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正義病

作者: アオト

──上──


 大学一年生の長藤ながふじ 慶一けいいちは、居間のイスに座りながら、ある雑誌のコラムに目を通し、感心していた。


 いつもなら、コラムなど、サッと目を通すだけだ。だから、感心するどころか、言葉を反芻することもなかった。ではなぜこのコラムに限っては、いつもと違ったのか。それにはちょっとした訳がある。


 この慶一という男は、自分が心優しい人間だと信じて疑わないのだ。そのナルシスト具合は、大学の入試試験のとき、面接官に向かって「世界のどんな人間より自分は心優しい」と胸を張って自己PRしたほどである。

 だが勘違いしないで欲しい。彼は心優しくなどない。ただ単に、自分が心優しいと信じ込み、満足がしたいがための、自己中な野郎なのである。


 だからコラムを見て感心した、というより、自分より心優しい考えができるコラムの筆者に、嫉妬したと言った方が適切かもしれない。


 さて、ではそのコラムには、どのような内容が書かれていたのだろうか。

 簡潔に言えば優先席についての考察だった。もっと詳しく言えば「空いている優先席には積極的に座り席を確保しておき、必要のある人が近くに来たら譲ってあげよう」というものだった。


 慶一はこの内容に驚いた。

 優先席とは健常者が座るべきモノではないと考え、皆もその考えを持つべきだとしていたからだ。そうすれば、優先席の対象になってる者が確実に座れる。それに勇気を出して譲る必要もない。


 しかし、コラムを書いた作者の考えは、違ったのである。

 作者の考えでは、優先席だろうが、平気で座る若者が少なからずいる。そして、彼らはその自己中的な考えを変えない。ならば席を譲れる者が率先して優先席を確保すれば、席を必要とする者へ確実に渡せる。そう言うのである。


 これに慶一は、まったく反論できず、自分の考え方が間違っていたと反省した。しかしそれと同時に、やはり嫉妬の感情が混ざり合う。


 だからといって、この考えを無視するわけにはいかない。なぜなら慶一という男は、世界一心優しい人間でなければならないからだ。こんなコラムを書く人間に、負けるわけにはいかない。せめて引き分けでなければ、気が済まない。


 そのような心情で、慶一は次の日の通学から、このコラムの考えを実行した。


 早々に家を出て、川越駅のホームの最前列に並び、優先席を確保する。川越から終点の新宿までは約一時間ある。その間に、一人でも怪我人なり、妊婦なり、ご老人なりが車内に入ってくれれば良いのである。


 それにもし、電車内でチャンスがなくとも、大学までのバスで同じことが起これば良い。そう考えていた。


 すると、さっそく所沢の駅で、一人の老爺が乗ってきた。慶一はここぞとばかりに立ち上がり「席、どうぞ」と言った。


 このとき、慶一の心の中は優越感と達成感でいっぱいだった。これでまた、世界一心優しい男になれた。そう確信したのだ。しかし、そんな彼の心は、無惨にも踏みにじられた。


 老爺は、にこやかに笑う慶一を睨みつけると、響きのある低い声で「オレはそんな歳をとってない!」と怒鳴りつけた。

 これには慶一も驚いた。しかし、謝ることもできず、そそくさと隣の車両へと逃げることしかできなかった。


 慶一は、車両の連結部の近くに立った。そこから小さな窓を覗いて、あの優先席を見やる。やはりあの老爺は、不愉快そうな顔をしながら立っていた。

 では、慶一が座っていた優先席は、空いた状態なのだろうか。実は、そんなことはない。


 例の優先席には、別段、怪我をしてるわけでも、体調が悪そうでもない、若い若い男が座っていたのである。


 いつもの慶一なら、ここでいら立っていただろう。こういう若者がいるから、若者全体の評価が悪くなるのだと。


 しかし今日の慶一は違った。


 この若者も自分と同じように席を確保しているのであろう。そう思ったのである。だが、そうでないことは、電車が田無の駅に停車したところで証明された。


 また一人、今度は老婦が乗ってきたのである。慶一はここで若者が、席を譲るものだと思った。


 しかし、この若者は席を譲ることはなかった。もちろん席を譲る勇気が出せないでいるのかと、慶一も最初は思っていた。だが、若者が漫画を読み始めたところで、その考えもできなくなってきた。


