういえばよく『一度で良いから海に行ってみたい』と言っていた。
「なるほど。それは随分楽しい日々ですね」
「うん、毎日楽しいよ」
そう言って笑った真央に秋隆は圧倒された。
秋隆は奈央と真央を幼いころから見てきた。しかし、二人が『家出』をしてから数ヶ月。
彼女の笑顔はあどけないものから成長を見せ、
今や破壊力すら秘めているように感じる。
子供の成長というのはつくづく恐ろしい。彼女を見てそう感じる。
「……でもね」
私がオヤジ臭いことをしみじみと思っていると、突然彼女の笑顔に影が差した。
「でもね、秋隆。私は必要とされていないのかもしれない」
さっきまでの元気な声も一変。消え入りそうな言葉だった。
「必要とされていない?遥人という少年にですか?」
だとしたら、それは悲しすぎる。彼女はおそらくその少年が大好きで、必要としている。
ちょっと話を聞いただけの私でもわかるくらいに強い気持ち。
それを裏切られているのであれば、彼女自身だけでなく私もやりきれない思いだ。
返答に際して、彼女は首を横に振った。ほっとする私だったが、真央の表情は曇ったまま。
「遥人さんだけじゃない。『誰にも』だよ」
自分は誰にも必要とされていない。彼女はそう言った。
しかし、私は否定する。誰にも必要とされていないだなんて、あり得ない。
なぜなら彼女には、ただ一人絶対的な存在がいるのだから。
「誰にも?奈央お嬢様にもですか?」
きっと、彼女は気づいていないだけだろう。
いつもずっとそばにいるから、姉が自分をどんなに大切にしているのかを。
本当は真っ先に、自分が必要としているということを伝えたかったのだが。
「奈央ちゃんは……ダメなの」
辛そうだった。悲しそうだった。多分、それは自分の勘違いではない。
「ダメ、ですか?」
その言葉の指す意味がなんなのか、自分には解ってあげられなかった。
「きっとね、奈央ちゃんは私を必要としてくれているよ」
なら、どうして?それを聞くのが、何故かためらわれた。
「でもね、本当は必要ないの。奈央ちゃんが必要だと思っているだけ」
彼女がそう言いながら見せた笑顔は、あまりにも悲しくて、キレイだった。
「奈央ちゃんが私を大切にすればするほど、きっと不幸になる」
「そんなことはないでしょう。奈央お嬢様にとって、あなたこそが幸せの源であるはずです」
そんな表情をするのはやめて欲しくて、それを全力で否定した。
それでもやっぱり、彼女は悲しそうで。辛そうで。こんなとき、自分にはなにができる?
「奈央ちゃんはね、私のために全部捨てようとするから。私のためなら、自分の幸せだって簡単に」
それは自惚れではなく、あまりにも辛い事実だった。
自分が大切にされていることは、痛いってほど解ってた。
「簡単に……捨てるから」
だから、好きでいちゃいけない。大切にされちゃいけない。
だから、必要とされちゃいけない。私は大好きな姉を、嫌いにならなくちゃいけない。
そうするしかない。それがどんなに辛くて、泣きそうでも。
私には、そうすることしかできないから。
「それで、良いんですか?」
秋隆の問いに、真央は頷いた。その道を、真央は選んだ。
やっぱり、自分はなにもしてやれないのかもしれない。でも、だからこそこれだけは言おう。
「私は、真央お嬢様が必要ですよ」
ただ、それだけは知っていて欲しかった。たとえそれが、彼女の救いになどならなくても。
でも、彼女は笑ってくれた。びっくりしたあと、言葉の意味を理解して。
笑ってくれたのだ。
「ありがとう、秋隆」
その言葉と、この喫茶店の窓の向こうに現れた人物を見て確信した。
彼女はきっと大丈夫だ。ちゃんと、必要とされている。
「お嬢様、あれ」
窓の向こうを見るように促した秋隆に、真央はそちらを向いた。
そこには、息を切らせてこちらを見ている一人の少年がいた。
「あ……遥人さん!」
その瞬間、彼女は弾かれるように笑顔になった。つられて、その少年も微笑んだ。
「ほら、ちゃんと必要とされているじゃないですか」
肩で息をする少年はおそらく走って彼女を探したのだろう。
家に帰る途中だったらしいが、随分時間もたっている。心配したんだろう。
「うん、ありがとう。私行くね」
頷いた私を見て、彼女は出口に向かった。しかし、途中で振り返った。
「そういえば秋隆。遥人さんの顔知ってるんだ?」
きょとんとした表情でされた問いに、私は問い返した。
「彼の苗字、『氷名御』ですよね?」
その言葉に彼女ははっとして頷いた。その反応で、私は確信した。
やっぱり、あの男か。姉妹を導いたのは。
二人が家を出る少し前に現れた氷名御一人という男。
遥人という少年は随所に面影があり、すぐにその息子だとわかった。
そうか。二人が幸せになるように尽力したのは、突然現れた他人様か。
あの親子は、そんなにも簡単に二人を幸せにしてみせるのか。
自分は、何をやっていたんだろう?二人のことを、たくさん知っていたくせに。
あんなにも長い時間、二人の近くにいたくせに。本当に何もしてやれなかった。
突然現れたあの一人という男は、いったいどうやって姉妹を導いた?
あの遥人という少年は、いったいどうやって二人を笑顔にした?
どちらも自分にはできなかったことだから、それが悔しくて。
そんな自分が、本当に情けなくて。歯を食い縛ったけど、こらえきれなくて。
「ねぇ、秋隆」
疑問が解消された真央は、そのまま立ち去るでもなく未だ秋隆の方を向いていた。
もう一つだけ、聞いて起きたいことがあったから。
「また今度、私の話を聞いてくれる?」
秋隆は再び歯を食い縛った。涙が、溢れそうだったから。
自分の情けなさに。そして、彼女が自分を必要としてくれているという事実に。
「いつでも聞きますよ。その代わり、楽しい話を用意してください。あなたがたが絶え間なく笑っているような、そんな話を」
これは、こんな私からのたった一つの頼み。二人には、本当に幸せになってほしいから。
「うん、ありがとう!」
そう行って彼女は、ついに出口から姿を消した。彼のもとに、向かった。
秋隆はといえば、自分にも真央を笑顔にすることがてぎるのだと知り、ちょっと救われていた。
実は、真央と遭遇したことは雇い主である姉妹の両親に報告しなければならないのだが。
あえてそれをしなかったことへの背徳感がなかったのは、きっと彼女の笑顔のせいだろう。
いつの間にか日が暮れた空を眺めていた秋隆は、ふと思った。
そういえば、きんつばは自分のおごりなのか?
やられたな。そう思った秋隆は、終始笑いが止まらなかった。