第二話 普通の生活、普通の幸せ
手は取るよ。ちゃんと差し出すよ。だから、君らも見逃すな。
手を伸ばせ。ちゃんと掴み取れ。そしたら絶対に、離さないから。
ちゃんと握って、望んだとこまで連れてってやるから。
あの日私は、温かい言葉を聞きました。温かい手に触れました。
それだけで良かった。私はその手をぎゅっと握り締めて、ひたすら走った。
その手も私の手ををぎゅっと握ってくれて、決して離そうとはしなかった。
そうしてそのまま、朽ちていった。音もなく、消え行くように。
後に残ったのは、温もりを失った手のひらと、寒さに凍える心だけだった。
皆さんこんにちは。不孝の息子、不幸の少年、不考のくそガキこと●●です。
おっと、名乗るには早いですね。タイミングってもんがありますから。
さてさて、不孝は俺の責任として、ならば不幸なのは神様の責任というべきでしょう。
では不考は……考え無しなのは自分の責任?いやいや、この場合は考えることを放棄するに至った原因に責任があるわけで。
具体的に言わせてもらうと、間違いなくこいつらの責任だと思うのですよ。
「とりあえず、君らはいったい何者なんだ?」
「貴方の姉です。生き別れの」
「貴方の妹です。隠し子の」
「無理言うな。つーかどんな家庭環境!?」
目下一番の謎である少女たちを家に上げ、尋問開始と行きたかったのですが、どうも俺はなめられているようで。
「だいたいてめーら年下だろ、何が姉だよ」
とりあえず今、俺の手元には甲斐さんが姉妹に持たせていた紹介状がある。
まあ記されているのは名前と年齢だけというアバウトを超越した紹介状なのだが、ないよりはいくらかマシだ。
「ああもう面倒くせえ、点呼とるから返事しろよ!」
『なげやり』とか『やけくそ』ってのは、多分今の俺のようなことを言うのだろう。
「なげやりー」
「やけくそー」
「……おまえら、随分といい性格してんじゃねーか」
これ完全になめられてるよね。ペコちゃんキャンディー並みになめられてるよね。ベロベロだよね。
もうこいつらにはミルキーグーパンチの味を教えてやった方がいいのだろうかと小一時間。
いや、よそう。児童虐待だ。
「ええと、まずは姉、月島奈央」
「はーい」
返事は妙にいいな。間延びしてるけど。
見たところ、特徴的なのはショートカットに切り揃えられた桃色の髪。
佇まいは整然として、瞳が強く何かを見据ている様子だ。少なくとも、その雰囲気から『姉』であることは見て取れる。
「よーし、次は妹だ。月島真央」
「はあい」
こっちは余計に間延びしてやがる。眠いのか?朝イチで点呼をとる小学校の先生みたいな気分だ。
特徴は、というか姉との相違点は髪型。青みがかった黒髪が、真っ直ぐに腰のあたりまで伸びている。
その佇まいは正に妹然とした妹で、幼さとあどけなさが滲む。先程から小さな欠伸が絶えないのも、その印象を確かなものにしている一つだ。
ただ、眠っている姿は良く似合いそう……というより、今まさに眠たくて仕方ない様子だ。
こう見ると、二人とも可愛らしい容姿をしている。しかしながら、俺にはどこか違和感の付きまとう外見に見えた。
「奈央さんに真央さんね。まあ結構印象が違うのは有り難いな、見分け易いし」
ぶっちゃけ人の顔や名前を覚えるのが苦手なため、双子とかは迷惑に思ったりしてるのだが。
しかしこの姉妹に関しては、これだけ特異な出逢い方をした以上、嫌でも覚えられてしまうのだろう。
「そんで、二人とも今年で15か……考えたら、俺の一個下じゃん」
「そこで『考えたら』って変な言い回しですね」
人間誰しも持っているであろう皮肉センサーを発動させたのは姉の奈央さん。
しれっと含みある言葉を使ったのを聞き逃さないのは流石と言える。いや、この称賛さえある種の皮肉なんだけど。
「はっきり言って小学生である可能性も視野に入れてたからな」
「その目腐ってません?もしくはビー玉だったり?」
「剥製かよ。俺の目は硝子ほど輝いてないっつーの」
あとビー玉は腐らねえだろ。って、気づいたら自分自身さえ皮肉っていた。ちょっと落ち込む。
「精神年齢の観点からすると女性の方が早熟ですし、むしろ私たちの方が年上と言えなくもありません」
「その理論は無理がある。だいたい君らは見た目より仕草の方が幼げだし」
見た目こそ一個下で通じる範疇にあっても、なにか決定的に欠ける部分があるように感じる。
その答えがあらゆる経験値の不足であることは、もう少し先にならないと気づけないのだが。