 結局、終点まで若者が席を立つことはなく、その頃には慶一の心の中は、若者への侮蔑と憎悪の心で埋め尽くされていた。


──中──


 大学が終わった慶一は、朝のことを考える。まず最初に浮かび上がるのは、あの若者のことだが、もう顔を思い出すだけでも嫌なので、今はスルーする。


 次に浮かび上がるのは、あの老爺のことだ。女心は複雑だ、とは言うけれども、老人の心も負けじと複雑だ。ため息交じりに、慶一は心からそう思った。


 ──触らぬ神には祟りなし。

 ──しかし譲らないわけにもいかないな……。


 帰りのバスを待ちながら、いい手はないかと模索する。──ん、待てよ。

 そしてそこで、あることを思いついた。


 触らなければ良いのなら、無言で席から立ち上がれば良いのではないだろうか。そうすれば、年寄り扱いされたとも思わないだろうし、空いた席に座るのは、とても自然なことだ。


 慶一は再度、帰りの電車で実行することにした。バスでそうしようとしなかったのは、大学近くのバス停で乗っても既に人が満員で、優先席を確保できないからだ。


 案の定、二分遅れで来たバスは、満員だった。


 満員バスに揉まれること、十数分。慶一は、バスを降りるなり、駅へと走ると、ホームの先頭に立った。そして、次に来るであろう電車を待った。


 数分が経つと、後ろに人が並び始めた。慶一はなんとなく後ろを振り返る。もし怪我人なり、妊婦なり、ご老人なりがいたら、席を確保する前に譲らなくてはならないからだ。


 しかしその心配はなかった。が、別の心配がここで生じた。

 列の最後尾。そこに朝の車内で、優先席に堂々と座っていた若者の姿があった。


 今朝のいら立ちを思い出す。あの若者の顔を見るだけで、憎悪の心が湧き始める。

 しかし今さら、列を移動するわけにはいかない。ここで移動したら、優先席の確保はとうてい無理だ。ならば、いっそのこと、次の電車を待とうか。


 そう思案しているうちに、黄色の電車がホームに滑り込んだ。ドアが開き、人が流れ出る。慶一はここまできて移動するのも面倒だったので、電車に乗り込むことにした。


 ようやく車内が空っぽになったところで、慶一は電車に乗り込んだ。


 そして真っ先に優先席を確保する。と、目の前に、あの若者が、咳き込みながら立った。慶一は、とても不快になった。自分の目の前で咳をされたこともそうだが、それだけではない。このような自己中な若者がいるから若者全体が悪く言われるんだ、という今朝抱いた、いら立ちが戻ってきたことの方が大きい。いや、ここまで来ると、嫌悪感に近いかもしれない。

 理由はどうであれ、不快なものは不快なものだった。慶一は自然と顔をしかめる。


 ようやく電車が出発したころには、その嫌悪感もだいぶ和らいだが、それでも憎悪の心が消えたわけではない。


 いや、消えるどころか、風邪をひいてるわけでもなさそうなのに咳を込む真似をしている若者に、さらなる憎悪心を抱く。

 まぁ風邪をひいていないとは断言できぬが、それならマスクをするのがマナーだろう。つまり、どう転んでも、若者への憎悪は、やはり消えないのだ。


 と、ふいに若者のカバンについたストラップが、目に入った。電車がレールとレールの切れ目を通るたびに、それはブラブラ、ブラブラと揺らめく。「赤色の生地に白いプラスマークと白いハートマーク」の柄が入った、とてもシンプルなものだ。最近の流行りだろうか。


 だが、慶一にとっては、どうでも良いことだ。第一、勉強だけが取り柄の慶一からしたら、流行りを知っても、若者の嗜好を知っても、無意味でしかない。


 慶一は、疲れたそうにため息をつき、若者の右側へ視線をずらす。これ以上、若者を、若者の所有物を、見たくなかったのだ。


 と、若者の右隣には、老婆が立っていた。いつから乗ってきたのだろう。

 いや、そんなことは今、慶一にとって、どうでも良いことだった。それどころか、とにかく老婆が若者の隣にいるという事実さえ分かれば、それで良かった。

 慶一は強く拳を握りしめると、無言で立ち上がる。そしてドアの付近まで歩いて行く。


 やはり優越感と達成感を感じつつ──もはや快感すらも感じつつ──慶一は優先席を眺めた。


 しかし、またも彼の思い通りにはいかなかった。快感はことごとく打ち消される。いや、それどころか、憤怒の心が湧き上がった。


 優先席に座っていたのは、老婆ではなかったのだ。座ったのは、慶一の目の前に立っていた若者だったのである。


 慶一は、若者になにかを言ってやろうかと思った。だが、慶一以外も、つまり周りの人間も、慶一と同じ心持ちだったらしい。その場の全員の視線が、優先席に座る若者へ集中していた。各々、感情は違っただろうが、やはり白い目なのには変わりない。