二人を見るに、質問に答えるのは姉の奈央さんが中心。妹の真央さんはといえば、ニコニコとしながらも徐々に意識が眠り始めているようだった。
けど、まだ眠らせやしない。ここからは踏み込まなくちゃならないから。
呼吸を整えて、瞳と肝と腰とを据える。あくまで柔らかく、それでも木綿の鎖のように。
「それで……まだ15のお嬢さん方が、ここに居候だって?」
纏う空気を変えれば、言葉の与える印象さえも変化が生じる。姉妹が感じ取ったのは、侵入者の臭いだったようだ。
「おかしいんだよなあ、君ら全部さ。……おかしなことには説明がなくちゃならないだろ?」
気が引ける部分もあるけど、ここは多少圧迫するくらいの気持ちで押しさなくてはならない。
今はまともに会話してることさえ『おかしい』のであって、姉妹にその不自然さを理解させなくてはならないから。
「……ただの家出姉妹だと思ってくれてれば、それでいいですよ」
目を逸らしながら、奈央さんはぽつりと呟いた。このまま話さえ逸らしてしまおうか、なんて考えていそうな口振りである。
「それは無理だ。俺は雨濡れの捨て猫を拾って来たわけじゃない」
「でも、雨濡れの捨て猫が雨宿りに来たようなものです。大して変わりません」
俯いて答えるのは真央さん。ようやく危機感を覚えたのか、間延びした口調とは裏腹に表情を曇らせている。
「そういうわけにもいかないだろ。この先に君たちが望むのが犬猫同然の扱いであるというなら、俺は一向に構わないけど」
「やけに脅迫的ですね。家出の小娘くらい黙って匿う度量はないんですか?」
この姉は非常に無茶苦茶なことを言ってくれる。今どき犬猫ですら匿ってくれる人は少ないというのに。
「家出と表現するなら尚更だわな。小娘共の遊びに付き合えってか?馬鹿にすんな」
失言かも、とは思った。ここまで言う筈じゃなかった。深追いし過ぎれば、手痛い反撃を食らうのは目に見えている。
「小娘共の家出なんか『遊び』だと?……辛いと感じるのは、子供だって大人だって同じときの筈です」
案の定、強い口調で切り返してくる奈央さん。俺も随分と偉そうなこと言ってるけど、こいつらもかなりのものだ。
その大概な発言が若さゆえなのか、はたまた俺なんかじゃ想像もできないような辛い経験に基づくことなのかはわからないけど。
「だったら上の部屋を使えばいいだろ。家庭も他人も介在しない、二人っきりの楽園じゃねえか。俺の部屋に住む理由がない」
俺は、この娘らの家出に対して説教したいわけじゃない。ただ、俺と一緒に住むってのはなんなの?
こっちはいろいろあって暫く他人と関わりたくないっていうのに。まるで傷口に重曹塗られるみたいだ。
「……貴方には理解らないのでしょうね。その理由は」
そんな悲しそうに言われても、どうしようもなかった。辛くて苦しくて、何もしてやれない。
あんたこそ理解らないだろう。今の俺が誰かと生活するってのがどんな意味を持つのか。
何もかも満たされていたあの日々を上書きして消してしまうのが、どんなに恐ろしいことなのか。
持ってる奴は持ってる有り難さを知らない。けど、失う怖さを知ってる。
持ってない奴は持ってる有り難さを痛感できても、失うことの怖さなんて知りもしない。
だから多分、人は理解り合えない。
「ああ、わかんねえよ。あんたらの事情とか、苦しみとか辛さとか、俺には関係ないだろ?」
そんな、あかの他人の過去や未来に加担して生きていくなんて大層なこと、俺にはできない。したいとも思わない。
「第一、俺なんかに理解ってほしいのかよ。知ってほしいのかよ。自分たちのことを」
本末転倒の極みだった。自分達の事情を語らないまま、それでも辛さを受け止めろと言う。
それは不可能だ。誰かに理解してほしいのなら、自分の全てを晒すことは大前提。そうでなければ道理が引っ込む。
道理が引っ込めば、もう残るものなんてない。真理と倫理と道理を並べられぬのなら、人に果たせる望みはない。
「……知ってほしくなんかありません」
沈黙の後、答えたのは真央さんだった。それは明確な意思で、他人の介入を拒む本心で。
「それなら黙って上に行くと良い。父さんが生前に何か言ったんなら、謝るし責任はとる。部屋を一つ、勝手に使えばいい」
「……でも」
冷たく突き放す俺に、無垢の妹はそれでも食い下がった。その時、ようやく気づけた。
知ってほしくなんかないって。そう言い切った真央さんの眼に、もう一つの意思が宿っていること。