 これでさすがに席を立つだろう、と慶一は思った。


 だが、それでも若者は肩をすくめて、咳き込みながら座り続けるのみだった。慶一は、世界一心優しい自分と、この自己中な若者とを心の中で比較して、心底呆れ果てた。

 そして、顔も見たくなく、そのまま終点まで、流れる夜の街並みを見続けた。


──下──


 さて、それから三年が経ち、慶一の大学ライフも終盤に近づいた頃、彼にとある変化が訪れた。呼吸器機能障害を患ったのだ。


 酸素と二酸化炭素の交換がうまくできなくなっているらしく、常時息苦しい。おかげで立ってるだけのことが一苦労で、咳も出る。


 こんな身体で電車通学というのは、とても苦しいものだった。だが、あいにく慶一は車の免許を持っていない。また彼の両親は共働きで、彼を大学へ送る余裕もない。

 そのため、彼はその身体で満員電車に揺られることを余儀なくされた。では、通学が苦痛になったのか、と言えば違う。


 彼はヘルプマークというものを貰い、それからは堂々と優先席に座ることができるようになったのである。おかげで苦労はしなかった。


 ある日の通学までは。


 慶一がいつものように優先席に腰掛けていると、所沢の駅で、いかにも力のなさそうな、杖をついた老爺が乗ってきた。そしてトボトボと慶一の前まで来ると、おもむろにつり革に掴まった。


 だからといって、慶一はどうするわけでもない。ついこの前なら無言で立ち上がり、席を譲っただろうが、今は自分のことだけで精一杯だ。そんな他人に気を遣えるほどの余裕はない。だから、慶一は優先席に座り続けた。


 すると、周りの視線が鋭くなったことに、慶一はふと気がついた。なんだか白い目で見られている。それどころか、睨んでいる者までいる。


 その目に、慶一は見覚えがあった。が、どこでそれを見たかまでは、覚えていなかった。

 それに、今は、なぜ自分が睨まれるてるのか、という疑問の方が大きかった。


 ──なんだよ……なんで睨まれてんだよ。

 ──爺さんに席を譲らないからか?

 ──俺だって障害を持ってるのに。

 ──このストラップが見えないのかよ。


 慶一は学生カバンにつけた、ヘルプマークを見た。「赤色の生地に白いプラスマークと白いハートマーク」の柄が入ったヘルプマークは電車が揺れるたびに、ブラブラと動く。


 これを見て、慶一は三年前の若者のことを思い出した。当然、若者が持っていたあのストラップも、鮮明に思い出す。


 そう、当時は流行りだと思っていたあのストラップ。あれは今、慶一が学生カバンにつけている、ヘルプマークそのものだった。


 だとすれば、若者へ周囲が向けていたあの白い目は……。あの憎悪は……。あの侮蔑は……。


 慶一はわなわな震えながら、再び周囲に目を向けた。眼前には相変わらず、眉間にしわを寄せた人々の鋭い視線があるだけだった。

 どうもアオトです。柄に合わない作品(友人談)を書いてみました。


 この物語は、登校中の出来事(ご老人が優先席に座る若者に怒鳴っていた)から思いつきました。

 まぁこの出来事では、若者はヘルプマークを持ってませんでしたので、内部障害を持っていたかどうかは分かりませんが。

 ただやっぱりヘルプマークの存在ってあまり知られてないらしく、かく言う私も内部障害を持つ友人に教えてもらってなければ、全然知り得ませんでした。

 この話を読んで、こういう内部障害を持つ人の存在を知ってもらえれば、と思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 非常に面白かったです。自分だったらどうするか、も考えながら読んでいきましたが、この主人公をほとんどトレースするだとうという結論でしたね。 この悲劇は、いったい誰が、なにが悪いのだろう。
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