「―――でも、教えてほしいことがあるんです。すごく、たくさん」
教えてほしいこと。真央さんは確かにそう言った。そして、その言葉に奈央さんが続いた。
「あの人が言ってくれたんです。普通に生きて、普通に幸せになる。そんな当たり前がほしいなら、俺の家に来いって」
どうしてかな。俺は、すぐにそれが父さんの言葉だとわかった。確信すらあった。
「覚悟があるのなら、俺の家族になってみろって。そう言ってあの人は、このアパートを教えてくれたんです」
遠い日を思い出すかのように、彼女は目を閉じながら復唱した。その声が、言葉が、父さんと重なって。
「父さんが、そう言ったのか?」
「……はい。私たちは、その言葉を信じてここに来ました。いろんなものを捨ててです」
つまり、この娘たちは不幸だったのだろう。普通に生きて普通に幸せになる。そんな当たり前のことをできずにいたのだ。
そんな当たり前の幸せが身近にあることを知りながら、それでもまるで絵空事のように、ただ夢見ているしかなかった。
それは、なんて辛いことだったろう。
父さんは、そんな姉妹に当たり前を教えようとしたのだ。そのために、二人を家族に迎えた。
父さんの考える当たり前の幸せは、家族を基盤として存在するのだろう。
俺だってそうだ。父さんがいて、母さんがいて。当たり前みたいに一緒に毎日を過ごして。
それがどうしようもなく温かかったからこそ、今の俺の手はこんなにも冷たいのだろう。
でも、そうだな。あの温かさを知らないで生きるなんて、そんなのは悲しすぎると思う。
出来ることなら、目の前の姉妹にだって。
ああ、だからか。父さんが姉妹を自分の家族にしようとしたのは。
福祉施設を紹介して、経済的に支援したり。うちのアパートにいれて、世話を焼いたり。
そんな方法をとらなかったのは、それじゃ全然足りないからで。……だから父さん、俺は理解るよ。
「……父さんは、確かにそう言ったんだな?」
「はい、確かに。忘れる筈も間違う筈もありません」
二人がどんな生活をしていたのか、俺は知らない。恐らくは知らされることもない。
普通の幸せから欠け離れた生活。恵まれ過ぎてたことに気づけないくらい間抜けな俺には、想像もできない。
けれど、父さんは約束したのだ。普通の幸せを与えてやると。
姉妹は望んだのだ。普通の生活、普通の幸せを知りたいと。
ならば、最初から俺にとやかく言う権利はない。俺はただ、できることをやってやるしかないのだ。
それが父さんの望みだったなら。父さんの残した未練だったなら。このアパートの存在する意味ならば。
今の俺にできるただ一つの親孝行は、その意思を継いでやることしかないのだから。
今の俺が、この冷えきった心と手が、普通の幸せを与えてやれるかなんてわからない。
それでも…
「二人は、ここにいたいんだな?」
「ええ、もう帰る場所もありませんし」
「行く場所すらもありませんし」
「……そっか」
結局、最初から逃げ道なんてなかったんだ。だって父さん、あんたはきっと、こうなることを望んでたんだろう?
俺がこうやって言うことを、今もどこかで望み続けてるんだろう?だからさ。
「それなら………勝手にしろ」
俺の言葉を聞くと、二人は顔を見合わせて笑った。とても嬉しそうな笑顔だった。
面倒事は山程残ってるのだが、とりあえずはこの笑顔を見られたことで良しとしよう。
後のことは後で考えればいい。今やるのは今しかできないことでいい。そうやって、ゆっくりと積み重ねていこう。
不意に、真央さんが何かに気づいたらしくこちらを向いた。さっきまでと同じ顔が、どこか親しみを感じるものに見える。
単純な話。開き直ってしまえば済むだけのこと。俺が最も苦手で、親友の最も尊敬できる部分。
「そういえば、名前を聞いていませんよね?」
ああ、そうだった。これからの共同生活が始まるのだから、しっかり名乗っておかねばならない。
「俺は氷名御遥人。16歳の高校一年だ。まあよろしく」
「えと、遥人……さん?」
奈央さんが遠慮気味にそう呼ぶと、真央さんが底抜けに明るく微笑む。
「よろしくお願いします、遥人さん!」
それがなんだか、妙に恥ずかしくて。頬を掻きながら、目を泳がせながら、俺は一度だけそっと頷くのだった。
それは、孤独の日々の終わりの証。そして、底抜けに間抜けな『日常』の始まりだった。
第二話『普通の生活、普通の幸せ』END
第三話『知ってること、知らないこと』に続く。
こんな駄文、修正してやる!